吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 町を買った少年

014 : Contractus innominatus.

 そこは丘だった。独りぼっちだったラトが、羊を連れて何度も何度も登った丘。しかしその景色は風雨に乱されて、昨日までとは全く別の場所とさえ思えるほどに荒れ果てている。木々は倒れ青々とした傷の薫りを漂わせ、地面は削げ落ちている。眼下に臨める町は半ば水に浸り、遠目からも痛々しく見えた。
「約束だものねえ、ラト! ちょっとだけだよ、私も忙しいからね」
 そっと地面に降ろされて、ラトはそのまま座り込む。初めて禍人に会った時と同じだ。金縛りにあったかのように、禍人を振り返ることができない。それどころか体中の力がすっかり抜け落ちてしまったかのように、ラトはだらりと腕を垂らした。
 ぴくりとも、動く気力が起こらない。
「おまえとの約束は、たくさん守ってやらないといけないからね。折角なら、たくさんの力が欲しいもの」
 禍人が簡単に、雲を追い払うようなそぶりを見せる。それだけで、雨足が段々と弱くなってきた。見れば、向こう側の空は既に晴れている。
(これが、僕のものだった力――)
 これ以上、現実を突きつけられるのが怖かった。ラトは項垂れ目を背けたが、禍人に髪を掴まれて、顔を伏せることすら出来なかった。
「ご覧。ラト、約束したものね」
 言われてラトは、思わず奥歯をかみしめた。そうして視界に入ったもののために、自分のした浅はかな願いを思い出す。
 悔しさに、ぽつり涙が滑り落ちた。
(――夕日)
 晴れゆく空の遥か先に、目映い光が照り映えている。紅、橙、そしてより空高いところでは、夜闇に備える深い青や紫が、そっとラトを見下ろしていた。それらの色が互いに融けあうその風景は、そこに、一つの世界を創りあげていた。
(ああ、……)
 恐ろしい。そして、――美しい。
――必ず、最高の夕日を見せてあげるよ。
 ああ、気力が萎えていく。禍人に力を奪われているからだろうか。約束を守ったことで、禍人はラトからまた力を得たのだろう。今度こそ本当に、手も、足も出ないほどに。
 風は吹かない。
 しめった空気はじめじめと、ラトの自由を奪って行く。視界が掠れ、それと同時に意識も薄れた。
「おや。これでも、まだ力を残しているのかい。思った以上にしぶとい奴だね」
 ラトは座り込んでいた。苦しくはなかったが、何かしようという気が起こらない。倦怠感が体を支配している。
(もう、好きにすれば良い)
 よほど、声に出してそう叫んでやりたかった。どうせもう、何もかも手遅れなのだろう。町をこんなにしてしまったことも、力をすっかり奪われてしまったことも。
(……死ぬのかな)
 どうせなら、あの時川に落ちて死んでいた方が、まだ良かったのかもしれない。それならこの憎らしい禍人に力を奪いきられることも、精霊の長があんな傷を負うことも、なかったかもしれないのに。
「困ったなあ、ラト。他に願いはないのかい?」
 陽気な声で、禍人が言う。ラトは口を動かして、ただ、一言呟いた。
「ごめん」
――ごめんなさい、母さん。
 あなたの言葉を信じていれば、こんなことにはならなかった。
「どうして謝るんだい、ラト。それより、願い事はないの? ああ、力を返せと言われても、そういうのは駄目だけどね。私が返して、その見返りにまたおまえから貰って、無駄だから」
 禍人の三つ目が、ぎょろりとラトを見た。
――ごめんなさい。
 再度、呟く。
(ごめんなさい。……きっともう、あなたに会えない)
 目をつむる。力を失った指先が大地に触れた。そうしてラトは驚いて、最後の力で、目を見開く。
 その瞬間のことだ。大地がまたとないほどに、強く大きく震動したのは。
 禍人の焦るような声。ラトは抗うこともなく、崩れる地面に飲み込まれて行く。ラト、と誰かに呼ばれたような気がした。誰だろう。低く、力を持った者の声だ。
「ラト」
 うっすらと目を開けてみる。土に飲まれたはずのラトは、真っ暗闇の中にいた。
 だがそうしてしばらくいると、先の方に、青白い光が見えてくる。丘から落ちて、一体どこへ着いたのだろう。あの光は、一体なんなのだろう。
(精霊の長……?)
 尋ねたかったが、声が出ない。そうこうしているうちに、ラトは少しずつ、青白い光へ引っ張られていることに気づいた。
「ラト、どこにいるんだい、ラト?」
 遠くの方から、禍人の声が聞こえていた。ラトのことを探しているのだ。声は近くを通り過ぎ、ラトに気づかないまま遠のいていった。
 青白い光が、近づいてくる。ラトはそれを見て、ようやくその正体に気づいた。
(石台……。洞にあった、あの棺だ)
 そこへ、指が吸い込まれて行く。冷たい物が背筋を走った。
 嫌だ。
 行きたくない。
 耐えられない。
――あんな寂しいところに、閉じ込められるなんて。
「……いやだ!」
 やっとのことで絞り出した叫びにも、ほんの少しも力はなかった。体が石台へ溶け込んで行くのがわかる。身動きすらもままならない。
 その時だ。
「ラト、恐れてはいけないわ」
(母さん……?)
 タシャがまだ、洞にいたのだ。姿は見えないが、ラトはそれだけの事にほんの少し、心の休まる思いをした。しかし恐れるなとは、一体どういうことなのだろう。
「母さんの言うことを、良くお聞き。いいかい、まずはその棺を受け入れなさい。そうしてその後もおまえのその目に見えたすべてのものを、あるがままに受け入れ続けるの。自分の心に忠実に答えなさい、ラト。嘘をついてはいけないよ。ただ、心にうかんだ真実だけを口に出すこと……。いいね、わかったね。おまえは聡い子だもの。大丈夫。自信を持つのよ、ラト」
 声の裏に、どこか焦りが感じられる。ラトに言い聞かせるというよりは、タシャが自分自身に言い聞かせているような、そういう印象のある言葉だった。
 ラトはそれでも、うん、と小さく頷いた。頷かなければ、言葉を信じなければ、恐ろしくて凍えてしまいそうだったのだ。
 目を開けていても、タシャの姿は見えてこない。
(母さんの言うとおりにすれば、帰って来られるのかな)
 帰ってくれば、また今までのようにいられるだろうか。
 ニナと三人、あの家で暮らしたい。町の人間の誤解も解かなくては。そうして今度こそ、禍人の力を借りず、堂々と町へ降りるのだ。
 帰ることができたなら、なんだってできるように思えてくる。
(そうさ。きっとできる。だから、だからちゃんと)
 帰らなくちゃ。
 体が光に融けていく。石台の中は、明るかった。
 
 棺の中は、やはり見慣れた野原だった。
 雨は降っていない。しかし今、その見知った野原に生えている草木は、どれも色を失っている。
 静かに辺りを見回した。なんだか随分、寂しい世界だ。
(あの棺の中だもの。……ぴったりだ)
 こんな所に、いつまでもいてたまるものか。そう考えて、ラトは草をかき分け歩き始めた。そうしてしばらく進んだところで、ふと、呟いた。
「これ……ナズナ?」
 思ったことが言葉になる。そういった感じの呟きだった。するとその言葉に応じるかのように、草木の中でナズナだけが、ぽっと明かりが灯るかのように色づいた。
「セリ、ナデシコ、……」
 驚きながらも、口に出して言ってみる。音はない。しかしその場所だけにかぶせられた何かがはがれ落ちるかのように、草花は次々に色を取り戻していく。
「心に正直に、そのものを受け入れる……」
 驚きに、胸が鳴るのがわかる。
 こういうことなのだろうか。確信はなかったが、今できることは限られていた。
 ラトは思い立つと同時に大地を蹴った。まばらに色づいた丘を巡りながら、知り得る限り、物の名前を呼び続ける。いや、ラトが知らなくても、目でみると自然にそのものの名前がわかることもあった。ラトはそういう時、迷わずその名を口にした。心に正直に。タシャが確かにそう言ったからだ。
 走っている最中、町へと続く街道が視界に入った。町へ降りた方が良いのだろうか。だが、この世界には羊や犬も現実と同じように存在している。町へ行ったらおそらく、色を失った町の人々が自然に生活しているのだろう。
 ラトは街道から目を背けた。町へは降りず、丘を登る。少し行くとその先に、丘の老樹が見えてきた。
 本当の親に捨てられたラトが、寄り添うように眠っていた樹。ばあさまが、母と思いなさいと言ったあの老樹だ。現実の世界でも、雨に負けずにいてくれるだろうか。ラトはごつごつした木の表面を撫でて、呟いた。
「僕の、……本当の母さん」
 木が色づいたので、ラトは思わず苦笑した。今までにも既に、ラトが日頃から『羊小屋の屋根木』と呼んでいるから『屋根木』とか、あだ名のまま『ちび』と呼んだ羊が色を取り戻したりしていたから、ラトがそうと認識していれば、色づくことはわかっていた。
「この木が本当に母さんなら、僕、精霊に生まれてきたかったな――」
 タシャのことは好きだ。けれど本当の母親ではない。タシャだって本当は、先代のばあさまが死んでしまったから、仕方なしに引き取っただけかもしれない。どんなに愛されても、どんなに愛そうと思っても、いつも、そう思わずにはいられなかった。
 そうしてラトはふと、木を撫でる自分の手さえも色を失っていることに気づいた。
 ラト。
 長に名を尋ねられた時のように、はっきりとそう答えたい。それなのに、ラトには自信が持てなかった。
 ――私はおまえ、おまえは私さ。
 ラトと呼ばれてはいる。自分でも、自分のことをラトだと思っている。けれど。
(その『ラト』が一体なんなのか、僕にはわからない――)
 ラトの心は迷っていた。
 そうしてそれが、失敗だった。

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