吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 忘却の風土

001 : Ipse dixit.

 雷鳴が轟く。あの日と同じように。
 遠くに、近くに、何の規則性を感じさせる事もなく、光がぱっと、空に響く。
 それはまるで、声のようだ。
 何かを叫ぶ、声のようだ――。
 
 どんどんと、扉を叩く音がする。ああ、いつもの『あのシーン』だ。ラトはぱちりと目を開けて、やる気なく、ただもぞもぞと寝返りをうった。窓の方へと視線をやれば、薄いカーテン越しに、既に日が昇りきっているのを見て取れる。
 ああ、今日も朝日が昇ってしまった。枕に頬をこすりつけながらそんな事を考えれば、一層目が覚めてくる。ラトは観念して体を起こすと、一度大きく伸びをした。
 だがどうにも、気持ちのいい朝とは言いがたい。扉の方へ顔を向ければ、いまだに戸を叩く音が聞こえている。
(――うるさいな)
 ラトは起き上がると、枕元へ伏せてあった本を手に取り、きちんと机へ置き直した。昨日は読書の途中で眠ってしまったらしい。そういえば、昨晩自分自身で本を伏せた記憶があった。
「ラト、何やってんのさ。もう行かないと遅刻だぜ」
 扉を叩く音の後から、そんな声が聞こえてくる。既にすっかり聞き慣れた、マカオの町に住む少年の声だ。ラトはうんざりした声音を取り繕いもせずに、ただ、こう言葉を返した。
「今起きたんだ。先に行ってて」
 すると扉の向こうから、複数の明るい笑い声が聞こえてきた。これもいつもとおんなじだ。ラトはおかまいなしにゆっくりと竈の火を起こし、昨日作っておいたスープを暖める。
(遅刻したって構うもんか。ここでは誰も、僕に指図はしないんだから)
 そう考えたその瞬間だけ、ラトの頬に笑みが浮かんだ。しかしそれは年若い少年に似合わない、皮肉めいた笑みだった。
「ラトの奴、顔も出さないって事は、きっとすごい寝癖なんだぜ」
「そういうあんただって、髪のはね方、酷いわよ」
「なあ、早く行こうぜ。まだ宿題終わってないんだ。誰か写させてくれよ」
「じゃあラト、先行くからな。また、学校で!」
 賑やかな声が去って行く。段々と遠のいて行くそれを聞きながら、ラトは無感動に窓を開けた。
 見慣れたマカオの町並みが、ラトの眼前に広がっていた。
 市に連なる素朴な人々。レンガ造りの質素な家々。しかし、そのどれにも色はない。
(殺風景な、モノクロの世界――)
 こんな筈ではなかったのに。こんな事を、望んでいたわけではなかったのに。
 降り止まない雨、稲妻、怯えきった人々の顔。思い返して、ラトはぎゅっと拳を握った。……ここに閉じこめられたあの日を思うと、今でも腕に、震えが来る。
 この町へ――石の棺の中へラトが閉じこめられてから、既に一年以上の時が経っていた。
 遠く道の先に、声を立てて笑いながら歩いて行く少年少女の一団が見えた。先程、ラトを迎えに来ていた『同級生』達だ。彼らの名前をラトは知らない。もしかしたら、あの内の誰かがサリだったかも知れないし、モカだったかも知れなかったが、ラトにとってはどうでも良いことのように思われた。
 彼らの存在意義は、その団体として『ラトの友人』であることに有った。それ以外に何の価値もない。そして、だから何ということもまた、ない。
 支度を整え、ラトは教科書を手に取った。さあ、そろそろ出かけなくては。
(いつもと変わらない一日が、今日も、僕を待っている……)
 
 この一年間、ラトは、この町を抜け出すために思いつく限り全てのことを試したつもりでいた。
 洞の内部をくまなく調べ、マカオの町中を歩いて元の世界へ戻る出口を探した。至る所にある全ての物の名前を呼び、すっかり存在を匂わせなくなった精霊達に語りかけもした。だが無駄だった。何者も色付くことはなく、ラトを導いてなどくれはしなかった。
 そうしてラトは、いずれ抗うことをしなくなった。マカオの町を出て、隣町まで旅をしようと考えたときのことが、ラトの希望をボロボロに打ち砕いたのである。
 その日、ラトは旅支度をし、隣町のバーバオまで向かうつもりでいた。マカオを出るなど初めてのことではあったが、最早、小さなマカオの町の中に、この状況を打破する策があるようには思えなかったのだ。
 しかしそうして隣町へと続く街道を歩き、ラトは出口探しを諦めた。何をやっても無駄なのだと、自覚せざるを得なかったのだ。
 隣町へ続くモノクロの街道は、ある部分からぷつりと、先が消えて無くなっていた。丁度、ラトがいつも丘の上から眺めていたところまでで、道はすっかり途切れていたのだ。
 そこから先へ続いていたのは、ただ、ただ、長く深い闇だった。
 その闇が恐ろしくて、ラトは一目散にマカオの町へと取って返した。
 
「おはよう、ラト。今日も良いお天気ね」
 教科書を手に家を出ると、近くに店を持つパン屋の女将が、そうにこやかに話しかけてくる。ラトは薄く笑うと、しかし何も答えずに、学校へ続く道を歩く。
 日に日に打ちひしがれてゆくラトに追い打ちをかけるかのように、モノクロの町の人々はこれでもかと言うほど、現実に反してラトに好意的だった。というより彼らの行動は、ラトが生まれ育ったあの丘から町を見下ろしていた頃、『そうであったらいいのに』と思い描いていたそのままのものであったのだ。
 彼らは皆、ラトの思うままに振る舞った。話す言葉も、笑い声さえ、ラトの意のままなのだ。そうして振る舞う彼らはまるで、息をする操り人形のようだ。
 けれどそれらの扱いすら、既に手慣れたものである。
 ラトが通ったことのあるところにしか続かない道、望む言葉しか口にしない人々。この世界はいつもそうだ。穏やかさはあれど、虚しさを感じぬ日など無い。しかし抗う術もまた、無い。
 慣れっこだ。慣れるしかなかった。
 だって他に何ができる。このまま一生を、ここでこうして過ごすことになるのだとしたら。
「おはよう、――お兄ちゃん」
 背後から、いつもと同じ声に呼び止められる。ラトは静かに振り返ると、そこに佇む少女に向けて、ただおずおずと笑いかけた。その全てが空虚なものだと、気づいている。理解している。
「おはよう。……ニナ」
 けれど義妹の姿をしたそれを、どうしてむげに扱えるだろう。
 偽物だ。心が叫ぶ。この世界にある物は、丸ごと全て偽物なのだ。あの冷たい棺の中で、ラトが見ている都合の良い夢でしかないのだ。
「最近、お兄ちゃんと一緒にご飯が食べられないの、寂しいな」
 ああ、言うな。もう黙ってくれ。
 この町の全てが偽物でも、虚構でも、なんでもいいのだ。耐えられるのだ。
「お兄ちゃん、たまには丘の上の家にも帰ってきてね。母さんも羊たちも、お兄ちゃんが帰ってくるの、待ってるんだから」
 けれどニナには、――現実の世界でもラトを受け入れてくれた、ニナとタシャにだけは、軽々しく調子のいい言葉などかけてほしくはないのに。
 だからこそこのモノクロの世界で、ラトは、丘に住むことをやめたのに。
「おはよう、ラト」
「よう。今日は、なにして遊ぶ?」
 学校に近づくにつれて、ぽつりぽつりと同世代の子供が増えてくる。
「聞いてよ。昨日、父さんに叱られてさぁ」
「ねえ! 見て、ファーファリナの花が咲いたのよ!」
 友人達とのたわいない会話。この何気ない時間に、かつての自分はどれ程恋いこがれたことだろう。
「今日の授業の予習、した?」
「昨日は店の手伝いをしなかったから、今日こそ早く帰らないと……」
「マフィンを作ったの。あとで、ラトにもあげるわね」
「ねえ、お兄ちゃん! 私の話、ちゃんと聞いてる?」
 そっと手を上げて、額の目に触れてみる。現実のマカオの人間達があれほど恐れたこの瞳も、彼らにとっては額についた飾り物とすらも思われてはいないようだった。誰一人として一言も、この三つ目の話はしない。――勿論、そのことで言いがかりをつけ、殴りかかってくるような人間も、轟々とうねる川へ突き落とそうとするような悪漢も、この世界には存在しないのだ。
(この世界は現実の世界より、ずっと僕を受け入れてくれる)
 現実のマカオでのことは、今でも度々夢に見る。あの日の雨、川の怒号、雷鳴――。全てが悪夢のようだった。
 どうせ、寝ても覚めても悪夢の内にいるのなら。
「いいじゃない、ずっとここにいれば」
 丁度隣を歩いていた、クラスメイトがそう言った。
「こんなに居心地の良い場所は、他に無いよ」
「ここにいれば、傷つかずに済むでしょう。何もかもが思い通りになるんだから。何だって出来るんだ。ラトがそれを望むなら」
――望むなら。
「願え、ラト」
 ラトの口から、自然と短く言葉がこぼれた。忘れられない、あいつの言葉だ。今でも許せない、事を起こした張本人の。
「ラト、どうしたの?」
「具合でも悪いの? 帰るなら、先生にそう伝えておこうか?」
 ラトは黙って首を振った。どうしてこんなに辛いのだろう。どうして何もかも全てが、ラトの心を締めあげるかのように空しいのだろう。
「ラト、家まで送ろうか?」
「顔が真っ青よ。熱でもあるんじゃ」
「――黙れよ、うるさいな!」
 声を荒げてそう言うと、ラトは丘の方へと駆け出した。どうでもいい。どんなに粗雑に扱ったって、彼らはちっとも気にしないのだ。どうせ明日顔を合わせた時には、また何事もなかったかのように話しかけてくるに決まっている。
 だって彼らは、『偽物』なのだから。人形なのだから。ラトの意のままに動く、――ただの、影なのだから。
 闇雲に駆けて、しかし丘へ向かう途中の道で、一度ぴたりと足を止める。この時間に丘を登っては、きっと羊を連れたタシャに遭遇してしまうだろう。こんな気分の時に、あの半端に色づいた丘でタシャと顔をあわせたら。あの深い笑顔で、迎えられたら。考えるだけで胸が疼く。
 目的地のたよりのないまま、ラトはとぼとぼと道を歩いていた。鐘の音が聞こえてくる。授業が始まってしまったようだ。だが構うものか。その『授業』だって、所詮はラト自身が読んだ本の内容をリピートするだけのものなのだ。ただ昼の時間を一人で過ごすのが辛かったから、気を紛らわせるために通学してみたというだけだ。
 鐘も鳴り終え、辺りに静寂が戻ってきた頃、ラトは街道へ続く道へ辿り着いていた。いつのまにやら、もう町の外れまできている。このまま真っ直ぐ進んで行けば、またあの闇の道へと行き着くはずだ。
 ラトは道の端へ棒立ちになって、しばらくの間遠くを見ていた。
 この先へは、進めない。だが町へも戻りたくはない。そういう時、ラトはよくここに佇んだ。そうして腹が空くのを待ち、何をするでもなく、一人きりの町の家へ帰るのだ。
 この日も同じことだった。そう信じて疑わなかった。
 やがて昼になり、ラトは街道に背を向けた。もう帰ろう。ここでぼうっとしていても、何かが変わるわけではない。しかしそうして数歩足を進めたところで、ラトは、ふと、立ち止まる。
 街道の方から、ちゃりんと涼やかな音がした。
(――鈴の、音?)
 聞いたことの無い音だった。牛の首につける鈴ほど低くもなく、ニナがレースの上につけていたものほど軽い音でもない。ラトは咄嗟に振り返り、――そうして、自分の目を疑った。
 そこに一人の人間が居た。
 旅人風の身なりをした女性だ。ラトより少し、年上だろうか。彼女は顔を真っ青にして、黒馬の手綱を握り、その首元に半ばもたれ掛かるようにして歩いていた。その足取りは重く、覚束なかったが、明るい栗色の髪は涼やかに風になびいている。
 そう。『明るい栗色の髪』、だ。ラトはそれを見て、ただ二の句が継げないまま、その旅人を凝視していた。ラトがようやく瞬きを思い出したのは、旅人がその場へ、崩れ落ちるかのように倒れてからのことだ。
「だっ……大丈夫ですか?」
 慌てて駈け寄り、助け起こす。しかし彼女は――モノクロの世界から不自然に浮き出したその異物は、辛そうに呻き声を上げるのみだ。
 見たところ、怪我をしている様子はない。ならば熱でもあるのだろうか。そうして彼女の額に手をやって、ラトは、弾かれたように肩を震わせた。
 体が酷く、冷たかった。だがしっかりと息はある。ラトは意味もなく辺りを見回して、それから、旅人の袖の先についた、銀の鈴に目をやった。
 ああ、この鈴がラトを引き留めたのだ。何故か心をかき立てる、不思議な響きを持った鈴。
 しかし鈴と同様に、この旅人にも見覚えがない。このモノクロの世界には、ラトが見たことのある人間しかいないのだと、そう思っていたのに――。
(肌も、髪も、身に着けた衣服も……この人のものは、全て色付いている)
 彼女は一体、どこから迷いこんだのだ? そんな疑問が脳裏によぎった。彼女は、この旅人は、ラトの世界の住人ではない。ラトにはその確信があった。ならば彼女はどこから来た? ここへの入口がどこかにあるのか? ……そうだとしたら、そこからこの世界を抜け出すこともまた、可能なのではあるまいか?
 旅人が苦しそうに身をよじり、「だめ」と蚊の鳴くような声で言った。ラトが聞き返すと、彼女は再びこう言葉をこぼす。
「だめ、……私、約束をしたのに……。帰らなくちゃいけないのに」
 どうやらうわごとのようだ。問いたいことはいくらもあったが、今はひとまず、どこか安静に出来る場所へ運ばなくては。
 ラトは彼女の荷物と自分の教科書とを黒馬に積み上げて、旅人を何とか抱き上げた。
 そうしてその拍子に、彼女がぽつりと口にした、その言葉を耳にする。
「だめよ。――行かせて。私、行かなくちゃ……。ツキ達のいる、あの場所へ」

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