吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 町を買った少年

008 : Acturus fui.

 目が覚める。薄暗い部屋のなかで、ラトはぼうっと考えていた。
 どうやら昨日は、机に伏したまま眠ってしまったようだ。辺りを見回してみるが、相変わらずの湿っぽい家の中に、人の気配は感じられない。
 雨は昨日ほどの勢いこそ無いものの、依然として降り続いている。ラトは扉を開けて雨の降り具合を確認すると、ぱたん、と再びそれを閉じた。空気はこんなにじめじめとしているのに、その音はいやに乾いて聞こえる。
「雨が降っているから」
 ラトは呟いた。感情の無い呟きだった。
「地盤が緩んで、危険だから……。雨さえ止めば」
 きっと、すぐに帰ってくる。
 何事も無かったかのように、母さんもニナも帰ってくる。
 ラトは独りで頷いて、扉のノブから手を放す。その瞬間、締め切った部屋の中におかしな風が起こった。高原の風ではない。あの時の風は、猛々しくて、優しくて、しかしどこか悲しみに満ちていた。比べてこの風は妙に暖かくて人懐っこく、何か楽しそうに浮き足立っている。
「帰ってこないよ」
 楽しそうに、声が言った。それが禍人であると、ラトは気づいていた。
「帰ってこないよ」
「どうしてわかる」
「帰ってこないよ。妹の方は知らないけれど、母親の方はお前に裏切られたと思っているし。私だって残念だよ。まさかこんなにはやく見つかってしまうなんて。占い師はああいう札を嫌うと、先に教えてあげたのに」
 ラトは目の前の扉を凝視して、ぐっと奥歯を噛みしめた。禍人が楽しそうに、背後をふらふらと舞っているのがわかる。
「君はやっぱり、母さんの言ったような忌むべきものだったの?」
 笑い声が聞こえた。楽しくて仕方がないというような、高く鋭い笑い声だ。
「まさか! 私は事実を言っただけ。誰よりもお前の味方だよ。安心おし、周りに誰もいなくなっても、私がずうっとそばにいてあげる。おまえは可愛そうな三つ目の子。誰にも理解されず、辛かったねえ。母さんも妹も、善良そうな顔をして、こんなふうにお前を見捨てていくのだものねえ」
 ラトは拳を握って、後ろを振り返った。同時に掴んだカンテラを、笑う禍人へ向けて投げつける。そんなものが禍人にあたるわけはなかったが、ラトは構わず言い募った。
「来たばかりのくせに、何がわかるんだ! 母さんも、ニナも、そんなのじゃない。雨のせいで帰れないだけなんだ! 雨が止んだら……必ずここへ帰ってくる。帰ってくるんだ!」
 家の外で、大きな雷が鳴った。雨戸の隙間からいくらか、稲妻の光が入り込む。禍人は笑いながらラトの周りをぐるぐると回って、「綺麗な光」と呟いた。それから同じように、「わからないのかい?」とも。
「わからないのかい? 来たばかりなんて、つれないことを言ってくれるじゃないか。私はずっとお前のそばにいたのに。お前の孤独をずっと見ていた。自分のことのように悲しかったよ。私はお前のことを皆知っている。だからわかる。おまえはそんなことを言いながら、心の内では二人とももう、帰ってこないのではと不安で仕方がないことも」
 この声を止めることが出来るのなら、もう何でもいい。ラトはそう思っていた。手当たり次第に辺りの物を投げつけて、それでも禍人が笑い続けるのを見ると、最後には椅子を蹴り倒す。
「僕はそんなふうになんか、思ってない!」
「思っているよ」
「どうして君に、そんなことがわかるんだ」
「そんなの、君の方が知ってるだろう?」
 聞いて、ラトははっとした。聞き覚えのある言葉。それは声も口調もラト自身が、夢の中でツキに向けた言葉そのものだ。
「……どうして」
 声が震える。後退りすると、すぐに壁へと突き当たった。
 言いようのない恐怖が、全身を巡る。そんなラトを労るように、あるいは、嘲るように、禍人がそっと声をかけた。甘く優しい声だった。
「なに、気持ちはわかる。言っただろう? 私はおまえの味方だからね。おまえは優しく、素直な子だもの。あの二人を信じていたんだろう。だが私は、おまえが、あいつらに騙されているという事実を知らぬまま生きていくと思うと、不憫でならないのだよ」
 『騙されている』――。その言葉がラトの心へいやに重く、陰鬱に飛び込んでくる。もはや目の前の禍人が笑っているのかどうかすら、ラトの三つの瞳には映っていなかった。
 薄暗い部屋の中に、雷の音が重く響く。
 ずしん、ずしんと稀に聞こえる偉大な音は、ラトに向かってまっすぐに向かってくる足音のようだ。
 小さく息を呑む。今のラトには、その行動すら大きな過ちに思えた。今の音で、気づかれてしまった。そんな気がしてならなかったのだ。
 何か大きく、得体の知れないものが、こちらに向かって歩いてくる。
 それはいかにも親しげに、その顔に満面の笑みを浮かべて、きょろきょろとラトを探していた。いや、恐らくは今までもずっと、ラトを探し続けていたのだ。ラトがその事に、今ようやく気づいたというだけのこと。ただ、それだけだ。
 遥か遠方の山の谷間から、じっと目をこらしてこちらを睨み付け、それはずっと待っていたではないか。
 ラトの許しを得て、こうして表に現れることを。
「――おやあ」
 すぐ隣で聞こえた頓狂な声に、ラトは身を震わせた。その拍子にバランスを崩し、強かに尻餅をつく。ラト自身が投げ散らかした花瓶の破片が掌に触れ、じんわりと暖かな血を滴らせた。
「気づいたのに、声をかけてあげないのかい?」
 禍人が言った。ラトはただ、声をあげることなく首を横に振る。
(声を出さないで)
「可愛そうに。あいつはずっと、おまえのことを待っているというのに」
(黙って、見つかってしまう)
「あいつもね、私と一緒だよ。おまえのことが、心配で、心配で、そして」
(お願いだから、……もし一度触れてしまったら、もう、僕には制御出来ない)
 それは確信だった。
「可愛くて仕方がないのさ、ラト。お前が守ってきた羊たちのように、迷い、傷つき、戸惑うお前の姿がね」
 雷が落ちる。稲妻が光る。
 ラトの第三の目は、その時確実に、光の中に潜む何かを見ていた。
 ああ、相手が振り返る。
 その淀んだ、昏い目が――今、しっかりとラトを見た。
「う……」
 声なき叫び。同時にどこか近くで、ラトが今までに聞いたこともないような恐ろしい音と振動がする。
 家自体が大きく揺れる。棚に乗せてあった物が落ちてくるのを見て、禍人は「おっと」と悠長な声を上げ、座り込んだラトを庇うように、机を楯にした。
 音は止んだが、大地はまだ揺れている。ラトは恐る恐る机の下から這い出ると、強く禍人を睨み付けた。口元が震えているため滑舌は悪いが、はっきりと、まっすぐにこう尋ねる。
「君がやったのか」
「まさか」
 禍人はそう言って、ラトの顔に付いた埃を吹き払った。ラトが腕でそれを押しやろうとすると、相変わらずの高い声で笑う。
「私ではないよ。昨日からのこの雨で、土砂崩れが起きたのさ。西の丘の方角かな」
「……!」
 ラトは短く息を呑んで、急ぎ、立ち上がった。西の丘と言えば、マカオの町に接する丘陵地帯だ。丘で土砂崩れが起これば、確実に町に被害が出る。町には今、タシャもニナもいるというのに。
 扉を開けると、相変わらずの雨が吹き込んでくる。ラトはその勢いに一瞬気圧されたが、一度扉を閉じて滅茶苦茶になった室内を探ると、合羽を纏い、バンダナを手にとった。
 ラトは持ちかけたカンテラを元の位置へ戻すと、もう一度扉に手をかける。外は薄暗いが、灯りが必要なほどではない。第一、火を点したところですぐ、雨風に消されてしまうだろう。
「マカオは丘に囲まれている。土砂崩れが始まった今となっては、どこもかしこも危険だらけさ。その点、この家なら安全だよ。おまえまでわざわざ、危険の中に身を投じることなんてないさ」
「うるさい」
「町が心配なのかい? 私にはわからないな。あの町がお前に何をしてくれた? お前を苦しめたばかりじゃないか」
「――うるさい!」
 怒鳴るというよりも、叫ぶに等しい行為だった。何やら胸が苦しくなって、ラトはぜえぜえと肩で息をする。バンダナをするりと慣れた動作で額に結ぶと、扉を押しやるように開き、一目散に雨の中を駆けていく。
 昨夜よりも幾分細くなった雨は、それでもまだ空から垂れ下がる何重ものヴェールのように重なって、ラトの行く手を阻んでいる。ラトはそれでも駆けていた。
 そのうち、土砂崩れの現場へたどり着く。そげた山肌が濃い土のにおいを発し、倒れた木々達を慰めようと躍起になっている。ラトは町の方を見下ろして、ひとまずは安堵の溜息をついた。土砂はかなりの規模で崩れているが、町を押しつぶすほどではなかったようだ。
(だけど、これだけの土砂崩れだ。ただでさえ、この大雨なのに)
 町はどうなっているだろう。母さんやニナは無事だろうか。
 雨で濡れ、重みを増したバンダナが、ずるずると下がってきてしまう。ラトはそれを押し上げて、町の方へと視線を移した。
(町へ行きたい。何もわからず待つだけなのは、辛すぎる――)
 俯いて、考える。タシャは、ラトから取り上げた札をどこへやっただろう。家のどこかへ隠している可能性はないだろうか。隠すとしたら、一体どこだ。いや、用心深いタシャのことだ。札は肌身離さず持っていると考えた方が良いだろう。
「これをお探しかい?」
 ラトの背後で、禍人が言った。ラトははじめ禍人を睨みつけたが、そこに出された物を見て、すぐに押し黙る。悔しくても、今はそれに頼るしか無いことを承知していたからだ。
「……母さんから、取り返したの?」
 呟いた声は、雨音をものともせずに禍人へ届いたらしい。禍人はひひっと笑うと、「そんな馬鹿なことはしないさ」と答えた。
「新しい札だよ、ラト。前に渡したものよりは少し弱いが、この雨の中、様子を見て帰ってくるだけなら問題ないさ」
 禍人が手を伸ばして、札をラトに押し付ける。禍人の実態は相変わらず見えないのに、その動作はやけにリアルに視えた。
 ラトは奪い取るように札を掴んで、小さく一歩退いた。再びずり落ちてきたバンダナを外すと、札を額に張り付ける。足元にできた水たまりを覗き込めば、前の札の時と同じように、すっかり別人のような外見になった自分がいた。
「行っておいで」
 優しい声だった。禍人がそう言って、こう続ける。
「そして、なにもかもを確かめておいで。そう。なにもかもをね」
 禍人の言葉が終わるのを待たずに、ラトは再び駆け出した。そうしてその背を見ながら、歌うように軽やかに、祈るように厳かに、禍人はこう呟くのだった。
「はやくおいき、ラト。私はおまえのためにする準備に、ちっとも力を惜しまない。おまえには、最高の夕日を見せて上げようと約束をしたからね」
 禍人はひらりと飛び上がると、風雨の中へ、溶けていった。

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