吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 忘却の風土

002 : Tempestas cooritur.

 夕刻を示す鐘の音が鳴りやむような時刻になっても、旅人は目を覚まさなかった。
 窓を見れば、既に西日が差している。きっと町へ出れば、どこもかしこも夕食の準備をする芳しい匂いであふれかえっていることだろう。そんなことを考えながら、ラトは自分のベッドに横たわった見知らぬ人物を見て、小さく、自分でも気づかぬうちに溜息をつく。
 ラトがやっとの事で連れ帰ったのは、線の細い、整った顔立ちをした少女であった。
 明るく柔らかい栗色の髪を胸の高さまで伸ばし、異国の旅の装束を身にまとっている。顔色は相変わらず血の気が引いたままであったが、呼吸は幾分安定しており、一見したところ、今ではただ眠っているだけのようにさえ見受けられた。
 そのすらりとした長身と、旅慣れた雰囲気のある身のこなしのために始めは随分大人びて見えたが、こうして見ると、どうやらラトともそれほど歳が離れているわけではなさそうだ。その彼女が一体何故、こんなふうに顔面蒼白になってマカオの町に現れたのだろう。
 そしてこの一年間出会うことのなかった、見知らぬこの人間は、……陽に照る明るい色を持つ、マカオの外から訪れた唯一の旅人は、この町に、そしてラトに、一体何をもたらしてくれるのだろう――。
 そこまで考えて、ラトは小さく首を振った。代わり映えのないこの世界に、遂に変化が訪れた。だがそれが吉兆なのか、凶兆なのか、ラトにはまだ、わからない。
 旅人の頬に触れてみる。彼女の肌は、まるで目に見えない氷の膜でも張っているかのように、冷たく艶やかなものだった。息があるのを不思議に思う。ひんやりとしたその肌に触れると、幼い頃、たった一人でばあさまの埋葬をした時のことを思い出す程だ。
 死人のように、冷たいのだ。
 だから、どうせ彼女も人ではないのだろう。そんな思いがラトにはあった。人ではないもの。何か奇異な存在のもの。
(もしかしたら僕は、禍人の時と同じように、とんでもないものを引き入れてしまったのかもしれない。――だけど)
 言い様のない喜びと、そして不安に浮き足立つ。期待なんてしてはいけない。期待をしたら、負けてしまう。
 だがここに独りで生きてゆくのに、望みを捨てたら、何が残る。
 拳を強く握りしめれば、掌にうっすら血が滲む。しかしそれすら色を伴わずにいるのを見て、ラトは小さく、薄く笑った。――これ以上、何を恐れる必要がある。禍人に力を搾取され、自らの行い故に帰路を失い、次はこの見知らぬ少女に、魂を奪われるとでも言うのだろうか。
 自嘲に満ちた、溜息をつく。――そして、その時だ。
 かさりと小さく、衣擦れ音が耳に届いた。ラトは咄嗟に顔を上げ、はっと短く息を呑む。
 旅人がその両目を開き、空ろな様子で天を見ていた。
 緊張感が迸る。自分でも気付かぬうちに、ラトは思わず立ち上がっていた。その際、どうやら腰掛けていた椅子を倒してしまったらしい。物音に反応したのだろうか、旅人は緩慢な動きで上体を起こし、ラトのことを、凝視する。
「あっ……あの」
 声をかけようと思ったのに、それきり言葉が続かなかった。
 それもそのはず、ラトは彼女の瞳に目を奪われて、ぴくりとも動けずにいたのだ。
 伏し目がちのその瞳は、少しの感情も伴わず、昏く、深く、沈んでいる。
 長いまつげが震えていた。寒いのだろうか、――それとも、悲しいのだろうか。何故だかラトには、彼女が今にも泣き出すのではないかと、そんなふうに思われた。そうして言葉なく、ラトも、彼女の瞳を凝視する。
 震えるまつげの下にあったのは、目を瞠るほど美しい、金の色の瞳だった。
「気分は……どう」
 やっとのことで、そう尋ねる。しかし彼女は応えない。まだ完全に目覚めたわけではなかったのだろうか。ラトの言葉など聞こえなかったかのように、彼女はただ、黙ったままでそこにいる。
 けれどその瞳を見れば、何故だかどきりと、胸が高鳴るのを感じた。
「あの、――覚えてる? 君、町の入り口で倒れたんだ。……あっ、ここは僕の家で、ひとまず休ませた方が良いかと思って、その、勝手に連れて来ちゃったんだけど……。君が持っていた荷物、全部そこに置いてある。馬も外につないであるよ。あの、何か薬を飲ませた方が良いかもと思ったんだけど、君みたいな症状の人は初めてで、……。僕を育ててくれた人たちに習っていたから、この家、薬自体は色々あるんだ。もしなにか必要なものがあれば、言ってくれれば、その」
 一息にそう言い募り、ラトはようやく言葉を切った。そうして一度息を吸うと、かぁっと頬が火照っていく。何を慌てているのだろう。つい先ほどまで、恐れるものなど何もないと、笑ってさえいられたものを。
 しかしそうして困惑するラトとは裏腹に、旅人は相変わらずとろんとした瞳をしたまま、ただラトのことを見つめていた。そうして小さく、肩を震わせる。
 やはり寒いのだろうか。思えば当然かもしれない。彼女の体は依然冷え切っており、肌も血の気を失っている。思いつくなりきびすを返し、ラトは台所の竈へ薪を放り込んだ。そうして火がついたのを見て、今朝の残りの鍋を覗く。
 大丈夫、まだスープが残っている。
(もしかしたら、空腹なのかも知れないし)
 皿を手に取り、温まったスープを注ぐ。旅人にそれを手渡してやると、てっきりなんの反応も示さないのかと思っていた彼女は、それでも色白の手を伸ばし、しっかりと皿を受け取った。
「……。君は、あそこで何をしていたの? 何故、どうやって、このマカオの町へ来たの?」
 問うた。彼女は応えない。
 だがまるで生まれてからのち初めて食べ物を口にしたかのように、それは大切そうにスープを飲む彼女を見ていると、答えを急かすのは随分野暮なことのように思われた。ラトの料理は適当だ。味見だってしていないし、野菜の切り方が大きすぎるので、中まで火が通っていないことも度々ある。それでも彼女は、大切りの具材に苦戦しながらも、それをあっという間に完食した。
 袖についた鈴だけが、涼やかに音をたてていた。
 尖った氷の粒が水面を打つような、そんな静かな音がする。
「……パンでよければ、まだあるよ。暖めてこようか」
 空になった皿を眺める彼女を見ていると、気付かぬうちに笑みが零れた。しかしそうして去りかけたラトのシャツの端を、そっと掴む腕がある。
 驚いたラトが振り返ると、旅人は、ラトを見つめてこう言った。
「あなたは誰?」
 想像したより幾分明るい、はっきりとした声だった。その頬には先ほどとは違い、ほんの少し、人間らしい赤みがさしている。
 ラトは一度ゆっくりと瞬きをし、「ラト」と短くそう答えた。そうして小さく息をのむ。先ほどは確かに金に見えたあの瞳が、澄んだ蒼に変わっていたのだ。
 「ラト」旅人がそう繰り返し、空になった皿をラトの手に握らせる。それから何か考え込むように首をひねり、「なんて言うんだったかしら」と、独り言のように呟いた。
「一体、なにが?」
「食べ物をいただいて、おいしかった時に、言う言葉があったでしょう。あれは一体なんだったかしら」
「……、……『ごちそうさま』?」
 怪訝な顔を隠しもせずに、ひとまず、そう返してみる。すると彼女は心底嬉しそうににこりと笑って、ラトに向かってこんなことを言った。
「そうだ、『ごちそうさま』だわ。『ごちそうさま』、ラト。もう何年もこんなやりとりはなかったから、私、すっかり忘れていた。――私の名前はハティア。ハティア・ソル・オリス。お会いできて嬉しいわ。私、もう随分長い間、この世界を一人で旅していたの」
 
 彼女が語って聞かせたところによれば、この旅人――ハティアは、自分が何者であったかすら忘れてしまうほどの長い間、この世界を独りで旅していたのだという。どのようにしてこの世界に迷いこんだのか、何故旅をするようになったのか、ラトはいくつか彼女に問うたが、答えは全て「わからないわ」の一言だった。
 それでいて、彼女は天衣無縫であった。ラトと会話することを楽しみこそすれ、自分が何者なのか、一体どこからやってきたのか、それすらわからないことに臆する様子は微塵もないのだ。彼女にとっては自分が『ハティア』という名の旅人であり、それ以上でも以下でもないことが、どうやら唯一の『当然』であるらしかった。
「いろんな場所を見て来たわ。住人がみんな仮面を被っている町とか、夜のこない丘とか、……でもこんなふうに、色のない町は初めて見た。ラトみたいにお喋りができる人に出会ったのも、多分、初めてよ」
 とにかく彼女は長い間、この世界を旅していた。それだけは確かなことらしい。
 蒼い瞳のこの旅人は、それまでのことが嘘だったかのように次々と、弾んだ声で自らの体験談を語って聞かせた。それは現実の世界では考えられないような不思議な話ばかりだったが、ラト自身が置かれた現状を考えれば、きっとどれも真実なのだろうと、そう思えるものばかりでもあった。
 だからこそ、彼女の話はラトの恐怖を掻き立てた。
(もしあの旅人が、もとは僕と同じように現実の世界から迷い込んできたのなら)
 無邪気な顔で、「何も覚えていない」と断言した彼女を思い出す。すると心が、重く昏い闇の中へ落ちていくような気になるのだ。
(僕もいつか、あの人のように全て忘れてしまうのかもしれない。長くこの世界に閉じ込められて、ここに在ることが当たり前になって、……)
 いずれ自分がなぜここにいるのか、元いた世界がどんなものだったか、ラトもすっかり忘れてしまうのではないだろうか。――そんな不安が、心に棲みつき離れない。
 
 釣瓶を手に取り、井戸の水をすくい上げる。冷たい水で顔を洗うと、いくらか思考が落ちついた。
(違う。あの人はもしかしたら、もともとこの世界の住人なのかもしれないじゃないか。……だったら、僕がこんなふうに不安がる必要なんてない)
 翌日の朝、早くのことだ。床に蹲るようにして眠ったラトは、陽が明けるか明けないかの頃に町へ出た。あの旅人が再び目を覚ます前に、もう少し、一人で考える時間が欲しかったのだ。
(僕とは違う。僕は、もといた世界のことをよく覚えているもの……)
 言い聞かせる。そして大きく息を吸った。
 少なくとも、あの旅人がマカオの外からやって来たことだけは確かなのだ。ならば彼女と一緒なら、闇へと続くあの街道も、少しは形を変えるかもしれない。
 この小さなマカオの町から、脱することが出来るかもしれない。そうだとしたらしめたものだ。試してみる価値はある。
(あの人の体調が、もう少し回復したら)
 思い切って、言ってみよう。そう考えながら次に汲んだ井戸水を自らの瓶へ注ぎ込み、しかしラトは、思わずそれを取り落とした。
 耳元で突然、聞き慣れぬ声がしたからだ。
「――ラ、ト!」
 振り返って、ぎょっとした。見れば今にも触れそうなくらい近くに、ハティアの、あの旅人の顔が迫っていたのだ。
「いつから、そこに……!」
 怯み、思わず後ずさる。しかしハティアは頓着をする素振りもない。それどころかラトの顔を覗き込むようにまた一歩近寄ると、外見に似合わない子供っぽい笑みを浮かべて、ラトに向かってこう言った。
「ずっといたのよ。ラトが気付かなかっただけ。何か、考えごとでもしていたの?」
 そう話す彼女の表情は、初めて出会った時とは打って変わって晴れやかだ。長い髪を緩やかに結び、旅の衣装をまとった姿は健康的で、人形のようにただ黙々とスープを飲んでいたときのことなど、さもすれば忘れてしまいそうになる。
 ああ、綺麗な蒼い目だ。そんなことを、ふと思う。それでもラトはもう三歩後ずさり、必死に彼女から距離を取った。そうして、ポケットに入れたままのバンダナのことを思う。まさか彼女がこんなに早く起きてくるとは思っていなかったから、額の目を隠さないまま出てきてしまったのだ。
 外界と遮断されたこの一年間のために、すっかり気が緩んでいた。しかしラトの第三の目は、伸びっぱなしの前髪の陰へ上手く隠れてくれたらしい。ハティアはラトを気味悪がる様子もなく、ただ少ししょんぼりとした顔をして、「そんなふうに逃げなくても」と呟いただけだ。彼女はそうして腰をかがめると、ラトの取り落とした瓶を拾いあげ、「はい」とそれを差し出した。
「ごめんなさい。あの、邪魔するつもりじゃなかったの。だけど私の馬を探していたら、その前に、ラトを見つけたから」
 見た目はラトより大人びているのに、その仕草はあどけない。ラトはおずおずと瓶を受け取ると、苦い声のまま、言った。
「……馬を探していたの? どうして」
「だって、私、もう行かなきゃいけないと思って」
「行くって、どこへ」
 思わず語気が強くなる。するとハティアは心底困った様子で、「わからないけど」と、そう答えた。それを見て、ラトは小さく溜息する。そういえば昔、ニナにこんな事を言われたことがあった。
「お兄ちゃんの質問って、なんだか怒っているみたいで、怖い」
 その時は、ラトもそう言われたこと自体にいささか傷ついたものだったのだが、確かに、聡い妹の指摘は当たっていたのかもしれない。ラトは一度深く目をつぶると、今度は出来る限り穏やかな声で、こう言った。
「ツキの所へ、向かうの?」
「――ツキ?」
 ハティアが一度首を傾げて、それから「ああ」と明るく声を上げる。
「私が倒れたときに口にしたっていう、ラトの知り合いの名前ね?」
「そう。何か、思い出した?」
 もう一度釣瓶をたぐり寄せ、瓶に水を注ぎなおす。その間もハティアは何かを考え込んでいるようだったが、やはり、答えは「わからないわ」の一言だった。
「だけどそうだとしたら、私、そのツキという人の所へ行けば、ラトに聞かれたようないろいろなことを思い出せるのかしら」
「さあ……。それは、僕にもわからないけど」
「ラトは、ツキがどこにいるのか知ってるの?」
「ううん、知らない」
「ラトにも、わからないことはあるのね」
 言ってハティアが、屈託なくにこりと笑う。ラトは水を満たした瓶を担ぎ上げ、それからふと、眉根を寄せた。
 昨日まではにこやかにラトへ話しかけてきたパン屋の女将が、じっとこちらを見つめていた。彼女は全くの無表情のまま、ただラト達を、――否、ハティアのことを、食い入るように凝視している。気味の悪さに視線を逸らすと、今度は狭い横道から、こちらを覗き込む男の存在に気がついた。町外れに住む材木屋だ。
 「僕も」と、薄気味悪い思いのまま、ラトは小さく呟いた。
「僕にだって、わからないことだらけだよ」
 至る所に視線を感じた。向かいの家の窓からも、広場の向こうの店からも、まるでマカオの全ての人が、ハティアを観察しているのではとさえ思える程、誰もが彼女のことを見ていた。
 ハティアは何故、この異様さに気付かないのだろう。そう思いながら辺りを見渡し、ラトはハティアの手を引いた。ともかく今は、家へ戻ろう。話の続きはそれからだ。
 しかしそうして歩く内、ラトは不意に見つけてしまった。
 路地の陰から覗く影。ラトと同じ年頃の、自信なげな少年の影。
――おまえは私、私はおまえだよ。私はお前の願望から生まれたのだもの。
 あの時聞いた、声が過ぎる。
「ラト、……どうしたの?」
 不安そうにハティアが言ったが、ラトは口をつぐんだまま、一言もそれに答えなかった。
 答えるような、余裕がなかった。
「禍、人」
 ただぽつりと呟くと、その人影は颯爽と身を翻し、路地の奥へと消えていく。
 ラトはそれを追わなかった。けれどしっかり理解していた。
 ラトのよく知る三つ目の少年が――、今になって再び、このマカオの町に訪れていた。

:: Thor All Rights Reserved. ::