吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 忘却の風土

003 : Audio campana. -1-

 走り、家へと駆け込んだ。ハティアの手を取り部屋へと引き入れると、ラトはばたんと、壊れるのではというほど力強く扉を閉める。
 すっかり汗をかいていた。何も考えずに走ったせいで、呼吸もあがってしまっている。そしてそれ以上に、ラトは、自分の鼓動が緊張に高鳴っているのに気づいていた。
 路地の脇から、恐る恐るこちらを伺っていたあの人影。見間違いをするわけがない。
 あれは、あの影は。
――おまえは僕なんかじゃない。おまえなんか、都合の良いことばかりを言い触らす、ただの影だ、闇の生き物だ!
(どうして、あいつがここにいるんだ。あいつは確かに、あの時)
――さあ、どこへでもいなくなれ。……この、化け物め!
 低く、物憂げな叫び声を、ラトは今でもよく覚えている。断末魔の叫びののち、そこには何も残らなかった。禍人はラトの言葉によって、弾けて消えてしまったのだから。
 ラトはあの時、確かに禍人を滅ぼしたのだから。
(そうだ。僕は一度、あいつに打ち勝ったんだ……。一体、何をおそれる必要がある?)
 自分自身に問いかける。そうしてラトは、いまだどくどくと鳴り続ける自らの胸に手をやった。
 禍人がまだ、生きていた。けれど恐れることはない。この一年間姿を見せなかったことや、ラトを見て即座に逃げ出した様子から察するに、禍人が、あの一件以来力を失ったことは確かだろう。それに今や、ラトはこの偽りの町の主なのだ。ラトが望めば、町の人間たちを総動員して禍人を探し出すことだってできる。奴を目の前に引きずり出すなど容易いことなのだ。その事は、禍人にだって理解のあるところだろう。
 今度は簡単だ。またすぐ、あの時のように滅ぼしてやれる。
(だとしたら、今考えるべきなのは)
 視線をあげ、すぐ目の前で同じように肩で息をする少女を見る。ハティアはぜえぜえと苦しそうに息をしながら、乱れた長い髪をかき上げた。
 すっかり顔が赤くなっている。それでも出会ったときよりはよほど健康的に見えたが、この少女が病み上がりだったことを思い出して、ラトは罰悪く視線をそらした。
 咄嗟に、彼女の手を取り駆けてしまった。あの場に置き去りにするわけにはいかなかった。何故って、ラトにはわかっていたのだ。
 あの時あの場で禍人が、いったい何を見ていたのか。
「ラト、ひどい。私……」
 汗ばんだ目元には、うっすらと涙すら浮かんでいる。どうして泣かれるのやら皆目見当もつかなかったが、その理由を確認することもなく、ラトはまず「ごめん」と謝った。女というこの生き物は、一度泣き出すと面倒だ。ひとまず謝っておくにこしたことはない――。それはラトが幼い妹と暮らし始めた頃、真っ先に得た実感だった。まずは謝る。話はそれからだ。そうでないと大抵の場合、後で機嫌をとるのに苦労する。
 ラトの思いを知ってか否か、わけがわからぬまま町を全力疾走させられたハティアは、呼吸を整えると、まずはラトを睨めつけた。そうして詰め寄るように顔を寄せ、こんなことを言う。
「ラト。何故、走ったの」
 ハティアの口調は強かった。しかし彼女の問いへ答えるのは厄介だ。この世界のことも、ラトのことも、禍人のことも、一通り説明してやらなくては済まないだろう。だが見ず知らずの彼女に、そうまでしてやる義理はない。
「ラト。何故、走ったのよ」
「別に何故でもいいじゃないか」
ぶっきらぼうにそう言った。しかしハティアは怯まない。
「よくないの! だって、だって私」
(――五月蠅いな)
 出会ったばかりの時のように、大人しいままでいてくれたならどんなにか楽だったろう。そんなことを考える。
 確かに突然のことへ驚かせたのは悪かったが、こんなふうに喧嘩腰にならなくたっていいだろうに。しかし続いた言葉を聞いて、ラトは思わず息をのんだ。
「私、せっかく何か、懐かしいものを見つけた気がしたのに!」
 「えっ?」と短く聞き返し、ハティアの方へと視線を戻す。すると彼女は赤みの差した頬に浮かんだ汗をぬぐい、情けない顔をして、「本当よ」とまず言った。
「それが何かはわからないけど、駆け出す直前、何か懐かしいものを見た気がしたの。それを見た瞬間、なんだか心がほっとしたわ。そんなことは、多分、初めてだった。だから私、本当はそれを追いたかったのに……。ラトが急に、走り出したりなんてするから」
 今まで何を聞いても「わからない」の一点張りだった少女の意外な主張に、ラトは思わず瞬きした。そうして「ごめん」とまた謝る。けれど口ではそう言いながら、ラトの心は、思わぬ言葉に湧いていた。
 何も覚えていないと話す彼女から、情報を得るのは無理なのではと諦めかけていた。むしろ彼女は、始めから何も知らなかったのではとさえ思っていた。だが。
「それ、もう一度見たら、何だかわかる?」
 問うた。ハティアはきょとんとした様子で、曖昧な答えを返す。
「一瞬、懐かしい気がしただけだもの。自信はないわ」
「でも、また懐かしい気がするかもしれない」
「そうだけど」
「そうしたら、……それを見つけたら、君は何かを思い出すかもしれない。例えば自分自身が何者なのか、どうしてこの世界へ迷い込んだのか」
 気付かぬうちに声が弾んでいた。ラトの言葉を聞くと、少女は一瞬はっとした顔になって、それから困ったように眉根を寄せた。「ラトはどうしても、私の『正体』を知りたいのね」と答える声は、どこか不満げだ。
「出会ったときから、ラトはそればっかりだもの」
「君だってそれが知りたくて、その『何か』を追おうとしたんでしょう。そのせいで、それを邪魔した僕に怒っていたんじゃないの?」
「……わからないわ」
「きっとそうだ」
「何故、そんな事がラトにわかるの」
 言われても、ラトはちっとも怯まなかった。それでいて、自分の考えが違っているかもしれないなどとは欠片ほども考えなかった。
 実のところ、ラトは、ずっとそうして生きていた。
「僕にはわかる」
 言ってラトは立ち上がり、そっと窓のカーテンを開ける。目覚め始めた町の通りには人の姿がちらほらと見え、いつもと変わらぬ日々の暮らしを始めようとしている。家の中にいるせいだろうか。ハティアのことをじっと見ていた、あの奇妙な視線も感じない。
「ねえ、君はどうしてあの屋根に、ポッタの木の実が吊してあるのか知っている?」
「……。料理に使うために、干してあるんじゃないの?」
 気乗りしない様子で、それでもハティアが律儀に答える。聞いて、ラトは微笑んだ。
「料理に使うためのものなら、家の中に干してあるよ。あれは、この地域に伝わる獣除けのまじないなんだ。ほら見て。実の吊し方にも色々ある。三連になっているものはその家の子供の安全を、横に二つ連なっているものは、出稼ぎに出た夫の安全を願って縄に縛るんだ。……僕はこの町しか知らないけれど、きっと異国の地へ行って、その家の屋根にポッタの木の実が吊してあるのを見たら、懐かしいと思うのと同時に、家族と暮らした家を思い出す」
 聞いて、ハティアはまた困ったように眉根を寄せる。
「だから、私も何か思い出すはずだと言いたいの? だけどラトは、私と違って色々なことを知っているし、覚えているじゃない。そんなに上手くいくかしら」
「試してみても、損はしないよ」
「損をするとかしないとか、そういう問題じゃあないわ」
 けれどそうは言いながら、どうやらハティア自身も、気のりしてきたようではあった。
 簡単に朝食を済ませると、二人は再び町へ出た。そうして肩を並べて歩きながら、ラトはあれこれ指を指し、見覚えはないか、懐かしく思いはしないか尋ねていった。その度ハティアは「違う」と言い、残念そうに首を振る。
 しばらく歩くと、次第に立場が逆転した。何か物珍しいものを見つけるたびに、あれは何、これは何に使う物なのと、ハティアはラトに謂われを尋ねた。ラトも自分の知りうる限り、ハティアの尋ねる言葉に答えた。ハティアが尋ねたほとんどは、タシャが町の人間に請われて作った、まじない道具の類に関することだった。
「ラトは、とっても物知りなのね。私、こんなに何もかもに意味があるとは、今まで思ってもみなかった」
 ハティアがしまいにそう言った。ラトがそれを望んだからか、町の人間はもう誰も、ハティアを見つめはしなかった。
 彼らはやはり、ラトの意のままに振る舞った。
「私ね、目の前にある全てのものは、どれもそれが当然だから、そこに在るのだと思っていたの。でも、違うのね。人が作り出したものには全て、それが作られた理由があるのね」
 モノクロの世界から不自然に浮かび上がった少女が、そんなことを口にする。
 ラトは始め、ハティアの言葉に答えなかった。それこそラトが当然だと思っていたことを、彼女がいかにも崇高なことに気付いたかのように言うものだから、逆に戸惑ってしまったのだ。
 人が作り出した物に、意味があるのは当然だ。生活用品にしろ、まじない道具にしろ、子供の扱う玩具だって、必要があるから作るのだ。理由があるから使うのだ。
 ラトが答えぬままでいると、ハティアもそれ以上には何も言わなかった。そうしてさも楽しそうに、殺風景な田舎町を見回し、歩いていく。
 一体、何が楽しいんだ。思わず問いかけたくなった。
 けれどもラトは、問わなかった。しかししばらく経ってから、ふと、こんな事を言う。
「人が作り出したものだけじゃ、ないよ」
 聞いて、ハティアがきょとんとした様子でラトを見た。ラトはそれに目もくれず、ただ言葉を続ける。
「『当然』なんて存在しない。僕は、――全ての事象に、意味と理由があるんじゃないかと思っているんだ。例えば、動物は誰しも何かを食べなくては生きていけないでしょう? だけどそれも、ただ『当然だから』そうだというわけじゃないと思うんだ。季節の移り変わりが田畑を潤すことにも、本物の空が青や赤に色を変えることにも、全て意味があるんじゃないかって、僕はそう思ってる」
 ラトが口にする言葉を、ハティアは黙ったままで聞いていた。そうして最後に、「ラトって、難しいことを考えてるのね」と短く呟く。想像していたとおりの言葉に、ラトは思わず苦笑した。始めから、理解してもらおうなどとは思っていなかった。
 さっさと何か、話題を変えよう。しかしそうしてラトが考えていると、ぽつりと、ハティアはこんな事を言った。
「……ねえ、ラト。だったら私がこうして今、全て忘れてマカオにたどり着いたのにも、何か意味があるのかしら」
 言われてラトは、ふと静かに顔を上げた。
 昼近くのこの町に、太陽の光が注いでいた。暖かなその光は一点の影も落とさずに、今、二人を照らし出している。
 そんな中、ハティアはその光にすら劣らない明るい声で、恥ずかしげもなくこんな事を言った。
「私がこうしてあなたに出会ったのにも、意味と理由があるかも知れないのね」
 聞いて、ラトは思わず口をつぐむ。そうしてハティアから顔を背けると、口の中でもごもごと、「少し違う」と呟いた。何故だかやけに面映ゆい。彼女のくすぐったい解釈は、実のところ、ラトが言いたかった事とはいささか乖離があるように思われた。
 それでも、言及するのはやめにする。明るく笑うハティアを見ていると、それでもいいかと、そう思えた。
 その時だ。
 カーンと一度、涼しげな音が鳴り響く。昼を告げる鐘の音だ。すぐ隣でハティアが小さな悲鳴を上げ、ラトの服の袖を引いた。
「大丈夫、ただの鐘の音だよ」
「鐘?」
「そう。ほら、鐘楼が見えるでしょう」
 言って、町の中央部にある質素な尖塔を指さしてみせる。ハティアもつられて顔を上げた。
「昨日、君が現れる直前に鳴ったのと同じ鐘だ。あれが鳴ると、この町の人達は、みんな昼ご飯の準備をしだすのさ」
 気付けば腹も減っている。今日の昼食は何にしよう――。しかしラトがそんなことを考える傍ら、ハティアはすっかり鐘楼に目を奪われてしまったかのように、じっと鐘の鳴るのを見つめていた。
 瞬きもせず、じっと見ていた。
 その目が一瞬、金色に輝く。
「ハティア――」
「この、鐘の音」
 ぽつり、ハティアが呟いた。そうして彼女はラトに目もくれず、続けてこんな事を言う。
「ソラリスの……、歌?」

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