吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 町を買った少年

007 : Sine dubio.

「ラト、起きなさい。――起きなさい!」
 目覚めながら、ラトはその切羽詰まった声を聞いていた。母さんだ。こんな夜中にどうしたのだろう。
(ああ、ひどく嫌な予感がする。目を開きたくない。お願いだから、今はそっと放っておいて……)
 起きたくないとは思っても、ついに目は覚めてしまった。ラトは言い訳するかのようにあごを引き、恐る恐る目を開ける。真っ黒なローブを着たタシャが胸の前で腕を組み、ベッドのそばへ立っていた。
 母さんの顔よりも、扉の近くで身を竦ませているニナの顔が先に見えた。ニナもやはり今起きたばかりなのか、寝間着に身を包み、家の中でしか使わないサンダルを履いている。その表情はすっかり狼狽しており、ラトとタシャとを代わる代わる見比べていた。
「ラト」
 静かな、低い声。ラトが視線を上げると、タシャは何かを堪えるように口を真一文字に結んで、ラトを見下ろしている。その右手に握られた紙切れを見て、ラトは思わず息をのんだ。間違いない、ベッドの下へ隠していたはずの、あの札だ。
「これを、一体どこで手に入れたの」
 感情を感じさせない、だがそれ故に、強い力を感じさせる声。ラトはベッドから半身だけを起こした姿勢で、ぐっと奥歯を噛み締めた。
 言えない。
(言ってしまえば良いのに。禍人がくれた。禍人は悪いものなんかじゃないって。ついさっきまで、心からそう思っていたじゃないか。説得できれば、やましいことなんて無くなるだろうに)
 閉じたままの口の中で、舌だけが空回りする。急に喉がちりちりとした。
 言えない。こんなにまっすぐに目を見られて、言えるわけがない。
(どうして今になって、こんなに不安になるんだろう。禍人と話したのは、やっぱり間違いだったのか……だけど禍人は、確実に僕の気持ちを言い当てたじゃないか。わかってくれたじゃないか。――母さんやニナよりも、ずっと)
 どちらを信じるべきなのか、ラトにはわからなかった。
 どちらも信じたい。どちらをも信じることはできない。どちらかしか信じることができないのなら、それなら――
「これを、おまえは何度使ったの」
 タシャが言う。
(言わなくちゃ)
 乾いた喉から、絞り出すように、ラトは呟いた。
「禍人にもらって、何度も、使った。でも母さん、悪いことなんて何も起こらなかったんだ。本当だよ。禍人は悪い奴なんかじゃない。……お願いだから、札を返して。僕にはそれが必要なんだ。その札が今、何より一番大切なんだ――」
 タシャは何も言わなかった。無言でただ目を伏せて、じっとラトの顔を、いや、三つ目のある額を見つめている。その瞳がうっすら涙に滲んでいるように思えて、ラトは思わず息を飲んだ。それがラトのせいであることは、一目瞭然だ。
(僕が、母さんの言い付けを守らなかったから……)
 本当にそれだけだろうか。しかしそれなら何故、叱るでもなく諌めるでもなく、こんなふうに涙するのだろう。
 タシャは何も言わずに、札を自分のポケットへとしまった。ラトは一瞬破られてしまうものと思ったが、そういえば昔ばあさまに、強力な札を無闇に破ると思いがけない不運に見舞われることがあると聞いたことがある。
(それなら、まだ返してもらうチャンスはある)
 考えて、すぐに嫌な気分になった。
(母さんを泣かせてまで、札なんて使う必要があるのか?)
(だけど母さんだって、僕をここへ閉じ込めておくばかりじゃないか)
(それは、僕が町の人に怖がられるのを、悲しむって知っているから)
(もし、母さんが堂々と僕を町へ出してくれていたなら)
(けれど、それでも――)
 ラトは、タシャが部屋から出て行くのを黙って見ていた。ベッドに腰掛けたその状態から、微動だにすることもできなかった。
 扉の前に立ちすくんでいたニナも、いくらか経つうちに去っていってしまう。
 ――ラトは真っ暗な部屋に独り残されて、それでもまだ、一人呆然と考え続けていた。
 
 翌日は、朝から土砂降りの雨だった。
 昨日の夜から降り続いた雨が、更に雨足を強めて吹き荒れている。壁や雨戸が激しく打たれる音を聞きながら、ラトはゆっくり視線を扉へやった。向こうの部屋で、誰かの動く音が聞こえたからだ。
 あのまま、いつの間にやら朝になってしまったらしい。ラトはぼうっとした頭でそんなことを考えながら、目を伏せる。外では大雨が降っているというのに、体中がからからだ。今にも干からびて死んでしまうのではという錯覚を覚えながら、それでも、ノックをする音に小さく返事した。
「――お兄ちゃん、私、学校へ行ってくる」
 遠慮がちに、ニナが言った。
「母さんはね、夜のうちに町へ行ったの。しばらく忙しくなりそうだから、二人でしっかりねって」
「……そう」
「今日はずっと雨が降りそうだから、羊たちの干し草、出しておいた。あと、朝ご飯もつくっておいたから……あの、食べてね」
 呟くようにそう言ったニナは、母さんとよく似た黒鳶色の髪をお下げに結い、頭から合羽を被っている。ラトが無言で頷くと、彼女はいくらか躊躇いがちに、再び扉を閉めていった。
 四年前に出会った『妹』。ラトはふと、彼女が出会い頭に言った言葉を思い出した。
「町のみんながね、私のお兄ちゃんになる人は、怖い目をした人なんだって言ってたの。だけど違うね。私のお兄ちゃんには、優しい目が三つもあるのね」
 ばあさまが死に、一人取り残されたあの頃。五日に一度だけ食材を運んできていた町の人間を待つわけにもいかず、ラトは一人で墓の穴を掘った。心身共に疲れ果て、新しくやってきた二人への接し方もわからない。そんな時のことだ。
 ――優しい目が三つもある。
 その小さな女の子が口にした言葉に、どれだけ救われたことだろう。
 ラトは目を瞑り、深く息を吐いた。空気が湿っている。雨音が更に強くなってきた。
 ベッドから這い出ると、体の節々が軋むようだった。昨日の夜から、微動だにせず座り続けていたのだ。それも当たり前のことだろう。
 扉を開けると、薄いスープの香りがした。玄関先では、ニナが合羽の下に荷物を担ぎ、外の様子を窺っている。傘を使おうかどうかで迷っているらしい。
 ラトは力無く息をつくと、「ニナ」と短く声をかけた。
「雨、強いから気をつけて。崖の端は歩かないようにね。町への道は、たまに崩れるようだから」
「わかってるわ。お兄ちゃんこそ、羊たちを守ってあげてね」
「大丈夫だよ。僕が何年、羊たちの世話をしてると思ってるのさ」
 ニナがにこりと微笑んだので、ようやくラトもいつものように笑むことが出来た。ニナの側に、昨日のことを尋ねようという気はないらしい。今はそれだけが救いのようにさえ思える。
 扉を開けたニナの肩を、ぽん、と叩く。そうしてラトは心の中で、精霊達に話しかけた。
(僕の大切な妹なんだ。ちゃんと、町まで守ってくれよ――)
 雨が吹き込むからと言って、ニナは外へ出るとすぐに扉を閉めてしまった。
 雨音に混じって、精霊達の応えが聞こえる。それが、ツキに言われた言葉と重なった。
――ラトの頼みじゃ、断れないな。
 彼はあの後、高原の風の所へ行ったのだろうか。
――俺は、天空の城で待っている!
 今はどうしているのだろう。宣言通り、ラトのことを天空の城で待っているのだろうか。
(天空の城……)
 ラトは扉の前に立ちつくしたまま、ぐっと自分の拳を握りしめた。
(ばあさまの物語に出てきた城。地上の人々には預かり知れない沢山の宝を持ったまま、今も空のどこかを彷徨っているはずの大地……)
 ツキと話した言葉の全てが、急に現実味を失っていく。天空の城で待っているだなんて、一体誰がそんなことを考えつくのだろう。やはりあれは、ただの夢に過ぎないのではないだろうか。
「……折角のスープが、冷めちゃうな」
 呟いた。
――時がきたら、いずれまた。俺は、天空の城で待っている!
――何年先でも良い。また会おう、夕日。
 ツキのこと、高原の風のこと。どこまでが夢で、どこまでが現実だったのだろうか。ラトにはちっともわからなかった。今わかっているのは、大切な札をタシャに見つけられてしまったこと。そしてもう二度と、あの札を使って町で遊ぶことはできないだろうということだけだった。
 雨が降っているから、羊たちを連れて出かけることは出来ない。きっと今日は、丸一日を家で過ごすことになるだろう。いつもの雨の日なら、母さんかニナ、どちらでも良いからはやく帰ってきて欲しいと思うものだが、今日は心底、一人でいられることが嬉しかった。
 昨日の歌を口ずさむ。もしあれがただの夢だったのなら、あの詞を作ったのもラト自身なのだろうか。
「森よ、森よ、彼の森よ……つとして眠るその幼子の、小さな体を支えておくれ」
 この風雨では、きっと森も悲鳴を上げているだろう。
 丘に捨てられた幼いラトは、老樹の根本に抱かれるようだったらしいと、ばあさまから聞かされたことがある。「私が死んだ後、寂しくなったらあの木をおまえの母と思って、大切にするんだよ」そう言って笑った、ばあさまのことが思い出された。
「月よ、月よ、彼の月よ。独り旅立つその旅人の、孤独な道を照らしておくれ――」
 今夜は月など出そうにない。今すぐにでも追いかけて、問いただしたい同名の友人も、きっと今夜の夢には出てきてくれないだろう。
――待っておいで。近いうちには、必ず最高の夕日を見せてあげるよ。
 不意に、あの猫なで声が思い出された。急に背筋がぞくりとする。何があるというわけでもないのに、ラトは振り返ることもできず、独り佇むばかりだった。
 
 その日は一日中、雨の降り止むことがなかった。
 ニナも、タシャも、一向に帰ってくる気配がない。雨があまりに強いから、町で雨脚が弱まるのを待っているのだろうか。
 雨は絶え間なく降り続ける。
 降って、降って、降り続けて、雨音は次第にラトの心へ入り込み、ついには歌をかき消していく。

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