吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 忘却の風土

005 : Volo vobis.

「あの飾りは、そこの図と同じように置いて。壊れやすいから気をつけて」
 ラトがそう指示を出すと、肉屋の男が頷いた。そうして機敏に作業に戻っていく背中を見送りながら、ラトは小さく溜息をつく。
(人に指示を出すのは、案外骨が折れるな――)
 手に持った図面を丸め、肩を回す。そうして広場に出来た台座を登ると、相変わらずのモノクロの世界が一望できた。
 レンガ造りで背の低い家々、張り巡らされた細い小径。……色のない世界。乾いた砂を積み上げたような、何もかもが虚しい偽りの町。しかし長くラトの心を煩わせていたそれらの景色が、今では逆に、ラトの心を沸きたたせる。
 薄く笑んで、傍らにそびえ立つ鐘楼を仰ぎ見る。そこにも何人か、ラトの指示通りに忙しなく働き回る町の人間を見て取れた。
「――ラト!」
 明るい声に名を呼ばれ、ひょいと広場を見下ろしてみる。すると思った通り、朗らかで明るい栗色が、ラトの視界へ飛び込んできた。ハティアだ。
「ラト! ほら、見て。素敵でしょう。町の人が着せてくれたの」
 そう言いくるりと回ってみせた彼女は、なるほど、普段の旅人のような風貌とは打って変わった格好をしていた。長い髪をゆるく結わき、白い花の髪飾りでとめている。身に纏っているものも、白を基調としたサテンのローブだ。ラトが仕立屋に指示しておいた通りの、祭巫女が祭事でする出で立ちをしている。
 祭巫女とは、この国レシスタルビアで祭が行われる際、その町の中心となって祭事を執り行う娘のことを言う。いささか緊張した面持ちで「似合うかしら?」と問う彼女に、ラトは「似合うよ」と苦笑した。
 ラトがハティアと共に鐘楼から町を見下ろした、一週間後のことである。
 あの日。ハティアの歌声が止むと同時に、マカオの町も再び色を失った。それはまるでほんの一瞬でも色づいたこと自体が幻だったのではと思えるほど、あっという間の出来事だった。
 それでも、ラトの涙は止まらなかった。何か得体の知れないもの――喜びとも悲しみともわからないそれが心を支配して、必死に涙を堪えようとするラトに、そうすることを許さなかったのだ。
「ラト。……ラト、何故泣くの」
 ハティアの問いかけは確かに耳に届いていたのだが、それでもラトは答えなかった。答えようにも言葉が喉の奥に引っかかって、少しも音にならなかったのだ。
 なぜ泣くのだろう。ラトこそ口に出して、誰かにそう問いたかった。
 なぜ涙が溢れるのだろう。なぜちっとも止まらないのだろう。
 なぜ、なぜ――。
 その間、ハティアは困ったように眉根を寄せ、なにも言わずにそこにいた。しかし不意に、ぽつりと呟く。
「ほんの一瞬垣間見えたあれが、ラトにとっての『本物』なのね」
 やけに心細げな、どこか悲しい呟きだった。彼女はラトに身を寄せて、そっと肩を抱きしめる。
「ラトはそれ程、『本物』の世界へ帰りたいのね――」
 ハティアのふわふわとした質の髪が、ラトの鼻先をくすぐった。
 セージの小さな花弁を思わせる、屈託のない香りが広がっていく。
「ハティア」
「私、ラトに協力するね。私の歌がこの世界に何か影響するなら、何度だって歌ってみせる。だからラト、……どうか、泣かないで」
 必死な言葉に、不意に頬が優しく緩んだ。ああ、彼女は本気で言っているのだ。そんな思いがじわじわと、ラトの空虚を満たしていく。
(この人は……会ったばかりの人間に、どうしてそんな事を言えるんだ)
 微笑む。しかしそうは考えながら、ラトは自らの考えに、首を横に振った。
 何故だろう。ラト自身も、もはや彼女のことを見知らぬ旅人とは思わなくなっていた。もう何年も前から、彼女のことを知っていたような気がするのだ。そしてそれを思うと、心が優しく満たされるのだ。
 しかしそうしてハティアを抱きしめ返そうとして、……不吉に響いた心音へ、思わず体を凍らせる。
――おまえは、思い込んでいるだけさ。
「ラト?」
 尋ねられて、「なんでもないよ」とそう返す。しかし唐突に脳裏を過ぎったその言葉に、戸惑いを隠せないのも確かであった。
――その目さえなければ、おまえと町の子供とどこが違う?
――思い込んでいるだけさ。友達になんてなれないと、思い込んでいるだけなのさ。
 この一年間、悪夢に囁かれ続けてきた言葉。憎たらしい禍人の言葉だ。今は禍人のことなど少しも考えたくはないのに、こうしてハティアと接していると、なかんずく、その時の事を思い出す。ラトの心に、煩わしい警鐘が鳴り響く。
 あの時は、ラトも禍人の言葉に頷いた。だが結局、その為にラトは身を滅ぼしたのだ。
 甘い幻想を信じた為に、冷たい棺へ閉じ込められた。
「……ねえハティア。僕は、君を信じて良いのかな?」
 薄い微笑みだけが零れる。聞いてハティアはきょとんとして、それから、心外そうに頬を膨らませた。
「大丈夫よ。私、一度思い出したことは忘れないように気をつけるもの。ちゃんと歌ってみせる」
 「ラトは私を信じてないのね」そう言って、ハティアがラトから手を放す。優しい温度が遠のいた。
 ラトは何も言わず、ただハティアのふくれっ面を眺めていた。そうして、どくんどくんとやけに鳴る、自らの胸を強く掴む。
「……信じてるよ、ハティア」
 低い声で呟き、それから。
「だからもう一度、歌って」
 
 翌日から二人は、幾度となく鐘楼に登った。
 マカオの町はどうやら、ハティアが歌う間だけ色付き、歌を失うと同時に色も失うらしい。そうしてあれこれ試すうちに、わかったことが幾つかある。
 まず一つ。町が一斉に色づくのは、ハティアが鐘楼で歌う間だけだということ。例えば町の広場で歌ってみても、なにものも色づきはしないのだ。次にわかったこととして、距離のことがある。ハティアが歌い続けていても、ラトが歌の聞こえないほど遠くへ行ってしまうと、町のものは色を失って見えた。
 そうして最後にもう一つ、最もラトの心を沸き立たせた発見がある。
「鐘楼の鐘」
 ハティアの歌を聴きながら、ラトがその名を呼んでみせる。すると呼ばれたそれだけは、歌が止んだ後も、色を失わずに済んだのだ。その事に気付いた時、ラトは、ハティアの手を取り喜んだ。
 一年前、中途半端に色を取り戻したままになった丘の緑を思い出す。もしやこうして町の色を取り戻していけば、何か活路が開けるのでは。そう考えるとラトの心は、期待の熱で汗ばんだ。
「ねえ、ラト。私、考えたんだけど」
 ある日ハティアがこう言った。
「今のままだと、私の声が届かないところまでは、町の色を取り戻すことができないでしょう? だから、お祭りをやってみるのはどうかしら。
 あのソラリスの歌は、本当は町のお祭りで歌うための歌なんだって言っていたよね。たくさんの人が一緒になって、歌ったり踊ったりしながら祭事を祝うんだ、って。だったら、このマカオの町でもやってみたらいいんじゃないかって思ったの。町の人たちと一緒にお祭りをしながら、私は鐘楼で歌を歌って、ラトは町中のものの名を呼ぶのよ。そうしたら町中が歌でいっぱいになって、私自身の声が届かないところにも、町を色づけるための力が宿りはしないかしら」
 ハティアの提案は突拍子もなかったが、ラトは諸手を挙げて賛成した。いささか手間はかかりそうだが、今は何でも試してみたい。それで駄目なら、また違う案を練ればいいだけだ。
 祭りの準備はあっという間に進んでいった。ラトは町にある祭りの資料を読み返し、仕事を割り振り、指示を出した。ハティアもそれを手伝った。
「ねえラト、お祭って凄いね。いろんな準備があって、その全てをみんなで協力しながら、一つのものをつくりあげるの。町の人達、みんな楽しそう」
 ラトには自分の思う通りに動く偽りの町の住人が、「楽しい」などと感じているようには思えなかったが、それでもハティアに話を合わせた。町の人間がどうあれ、彼女自身が楽しんでいるのなら、それでいいかと思えたからだ。
 何よりラト自身も、華やいでいくマカオの町を見るにつけ、浮き足立つのを感じていた。
 
 マカオの町の大通りを、モノクロの花が飾っていく。その中心をそぞろ歩きしながら、ラトは傍らを歩くハティアへ振り返った。好奇心旺盛な彼女はどこにでも寄り道するものだから、こうして度々確認しなくては、あっという間に見失ってしまうのだ。
「ねえ、ラト。あの木の板は、祭で使う仮面を作るのに使うのよね」
「そうだよ」
「お祭の日、大人はみんな目許を隠す仮面を被るのよね。それで、仮面にはどれも、ポトリティカの黒い樹脂を塗るの」
「そうそう」
「ねえ、でも大人と子供の区別って、どうやって決めているのかしら。子供はいつから大人になるの? 私は仮面、被らなくてもいいのかしら……。あっ、待って! ラト、おいて行かないで!」
 言って、ハティアが追いかけてくるのがわかる。こうしたやりとりも、この一週間ですっかり慣れっこになってしまった。『一度思い出したこと、学んだことは忘れない』と心に決めた彼女は、こうしてなんでも口に出してみることにしたらしい。
 軽い疲れを感じ、溜息をつく。しかし一度目が合うと、彼女のことをそれ以上無碍に扱う気にはなれなかった。
 ハティアを見ていると、何やら光を得た気になった。
「そんなにあちこち寄り道すると、またはぐれるよ」
「でも、ラトは探しに来てくれるもの」
「次は行かないかも」
「ラトの目は、口とは違うことを言ってるわ」
 真顔でハティアがそう言った。ラトは思わず苦笑して、ハティアに向かって手を差し延べる。「探しに行くのは大変だから」と言えば、ハティアはくすぐったそうに笑みを浮かべ、そっとラトの手を取った。
「この調子でいけば、明日にも準備が整いそうだね」
 「そうね」とハティアの明るい声。しかし遠くにそれとは違う声を聞き、ラトは思わず立ち止まる。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん、どこにいるの……!」
 ニナの声だ。なにやら切羽詰まった様子で、ただただラトを呼んでいる。ラトは驚いたが、すぐに声へと駆け寄った。
「ニナ、一体どうしたの」
 角を曲がると、泣きじゃくりながら走る妹の姿が視界に入る。しかしその見慣れた人影に、ラトは小さく息をのんだ。
 ニナの姿が、一瞬色づいて見えたのだ。
 立ち止まり、表の二つの目をこする。するといつも通りにモノクロのニナが、道を駆けてくるのがわかった。
「お兄ちゃん、――お兄ちゃん、どこなの!」
 ラトの姿が見えていないのだろうか。ニナが尚も呼ぶのを聞いて、ラトは再び駆け寄り、走るニナの手を取った。
「ニナ! 落ち着いて。僕はここだよ。そんなに泣いて、何があったの」
 それでもニナは泣きやまない。しかしすすり上げながら、まずは一言、「母さんが」とラトに告げた。
「母さんが、何か……」
「倒れたの。 顔を真っ青にして、口から、たくさん血を吐いた……!」
 「えっ?」と小さく問い返す。妹の言葉の意味を、すぐには理解することができなかった。
 この町は、偽りの町。かつてラトが望んだような、穏やかで平和な日々を繰り返すだけの町。そう信じて疑わなかった。それなのに。
(何故、母さんが)
 「ラト」と遠慮がちに呼びかける声。ハティアだ。ラトは泣きじゃくるニナの手を放し、ハティアに向かってこう言った。
「丘の家へ行ってくる。ハティアはこの子と、後から来て」
「……、わかった」
 ハティアが頷いたのを見て、ラトは丘へと駆けだした。

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