吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 忘却の風土

004 : Audio campana. -2-

 ソラリスの歌。その言葉には覚えがあった。この国レシスタルビアに古くから伝わる、祭事の際に歌われる曲、――もとい、この国の建国を言祝ぐ祝い歌だ。
 この辺境の町マカオにも、収穫の祭くらいはある。町へ降りるのを許されないラトはそれを丘の上から眺めるのみであったが、明るく楽しげないくつかの歌は、伝え聞いて知っていた。だが確かそれらの曲は、竜鼓と笛によって演奏されていたはずだ。鐘の音など、関わりがないはずなのだが――
「あら、……ラト」
 背後から不意に聞こえてきた声に、ラトは思わずびくりとした。そうして慌てて振り返り、声の主に視線を移す。
「――、母さん」
 そこに立っていたのは、大きな浅い籠を手にした占い師であった。恐らくは、町へ薬を納めにきたのだろう。籠には数々の瓶が敷き詰められ、苦みのある草の芳香を漂わせている。意味もなく愛想を振りまくことをしないこの占い師は、にこりともせず、ただ肩にかかった髪を払った。
 彼女の長い黒鳶色の髪は、モノクロの世界によく馴染む。そのせいか、ラトはこの占い師に出会う度、まるで自分が現実の世界に戻ったかのような、あるいは偽りの世界に迷い込んだことなど夢であったかのような、そんな不思議な気分になった。
「久しぶりね。町の家でも、ちゃんとご飯は食べている?」
 タシャはラトに、そう問うた。ラトが丘の家へ帰らなくなってから、彼女は顔を合わせる度、全く同じことを言う。
「大丈夫。ちゃんとやってるよ」
「そう。おまえはしっかりしているものね」
 ラトはただ苦笑して、その言葉へ答えずにいた。そうして佇んでいると、今度は肩をたたかれる。ハティアだ。振り返って見てみれば、なにやらいささか顔色が悪い。
「ラト。この人は……誰」
 そう問う声が、震えていた。ラトは訝しんで、しかし迷わず、「この町の住人だよ」とだけ答える。ラトの答えに対して、タシャは何も言わなかった。占い師は、ただハティアのことを見ていた。
「はじめまして」
 タシャが言った。
「はじめまして……」
 ハティアも言った。そうして彼女は、ラトの腕を強く引く。
「ラト、行こう。今日はこれ以上歩いても、何も思い出せそうにないわ」
「だけどさっきは鐘の音で、何か思い出しかけたんじゃ」
 ハティアが声なく首を振る。気付けば鐘は鳴りやんでいた。
 「もう行くの?」とタシャが問う。ラトは曖昧な答えを返してから、しかし、すぐに頷いた。もとより話を続ける必要もない。「じゃあまた」とだけ声をかけ、ラトはタシャに背を向ける。
「ラト」
 タシャがぽつりと、ラトを呼んだ。しかしラトが振り返っても、彼女は占い師然とした陰のある笑みを浮かべて佇むばかりだ。ラトは再び背を向けて、家への道を歩き始めた。
 鐘楼のすぐ近くを抜けるまで、ハティアは口を閉ざしたままだった。歩く速度はそれ程速くないにしろ、あちこち見回し遠回りばかりしていた先程までとは打って変わった態度である。ふと見れば、顔もいささか青ざめていた。いったい何だというのだろう。
「ハティア。そこの建物が、さっき見えた鐘楼だよ」
 ためしに話しかけてみる。すると彼女ははっとした顔になって、罰が悪そうにラトのことを振り返った。そうして鐘楼を振り仰ぎ、一瞥すると、短く小さく溜息をつく。
「顔色が悪いけど、大丈夫?」
「大丈夫。ごめんなさい」
「さっきの人がどうかした?」
「ううん、そうじゃ、ないんだけど……」
 そうは言うが、態度がやけによそよそしい。先ほどまでは町の人間の視線を一手に浴びたって、気づいてさえいない様子だったのに。
 顔色もまだ戻らない。そんな様子を見れば自然と、初めて出会った時の様子が思い出された。土気色の肌、人形のようにうつろな眼。そして、死人のように冷たい体――。
(せっかく、何かしら思い出しそうなところまで回復したのに)
 こんな事で、また全て忘れられでもしたら。そう考えるとラトの胸の奥底は、どくんと昏い鼓動に疼く。
 させるものか。
 この少女は、元の世界へ帰るための唯一の足掛かりなのだ。
(それを、みすみす逃してたまるか)
 なんとしてでも、この少女からヒントを得るのだ。
 元の世界へ帰るのだ。
 ラトは傍らに佇む鐘楼を見上げ、「登ろうか」とハティアに言った。一方ハティアはきょとんとした様子で、「えっ?」と短く聞き返す。
「鐘楼。登ってみない? 景色もいいし、例の鐘を近くで見られる。気になるなら、自分で鳴らしてみたっていいし」
「そんなこと、勝手にやって怒られないかしら」
「大丈夫。許可を取らなきゃならない相手なんていないもの」
 言ってラトは、にこりと静かに笑ってみせた。
 
 質素な梯子に手をかけて、ふたりは古ぼけた鐘楼を登った。
 ラトが先に鐘吊部屋へ入り、後からきたハティアを引き上げる。するとハティアは視界へ飛び込んで来た景色に、「わぁっ」と明るい声をあげた。
 田舎町のしがない鐘楼とはいえ、小高い斜面に設置されたここからは、マカオの町が一望できる。ラトの今住む町の家、学校、広場のパン屋に、街道へと続く道。ラトが指差しながらそれらを案内すれば、ハティアはいちいち楽しげに相槌を打ち、頷いた。先ほどまでその表情に浮かべていた不安など、恐らくは、もうとっくに消え去ってしまったのだろう。
(子供みたいな人だな)
 呆れのためか、それとも別の感情か、ラトは思わず微笑んだ。それからふと、呟く。
「ソラリスの歌」
「えっ?」
「さっき、言ってたでしょう。何か思い出したの?」
 聞いてハティアは、きょとんとした顔で瞬きをする。もしかすると、自分で言ったことすら忘れていたのだろうか。しかし彼女ははっとしたように頭上の鐘を見上げると、一度小さく頷いた。
 「そうなの」ハティアがぽつりと、そう答える。
「私、鐘の音を聞いて……なんだか、歌える気がしたの。私、多分どこかで鐘の音を聞きながら、ソラリスの歌を歌っていたことがあるのよ」
「――だったら、ここでも歌ってみたら?」
 単なる思いつきであった。しかしハティアは顔を赤らめて、「私一人で?」とラトに問う。今日は随分ころころと、表情を変えるようになったものだ。そんなことを考える。
「恥ずかしがることないよ。僕しか聞いていないもの」
「でも、うまく歌えるかわからないし……。一人は、なんだか不安なんだもの」
「……。じゃあ、僕も参加しようか」
 言って、ラトは肩にかけていた鞄に手を伸ばし、木彫りの笛を取り出した。ラトがこの世界に閉じこめられてしばらく経った頃、町の楽器屋で見つけたものだ。
「ラト、笛が吹けるの?」
「ちょっとだけね」
 苦笑する。それからラトは笛を構え、そっと息を吹き込んだ。いつか無くしてしまった笛とは音色の柔らかさが違ったが、ラトはこの新しい笛が奏でる、虚空を貫いていくような音も好きだった。
 ソラリスの歌なら、何度か一人で吹いたことがある。音をとるのもお手の物だ。
 以前ラトが夢の中で笛を吹いた時には、ツキと名乗る少年がどこからともなく現れた。それを思ってこの世界へ閉じこめられてからも、幾度となく笛を吹いていたのだ――。結局のところどんな曲を何度吹いたところで、ツキは、あれきり一度も姿を見せはしなかったのだけれど。
 ハティアはラトの笛を聞いても、しばらくの間黙っていた。突然の提案に戸惑っていたのかもしれないし、もしかすると、記憶の中の不完全な旋律を、必死に思いだそうとしていたのかもしれない。けれどそんな様子を見ていると、何故だか、この少女に歌わせてみたいという気持ちが強くなった。
 ラトは音を紡ぎながら、ハティアにそっと目配せした。そうして、「おいで」と心で語りかける。
 おいで。
 謡おう。
 恐れる必要なんて無い。
「はじまりは……」
 ハティアが小さく呟いた。ラトは独りで音を奏でながら、歌の合わさる時を待つ。
「……、はじまり告げるは、鳥の声」
 驚いた。
 ラトの耳に届いたのは、芯のある、それは美しい歌声だった。歌う前はあんなに不安そうにしていたのに、透き通ったその歌声には、危うげな所など一切無い。
 はにかんだ笑みを浮かべて、今度はハティアが目配せする。ラトはそれに微笑みで返すと、そっと静かに目を瞑った。
   はじまり告げるは鳥の声
   花舞う彼方 約束の場所
   蒼の灯りの瞬きに
   人々よ みな剣を持て
 今までラトの周辺に、歌う人間は少なかった。タシャもニナも、ラトがせびれば町の歌を教えてくれることはあったのだが、自ら好んで歌う類ではなかったからだ。
   あかつきの朝 夜は去り
   今は ほら 光の町よ
   熟れた果実がのどを潤し
   我らは今日も喜びあう
 それでもハティアが優れた歌い手であることは、疑いようのない事実であった。心地のよい、それでいて明るく澄んだ歌声は、ラトの心にぽつりと落ちて、静かにそれを包み込んでいく――。
(昔読んだ物語の中に、歌で生命を癒す精霊の話があったっけ)
 そんなことを思い出す。そうして不意に目を開けて、ラトは、信じられない光景に息を呑んだ。
(町が)
 今にも笛を取り落としそうになる。しかしそうはしなかった。そんなことをして、今、目の前にある風景を失うことが怖かった。
   救いの声
   赦しの歌
   涙の粒が木の実に変わる
 ハティアの歌が、孤独な音色を攫っていく。
 その横顔が、胸を打つ。
   暁の王 我らが父よ
   ここは ほら 砂と灯の国
   さざめく風が果実を揺らす
   その喜びを 今日も歌おう
(その喜びを、今日も歌おう……)
 歌が心に紛れ込む。じわりと、目の前の世界が歪んでいく。
 ラトの頬に、一筋、涙が落ちた。
(町が、――色付いている)

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