吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 町を買った少年

015 : Mei veritas.

「やっとみつけたよ。こんな所にいたんだねえ」
 鳥肌がたつ、猫なで声。ラトが振り返る間もなく、正面から何かに吹き飛ばされた。尻餅をついて、小さく呻く。立ち上がろうとすると、その手を掴む何かがある。
 違う。手が地面に吸い付くようで、離れないのだ。
 大地の精霊のせいだろうか。尻餅をついた姿勢のまま、足も少しも動かない。ラトは焦ったが、視線だけは強く禍人を睨みつけた。
 見つかった。追いつかれてしまった。
 禍人のことが恐ろしい。しかし、逃げることができないのなら。
 互いにしばらく、言葉はなかった。腕が震える。脅えていると知られないよう、ラトは身を堅くして禍人を見ていた。どうして何も言わないのだろう。ラトにどう言えば願い事をさせられるだろうかと、考えているのだろうか。
 そう考えながらラトはふと、違和感を覚えた。
 脅えている。
 禍人のことが恐ろしい。
 ――だがその禍人の腕が、ラトと同じように震えている。
 ラトが驚きに目を見張っていると、押し殺したような声で禍人が言った。
「願え、ラト」
 ラトは答えなかった。禍人が、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「願え、ラト」
 声が苛立っている。ラトは一度唾を飲み込むと、問い返した。
「何を、願えって言うのさ?」
「平穏を。日常を」
「君のくれた日常なんて、とんだ偽りだったじゃないか」
「おまえの願いが不完全だったからさ。私も始めは、気づかなかった」
「気づくって、一体何の話」
 せせら笑いたいような気分だった。何かがおかしい。禍人は、なぜ震えているのだろう。どうしてこんな、妙なことばかり聞くのだろう。おかしくなってしまったのだろうか。そうだとしても、それは何故。
 ラトが問い直そうとした、その時だった。
「天空の城」
 まるでこの場にそぐわない、ラトにはそういう言葉に聞こえた。
「ラト、おまえは平穏や日常よりも、城を選ぶのかい」
「意味、わからないよ」
「おまえが願わないというなら、私にも考えがあるよ」
 みし、と何かが嫌な音を立てた。禍人の腕が、傍らに生えた老樹をしっかりと掴んでいる。――ほんの一瞬、その木にタシャの姿が重なって映った。
 鼓動が鳴る。ラトは息をのんで、叫んだ。
「やめろ!」
「それは願いか、ラト」
「ちが……っ」
 言い終わらないうちに、虚脱感が襲う。夕日を見た時ほどの衝撃はなかったが、また少し、力が奪われたのがわかる。
「おまえの願いだから、おまえの『本当の母さん』は壊さない」
 無茶苦茶だ。こんなのを相手に、一体どうしたら良いのだろう。この調子でやられたら、力などあっと言う間に無くなってしまう。
「ラト、おまえは力など持っていてはいけないよ。全て私に預けなさい。そうすれば、間違いなんてない。だから、ほら――」
「嫌だ! ……お前の言うとおりになんか、するもんか!」
 もう、禍人の声など聞かない。
(僕は、ここから、――帰るんだ!)
 パリッと何か、乾いた音がする。吸い付けるようだった地面の力が、刹那に消えうせたのだ。ラトは差し出された腕を振り払い、禍人に背を向け、走りだした。
 とにかく逃げて、時間を稼ごう。
 稼いでどうする。助けを待つのか? ――それとも。
 ラトは丘を駆け下りながら、ただ懸命に考えていた。逃げるだけでは意味がない。こうしている間だけは「願い」を言わされずに済むかもしれないが、それだっていつまでも続けることはできないだろう。
 どうにかしなくては。――自分の力で。
 不思議な世界に変わりはないのに、ここはツキと出会った場所とは違うようだ。走ったせいなのか、緊張のためなのか、ともかく息が苦しくて、ラトは肩で息をしながら立ち止まる。寄りかかるように手をついた木は、いまだに色なく佇んでいた。ラトは呟くように「けやき」と呼べば、答えるように、濃い緑がその場に灯った。
「……この世界にも、精霊はいるのかな」
 もしもこの寂しい野原で、禍人に殺されたなら――、誰か、ラトのことを探してくれる人はいるのだろうか。
 町の人間は、協力してはくれないだろう。母さんか、ニナか、二人だけだ。女手だけでここを探し当てるころには、ラトなどどうなってしまっていることか。
「そうなったら、おまえが知らせて。……ここにいるよ、ここに眠っているよと、どうか教えて――」
 声が届いたかはわからない。だが梢は、その葉を揺らせた。了承の印ではないだろう。これは、恐らく……
「追いついたよ、ラト」
 声に、ラトは静かに振り向いた。
 さあ、来た。
 もはや、逃げることに意味はない。戦わなくては。しかし、どうやって。
 ふと、心の中が昏く灯った。
 洞の中で感じたあの怒りが、急に力を持って戻ってくる。ラトは息をするのも忘れて、じっと禍人を見つめていた。睨みつけるでもない、穏やかな目で。
(ああ、やっぱり――だから言ったのに)
 もし一度触れてしまったら、もう制御は出来ない。
 雷鳴の中に見た、あの目。あれが、心に宿ってしまった。
 笑い出したいような気分だった。けれど、それが何故なのかはわからない。ともかく、ラトの心は怒っていた。どうしようもないほど、心が乾き、疼くのだ。何かを滅茶苦茶にしてやらなくては、気が済まない。
 目の前で、禍人が笑っている。余計に気が逆立つのがわかった。こうしている間にも禍人は、どうやってラトを陥れようかと考えているに違いない。
 ――自分の心に忠実に答えなさい、ラト。嘘をついてはいけないよ。ただ、心にうかんだ真実だけを口に出すこと……。
 なぜだか急に、タシャの言葉が思い出される。
(わかってる、母さん)
 呟いた。
 しかし、今ラトの心に浮かぶ強い願望が、その全てを邪魔している。その自覚もしっかりとあった。
 自覚はあれど、止められはしない。
 真実が書き換えられていく。気づいていても、抗えない。
「随分と、怖い目をするようになったね」
 禍人が言った。聞いてラトはせせら笑う。
「君のせいじゃないか」
「本当に、そうかねえ? ラト、おまえ、もしかしたら気づいているんじゃないのかい?」
 ラトは目を深く閉じて、ただ首を横へと振った。瞬間目の前にちらついた真実を、そうして遠くへ押しのける。
「私を消したいの? しかしその先、どうなることか……やめておきなよ、ラト。今やおまえのことを理解できるのなんて、私だけだよ。これ以上何かを失いたいのかい?」
 全ての言葉が煩わしい。禍人の声が震えている。脅えているなら、いい気味だ。
 そのまま恐れて、恐れて、ひれ伏せば良い。
 ラトは小気味よく笑った。気分が昏く高揚する。それに比例するかのように、禍人が焦りをあらわにした。
(ああ……、そういうことか)
 唐突に理解する。どうすればこの憎い敵を、滅多打ちにすることができるのか。
 名前をつけてしまえば良い。色付けてしまえば良い。そうして縛って、捨ててしまえば良いのだ。
 ――心にうかんだ真実だけを。
(真実……)
 ラトの三つ目に映る、それが真実だ。頭では十分理解している。けれど。
(……僕は、認めない)
 認めない。認められない。
 目を開けると、禍人と目があった。どこかで見たのとそっくり同じ、三つの目。目だけではない。手も、足も、今まで不安定だった姿形全てが、今や見慣れた姿を取っている。
(認めない)
 ――殺されそうだった赤子のおまえを占い師に預けるように仕向けたのも私だし、町の人間に恐怖を植え付けて、おまえから遠ざけたのも私……
 禍人の飲み込んだその先の言葉まで、今では手に取るかのようだ。
「ラト、いけないよ。おまえ、もう気づいているんだろう」
 禍人が、ラトの言葉を恐れている。
(絶対に認めない)
 こんな真実を、認めてたまるか。
「おまえは私、私はおまえだよ。私はお前の願望から生まれたのだもの。――馬鹿なことを考えるのは、およし」
 頭を強く殴られたかのように、改めて発せられたその言葉に、視界が揺れる。ラトは後ずさりして、奥歯を強く噛み締めた。
 耐えられない。もう、これ以上は。
「違う」
 それは、叫びだった。
「違う。違う!」
「何が違うんだい、ラト。何を考えているんだ」
 禍人の声が、たじろぎ怯えているのがわかる。
 言ってしまえ。何かがラトに、そう命じていた。
 言ってしまえ。
 ――心にうかんだ真実だけを。
(真実なんて)
 いらなかったのに。
「……おまえは僕なんかじゃない。僕の名前は、ラトだ。でも、おまえは名前もない禍人にすぎないじゃないか! おまえなんか、おまえなんか、都合の良いことばかりを言い触らす、ただの影だ、闇の生き物だ! さあ、どこへでもいなくなれ。……この、化け物め!」
 心が痛む。泣き出しそうだ。
 どうしてこんなに悲しいのだろう。ラトは思った。ほんの一瞬思っただけだ。答えは、考えるまでもなく出るものだったから。
(きっと今、僕は)
 禍人の声が聞こえてくる。低く、物憂げで悲しそうな叫び声。これが断末魔というものなのだろうか。
(今、僕は……僕を三つ目だというだけで遠ざけた、町の人々と同じ顔をしているんだろうな――)
 ――心にうかんだ真実だけを。
 タシャは確かにそう言ったのに。また、いいつけを守らなかった。
 禍人の叫びは続いている。見る間に禍人は小さくなり、しまいには弾けて消えてしまった。
 最後には、何も残らなかった。残ったのはラトと、中途半端に色を取り戻した草花。それだけだ。
 疲れていた。禍人に奪われた力は戻ったのか、それはラトにはわからなかったが、ともかく体中がくたくただ。
 その場に座り込みそうになるのをぐっとこらえて、ラトは再び歩きだす。
(洞へ、行かなきゃ)
 この世界の出口と言えば、思い浮かぶのはそこだけだ。ラトは足を引きずるように、先程タシャと歩いたのにそっくりな、色の無い道を歩いて行った。
 言い付けは守れなかった。けれどともかく、禍人のことは倒したのだ。
(僕は、禍人を倒したんだ)
 全て終わったはずなのだ。
(僕は、帰れるんだ)
 言い聞かせる。きっと、タシャもニナも笑顔で迎えてくれるはずだと。
 頑張ったね、よくやったねと、褒めてくれるはずだ。そう何度も心に語った。
(帰ったら、町へも行くんだ。みんなの誤解を解かなくちゃ)
 なんでもできる。帰ったら。
 自分の手に触れてみて、指先がひどく冷えていることに気づいた。手で手を握って、暖める。ひんやりとした指先に触れていると、洞の中で見たあの棺が思い出された。
 
 薄暗い洞にたどり着いて、ラトは中央に据えられた石台へ、すがりつくように座り込んだ。頬に触れる、表面がひやりと冷たい。
「母さん」
 呼びかけてみる。答えは無い。
「精霊の長さま」
 体の中に、冷たいものが走る。
 ラトは息を飲んで、両手でしっかりと石台を掴んだ。まさか、まさかという思いが募る。
 この洞の中に、色を取り戻してからでなければならないのだろうか。ラトはあわてて当たりを見回すと、思いつく限り、物の名前を呼んでみた。どれも色づくことはない。
 ――自分の心に正直に。真実と思うことしか、口に出してはならないよ。
 まさか。まさか。
「母さん、……母さん、開けて! ねえ、これからはずっと、どんな言いつけだって守るよ! 羊たちの世話だって、今まで以上に一生懸命やる。だから、だから……!」
 全ての問いの、答えは静寂。
 焦りと共に、急に体から力が抜けて行くのがわかった。
 指先に触れる、冷たい感触。全てが現実だ。そしてその現実が今、ラトを日常から完全に切り離している。
 洞の中の闇は、恐ろしいほどに美しい。
 ラトは呆けたように座り込んでいた。目は開いているが、そこには何も映っていない。
(今度こそ、本当に)
 涙が溢れて、頬を伝った。滴がラトの右手に落ちて、唐突に、悟る。
(本当に、――もう、取り返しは……つかないんだ)
 闇の中に、ラトは一人で取り残された。
 心の中に、笑い声が響く。それはあの、人懐っこく甲高い、耳に触る笑い声だ――。
-- 「幕間」へ続く --
▼ご感想等いただけましたら嬉しいです。

:: Thor All Rights Reserved. ::