吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 町を買った少年

009 : Ob errorem.

 町へ近づくにつれ、ラトは進む速度を落としていった。始めこそ飛ぶように駆けて町へと心を焦らせたものだったが、ただでさえ地盤の緩んだ場所を歩くのに、あまり急いては危険すぎる。それに何より、歩けば歩くほど、禍人に言われた言葉が脳裏で渦をまいたのだ。
(違う。……違う。あいつの言うことなんて、全部嘘ばっかりだ)
 禍人の言葉が聞こえてくる度、ラトは首を横へと振った。
 自分の中に渦巻く、馬鹿な思いを消したかった。しかし禍人のことを否定すればするほど、その力に頼ってしか、こうして町へ向かうことのできない自分を悔しく思う。
 雷鳴が轟く。その一瞬だけ身を怯ませたが、ラトはそれさえ目の前から振り払おうとするように手を動かすと、再び雨の中を歩き始めた。滑らないように、木の根を足掛かりにして坂を下りる。町の方から、不安を焚きつける音が聞こえてきた。警鐘だ。
 町外れにある馬小屋を越え、町の中心部へと急ぐ。途中、道の端で動くものが目にはいった。女性だ。地面に倒れ込み、その片足は、風に飛ばされてきたのだろう瓦礫の下敷きになっている。
 ラトは慌ててそちらへ向かうと、女性を手伝い瓦礫をどかした。女性は礼を言って立ち上がろうとしたが、どうやら傷が痛むらしい。ラトは女性の体を支えて、聞いた。
「町の人はみんな、どこへ行ったんですか?」
「警鐘が聞こえないの? みんな、避難所へ向かっているわ」
 うっかりしていた。今の質問では、町の人間ではないことがばれてしまうところだ。幸運なことに女性は気づかなかったようだが、気をつけなければ。そう思った。
 避難所というのは、町の中央にある町長の家のことらしかった。
 石造りのがっしりとした家の中は人で溢れ、子を探す親の声、脅える声、祈りの声、様々な声で溢れている。ラトはその中を縫うように歩き、タシャとニナを探したが、どちらの姿も見あたらない。しかしそうして歩くうちに、ここに集まった住人たちが何に脅えているのか、ラトにもようやくわかってきた。
 彼らの恐れの対象は、雷鳴や土砂くずれではない。このマカオの町の一辺へ沿うように伸びた、タネット川の氾濫を危惧しているのだ。
 日頃マカオへ水を運び、人々に潤いを与えているタネット川も、この大雨で姿を変えた。すでに町の西側、いくらか地面の低い地域では、水に浸かった家もあるそうだ。そして、そういう洪水の後には、大抵の場合疫病がくる――。
 ラトは不安そうな町の人々の表情を見ながら、そっと額に手をやった。雨に散々降られたはずの札は、手に触れた感覚では全く濡れた様子も無く、ラトの額に張り付いている。
 額に触れた指先が、わずかに震えているのがわかった。ラトは手を下ろすと、壁の方へと視線をやる。
(どの表情も、僕に向けられたものじゃないのに)
 人々の脅える顔を見るだけで、胸がきりきり音をたてるようだ。脅える人々とほんの一瞬目があっただけで、吐き気がしそうに苦しかった。いつのまにか、ラトの表情までが氷のように強ばっている。
 ――だが誰が気づくだろう。彼が恐れているのは、洪水でも、疫病でも、更に言うなら土砂くずれでも雷鳴でも無く、それらに脅える人々の顔であるのだなどと。
 タシャ達の無事を確認したい。しかし心がついていかない。このままいつまでもここにいたら、不安に押しつぶされて死んでしまうだろう。そう思えるほど辛いのだ。
 ラトはそっと、避難所の出口へと向かった。雨脚は、また強くなりつつある。外が危険であることはわかっているが、いつまでもここにいるのは辛すぎた。
 タシャもニナもいないのなら、長居する必要は無い。外に出てどうするのかなど、ラトにはわからなかった。どこか空き家で雨宿りをするのか、他の避難所を探して歩くのか。どちらにせよこの雨の中、丘を登って家へ帰るのは難しいだろう。
 それでも、脅える人々の群れから逃げ出したい。
 ラトがそっと入り口に立つと、大きな音と同時に扉が開かれた。ラトはそれを慌てて避けたが、すぐに扉が閉められるまでの間に、雨が室内へと吹き込んでくる。雨足が強まったのは感じていたが、これは予想以上だ。
 なだれ込むように入ってきたのは、三人の男だった。救助隊の一派のようだが、内二人は手傷を負っている。その怪我人を避難所の人間に預け、運んできた一人が何事かを喚きちらしていた。ラトは扉に手をかけて、男の演説が終わるのを待つ。こちらへこう視線が集まっていると、どうも扉を開きにくい。
 はやくここから逃げ出したい。どこでもいいから、どこか、誰も人のいないところへ向かいたいのだ。しかしその時ふと、男のわめき声が一つの言葉となって、ラトの脳裏へ飛び込んだ。
「手の空いた奴は来てくれ! 町はずれの学校の生徒が、教室に閉じ込められたままなんだ。……あのままじゃ、いつ土砂に呑まれてもおかしくない!」
 どくん、と鼓動が緊張を知らせる。マカオのこの小さな町にある学校は、たったの二つ。それだけだ。それも片方の学校は町の中央にある高学年向けの学校であり、町はずれの学校と言えば、ニナが通っているはずの、あの学校の他にはあり得ない。
 男が次の言葉を始める前に、ラトは乱暴に扉を開け、雨の中へと飛びだした。背後で注意を呼びかける声が聞こえたようにも思ったが、かまわず先へと走り去る。
 途中、ぬかるみに足を取られて尻餅をついた。しかし構っていられない。ラトは慌てて立ち上がり、額の札がはがれていないかだけを確認すると、一目散に走っていった。ここ数日、町を探検していたのが役に立つ。知り得る限りの最短距離で学校までを走り切ると、ラトは肩で息をしながら立ち止まった。
 学校の扉の前で、救助隊の人間らしき数人の男がずぶ濡れになって声を掛け合い、懸命に作業を続けていた。ラトはその中に自分の体をねじ込むと、ひしゃげた扉を更に塞ぐかのように置かれた大岩を、一緒に引っ張り始める。
「君は先に、避難所へ向かいなさい!」
 声が聞こえたが、ラトは答えなかった。その声も幾度か注意をして、しかしラトに立ち退く気が無いのを見て取ると、観念したように口をつぐんだ。
 諦めたのもあるが、希望を見いだしたからもあるだろう。事実、大岩は結ばれた縄に引っ張られ、徐々に扉の前から移動しつつあったからだ。
 掛け声にあわせ、縄を引く。大きな岩がずるずると音をたてて地面を這い、しかし丘の上の方からも、土砂が崩れつつある嫌な音が聞こえていた。
「石はその辺りで大丈夫だ! ひしゃげた扉を開けるから、全員こっちを手伝ってくれ!」
 スコップを持った男がそう言って、今度は大声で中に呼びかける。無事を尋ねる声に、泣き声の中からしっかりとした少女の声が答えた。
(――ニナだ!)
「中は、全員無事か? 怪我人は? ここにいるのは子供だけなのか?」
「先生が一人います! だけど、土砂崩れの揺れで腰を打って、動けないの! 扉をこじ開けるなら、私達、少し離れていた方が良いですか?」
「ああ、頼む! いいか、必ず助ける。だからみんなを落ち着かせてやってくれ、出来るか?」
「……やってみます!」
 ニナの、力強い返事が聞こえる。救助隊の人間は扉にスコップを突き立てて、どうにかこじ開けようと一生懸命だ。学校には勿論窓もあるのだが、大抵は雨戸が閉まっている上、そもそも人の通れるような大きさではなかった。ガラスは貴重な物だし、強度がないので、マカオでは大抵どこでも窓を小さく、しかし多めに作るのだ。
 またどこか山の上の方で、土砂の崩れる音がする。次いで聞こえた雷鳴に、ラトは一瞬目を閉じた。
 雷光が、ラトのまぶたの裏に映える。その明かりの中に、一瞬何かの幻影が映った。
 風に煽られて、どこかの店の看板が飛んでくる。スコップを持って扉をこじ開けようとしていた男の頭にそれが当たり、人々はそれにかかりっきりになる。子供の泣き声が強くなる。ニナは、おかしな音がすると訴える。扉はまだ開かない。そうしている間に、土砂は崩れ――
 ラトははっと目を開けると、大声を上げた。
「――危ない!」
 スコップの男に飛びかかる。男は驚いたように声を上げ、そのまま尻餅をついた。
 直後、尖った看板が飛んでくる。それはつい先ほどまで男が作業していた場所を通り、いまだ頑なに開かない扉にあたると、がらんと音をたてて地面に落ちた。
 男が礼を言うのが聞こえたが、既にラトの耳には届いていなかった。先ほど見た幻影のように事が起こるというのなら、今度は近くで土砂が崩れ、この建物へ降りかかってくるはずだ。急がなくては。もう時間がない。
(雨の精霊、大地の精霊、お願いだから力を貸して。この扉を開けないと、そうじゃないと、みんな埋まって死んでしまうんだ……)
 スコップを扉の縁にかけ、てこの力を押し当てる。救助隊の人間達も、すぐに手を貸した。しかし扉は開かない。ラトはもう一度、心の中で呼びかけた。
(お願い。ほんの少しで良いんだ、力を貸して――!)
 ラトがどんなに必死でも、精霊達は気まぐれだ。第一、扉をこじ開けるだなんて、一体何の精霊に頼めばいいと言うのだろう。大地の精霊に土砂崩れを食い止められないか問うことも考えたが、建物一つ飲み込んでしまいそうな規模の土砂崩れを前にして、ラトが何か言ったからといって、どうにかなるとは思えない。
 いや、それならば、扉も同じ事なのだろうか。
 どうにもならないのだろうか。ラトの力では。
「泣かないで、大丈夫よ!」
 中からニナの声が聞こえる。
(お願いしたじゃないか。妹を守ってって。その妹が、この中にいるんだ。助けたいんだ。――お願いだから、どうか、どうか僕の頼みを聞いて)
 精霊達に呼びかける。どうも何かがおかしいと、そろそろラトも気づいていた。心の声が拡散して、一向に、精霊達へ届いたようには思えない。
 何かが邪魔をしている、と、その時になって強く感じた。何だろう、何かがラトの邪魔をしている。手を伸ばしたら届きそうだ。取り去ってしまえそうだ。
 ラトは迷わず、その邪魔者に手を伸ばす。手応えがあった。
(精霊達、どうか力を貸して! この扉を開けたいんだ!)
 叫んだ瞬間、大地が微かに揺れ、言葉通りてこでも動かなかった扉が開いた。しかし今の揺れで、地盤のゆるみが更に強まったのだとわかる。
「みんな、急いでそこから出るんだ! 建物から離れろ!」
 子供達が溢れ出てくる。ラトは安堵の息を吐いたが、同時に、救助隊の一人に首根っこを捕まれ、建物から引き離された。
「もう他にはいないか、いたら返事をしろ!」
 教師に肩を貸し、建物から出てきながら、救助隊員の一人が言う。どうやら全員、学校から出ることが出来たようだ。その直後、土砂がその場へ降ってくる。
 ラトは肩で息をしながら、その様子を気だるく眺めていた。
 もはや疲れ果てていた。既に全身ずぶ濡れで、合羽も意味を為していない。被っていたフード自体、いつの間にか頭から外れ、背中へ力無くぶら下がっている。座り込んだまま、他の人々がどうなったのかを確認する気すらおこらない。
 精霊に呼びかけるのに、力を使い切ってしまったのだろうか。ニナを探さなくては。しかし、体が言うことを聞かなかった。
「お、……お兄ちゃん?」
 すぐ隣で声がする。ニナだ。ラトが向けた視線の先に、ぽかんと口を開けて、ニナが確かに佇んでいた。ラトは安堵の笑みを浮かべて、そうしてそのまま凍り付く。
――その札さえあれば、ようく見知った人間達の目すらも欺くことが出来るよ。
 禍人は確かにそう言った。
 ならば何故、ニナには自分のことがわかるのだ?
 ラトはそのまま、身を竦ませていた。
 振り返る勇気はない。
 この場から走り去る気力ももはや、ない。
 わかっていた。
 理解していた。
 今やこの場に居合わせた全ての人間が、ラトに畏れの視線を向けていること。
 そしてその事態を引き起こしたのが、自分自身だということも。
(邪魔だと思って破り捨てた、あれは)
 自分の心臓の音だけが、耳の裏によく息づいていた。手で額を探ると、ちぎれて半分になった札が、びっしょりと濡れて手に触れる。
 ラトはそうして、ふと、おかしかった羊たちや精霊の様子を思い出していた。
(僕はさっき、自分の意志で札を――あの札を、破り捨てたんだ)

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