吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 町を買った少年

013 : Quid vides?

「長、様……」
 かすれた声で、タシャが言う。闇の中で禍人は今、ラト達二人を確かに見おろしていた。
 なぜだかやけに、視界がかすれた。ラトは目を細めて第三の目をこすると、もう一度ちらと禍人を見る。
 禍人ののっぺりとした顔には、三つの目玉が光っていた。――やはり、見間違いではなかったのだ。
「待たせたねえ。意外と手間取ってしまったよ。やはりまだ、本当の力を手に入れていないからかな。ラト、おまえとの約束を守りきっていないからね」
 その言葉に、心が強い疼きを訴えた。隣でタシャが怪訝な顔をしたのが、目に見えるようだ。
「ねえラト、なんていう約束をしたんだっけ。町へ行くための札をあげる、そのかわりに……」
 タシャに全てを知られてしまう。そう考えて、ラトは思わずぞっとした。禍人はラトがそれを嫌がるとわかっていて、わざとこういう言い方をするのだ。
 わかるからこそ憎たらしい。
(やめろ)
「だけどラト、本当に助かったよ。全ておまえのおかげだ。おまえが私との契約を、許してくれたものだから」
(――やめろ!)
 ラトは飛び上がるように立ち上がり、絶え絶えに息をする長の前へと立ちはだかった。タシャが息を呑んで、その後を追ってくる。ラトは構わず禍人を睨み付けて、叫ぶようにこう言った。
「……卑怯者!」
「一体何が卑怯だって言うんだい、ラト」
「だって、そんなふうに……まるで僕ばかりが悪いみたいに!」
 言い終わらないうちに、禍人の甲高い笑い声が聞こえてくる。楽しくて仕方がないというような笑い声。聞いていると、自分がひどく惨めで、滑稽な生き物であるかのように思えてくる。
 だから、続いた言葉には息を呑んだ。
 「そうだよ」と、禍人があっさりそう答える。心臓を鷲掴みにされたかのように立ちすくんだラトへ、追い打ちをかけるような言葉が続いた。
「そうさ、ラト。みんなお前が悪いんだよ。……確かに私は、お前のためにあらゆる手段を尽くして、今この場を準備した。けれど、決定したのはいつだっておまえさ。お前自身さ。私から札を得たことも、町へ降りたことも、占い師の手助けをすると決め、長の前へやってきたのも」
 タシャがラトの名を呼んだが、もはやラトの耳には届いていなかった。どうやらタシャには、禍人とラトの会話が半分程しか聞き取れていないらしい。彼らの声を仲介している、ラトの心が揺れているからだろうか。刹那、そうとも考えたが、その考えもすぐに消えた。そんなことより、ある一言が脳裏に留まって、出て行こうとしないのだ。
――あらゆる手段を尽くして。
 禍人は、確かにそう言った。
「まさか」
 ぽつりと呟く。禍人が笑う。
 目の前が真っ暗になりそうだった。ふらふらと揺れる視界を支えながら、ラトは一言、一言、噛みしめるように言葉をつむいでいく。
「まさか……全部、全部君が仕組んだの? 丘で土砂崩れが起きた時、君は自分がやったんじゃないって言ったよね。あれは本当だったの? 脈がゆがめられている事とか、全部、君が仕組んだんじゃ――」
 言葉にするにつれ、心の中の何かが明確に形を為していく。……悔しい。悔しくて仕方がない。禍人の本当の目的が何なのか、ラトにはちっともわからない。
 けれど。
(町へ遊びに行って、友達と遊んで……、何年も何年も想い続けた、僕の夢だった。憧れだった。それを、こんな奴にそそのかされて、僕は――)
「そうだよ、ラト」
 あまりにもあっけない返事に、ラトは思わず思考を止めた。タシャがすぐ後ろに立っている。近付かれたくなくて、ラトは思わず、一歩先へと足を動かした。
「そうさ、ラト。全て私が仕組んだことだよ。おまえの力がほしかったからね」
 もう一歩。……一歩ずつ。
「だけど残念だな。私の仕事はそれだけじゃないよ。殺されそうだった赤子のおまえを占い師に預けるように仕向けたのも私だし、町の人間に恐怖を植え付けて、おまえから遠ざけたのも私。おまえが雨の中、町へ降りるように仕向けたことも、おまえが母さんに連れられてここに来ることも……初めておまえが町へ行った日、おまえに友達が出来たことも、全て私が仕組んだのさ。おまえに話しかけられるようになるまでの十二年間、他にも色々と苦労はしたけれど」
――刹那、脳裏が真っ白に染まる。
 背後からタシャの息を飲む声が聞こえてきた頃には、ラトは深く微笑んでいた。
 町の人間を川へ引き落とそうとしていた、あの時と似た気分だ。
(こいつは人間じゃないんだから)
 精霊の長だって、やられたのだ。
(もし殺してしまったからと言って、一体誰が責めるだろう)
 責められるわけがない。むしろ、感謝されても良いくらいだ。
「僕を生かしてくれたことには」
 呟く。
「お礼を言うよ」
 三つ目の視力が、一瞬戻った。先程のように掠れることもなく、今はしっかりと相手の姿が見える。ラトは自分でも驚くほどの大声をあげて、禍人へ飛びかかっていた。実体は相変わらずぼやけて見えたが、そこには確実な手ごたえがある。拳を握り、両手をあげる。
 めった打ちにしてやりたい。
 ラトの腕力では敵わないことくらい、容易に想像はついた。それでも、わかっていても、――止められない。
 殴りつける。禍人は反撃してこなかった。
 殴り続けた。本当に効果があるのかはわからない。
「やめて、いけない……。やめなさい、ラト!」
 ラトは手で自分の目許を拭い、もう一度禍人を殴りつけた。しかしタシャを振り返ろうとして、そのままその場へうずくまる。腹を抱えて咳き込むと、また目許に涙が滲んだ。
「どう、して……」
 禍人に反撃されたわけではないはずだった。だがラトが殴ったのと同じ分だけ、殴り返されたかのように体中が痛かった。
「ラト、おまえと禍人とは……深く結び付き過ぎた」
 精霊の長が、掠れた声で言う。
 涙がもはや、止まらない。悔しい。悲しい。それなのに、手も足も出ないのか。
「おまえの周りには、闇があまりに濃く……まとわっている。聞きなさい、ラト。もう道は、決まって、しまった……」
 道とは一体、何の道だ。ラトはゆっくりと、背後の長へと振り返る。あちこちにできた青あざが、それだけでみしみし鳴るかのようだ。
 タシャが青い顔をして、立ちすくんでいるのが見える。――手を放さずにいようと、誓ったばかりだったのに。
 ラトは何も言わずに、ただ、ただ、望む場所へと手を伸べた。歩み寄らねば、届かない。立ち上がらなくては。――戻らなくては、母さんのところに。
 もう片方の手を地面において、力を入れた。体中が痛む。だが、立ち上がる事はできそうだ。
 そう思った瞬間だった。
 突然体をすくわれて、ラトは痛みに目を閉じる。体が浮いている。禍人にかつぎ上げられているのだ。
「そうさ、ラト。道は決まっている。私はおまえ、おまえは私さ。おまえはもう私から、逃れることなどできないよ!」
 息を呑むより先だった。視界が歪み、どこか、深い闇の奥へと突き飛ばされたような、そんな心持ちがする。
 叫びたかったが、喉が詰まってそれどころではなかった。代わりにタシャが、ラトを呼んだ。答えたい。そう思うのと同時に、ラトは目を瞬かせた。眩しい。これは、何だろう。
「おやおや、まだそんなに持っていたのかい」
 頭上で禍人がそう言った。嬉しそうな声だった。
 口調は、怒りに満ちていた。
 
 二人が消え去った方角を見ながら、タシャは静かに呟いた。
「長様、まさかあの子は」
 瀕死となった精霊の長が、苦しそうに息を吐く。
「女、おまえは人間にしておくには勿体ないほど、聡明だな」
「……本当に、そうお思いですか」
 タシャの語気は強かった。それは、何かを覚悟した声だ。
 精霊の長が鼻で笑うと、洞の中に竜巻が起こる。タシャの服の裾が、派手に舞った。
「私は、おまえの息子に罰を、与えなければならない」
「道は一つとおっしゃいましたね」
「ああ」
「ならば私にはもう、抗う術などないのでしょう」
「その通りだ」
 長が、苦しそうに溜息をつく。タシャはそれを労って、それから言った。
「長様、どうか私の我が儘をお聞き届けください――」

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