吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 町を買った少年

006 : Quis vocat? -2-

「約束?」
「やっぱり忘れているね。四人で約束したじゃない。時が来たら、またいずれ、って」
 首を傾げて、考えてみる。やはり心当たりはなかった。ラトはばあさまに引き取られてこの方、マカオの町より向こうへ行ったことがないのだ。ツキの名前はどう考えてもこの辺りの人間のものではないし、それなら、その時もこうして夢の中で会ったのだろうか。しかし四人というのなら、残りの二人は誰なのだろう。
 そんなことを考えていると、ふと、ツキが口の端をあげてみせた。ラトの考えなど、とうにお見通しだとでもいうような笑みだ。そうして彼は唐突にラトへ背を向け、丘を駆け降りていく。
「待って、ツキ! どこへ行くの? 忘れていることなら謝るよ!」
「大丈夫、怒っちゃいないよ。ラト、下手の考え休むに似たり、さ! 深刻に考えなくていい。覚えていようが、いなかろうが、俺たちの出会いは必然なんだから」
 ツキがそう言い、丘を降りて行く。しかしこの丘は、ラトにとって庭のようなものだ。身軽に駆けていけば、すぐにツキへと追いついた。
「つか、まえ……たっ!」
 ツキの肩をぽんっと叩く。すると慣れぬ勾配を駆けて元々足がもつれていたらしいツキがバランスを崩し、あおりをくってラトまで転ぶ。二人して丘の坂道へ転がって、いくらか落ちて、ようやく止まった。そうして二人で、笑い出す。
「夢の中で良かった。全然痛くないや」
 ラトがそう言って、芝の上をごろんと転がる。相変わらずの乾いた空を見上げて、大きく息をついた。ツキが隣で同じようにして、言う。
「追いかけっこなんて、初めてした」
「そうなの? 僕は、普通の子供はみんなするものだと思ってた」
「普通の子供? ――へえ、そうなのかな。でもともかく、俺は初めてだ」
 何か気になる言い方ではあったが、ラトは聞き返さなかった。そうしてその後二人も、どちらもしばらく黙っていた。
 風もない野原に寝転がり、ただなんとなく空を見上げているうちに、時間が過ぎていく。
「ラト、君はマカオの町から、外に出たことがある?」
 ツキが唐突に、そう聞いた。
「ないよ。大体、僕の家がマカオにあると言ってもいいのか、わからないけど」
「ラトを育てたのはマカオの占い師だろ? 住人がマカオに属してるんだから、この丘だってマカオの町さ」
「……難しくて、良くわからないな」
「いいさ。そのうちわかれば」
 ツキが笑う。なんだか馬鹿にされているようにも思えたが、確かにラトよりは、ツキの方が物の道理を理解していそうに思えた。それに話を始めた当の本人が、「そんなことはどうだっていいのさ」とこともなげに言い捨てる。
「それより、ラト。まさか君、ずっとあの狭い町の中で暮らすつもりはないんだろう?」
 ツキの言葉を聞いて、ラトはまず驚いた。驚いたが、これ以上子供のようにあしらわれるのが嫌で、答えだけはすぐに返す。
「そんなの、まだわからないよ」
 突然何を言うのだろう。ラトにとってはその「狭い町」まで出て行くことだって、十分すぎる冒険だというのに。
「じゃあ、君の夢は? まさか一生羊飼いを続けるつもりなの?」
 また、答えに困る質問だ。
 ラトは口の中だけで「だって、僕が羊飼いをやめたらあの羊たちはどうなるの」と呟いたが、ツキはまるで聞こえていないかのように、素知らぬ顔をし続けている。そうして横柄な態度で起き上がると、ラトの方を見下ろした。その表情は、陰になってよく見えない。
「続けるの?」
 敵わない。何が何でも答えさせるつもりのようだ。
「夢ならあるよ」
 観念して、ラトは言った。
「へえ。町の肉屋? それとも農夫?」
「違う。だけど、言ったらきっと『幼い』なんて言って笑うだろうから、君になんか教えない」
「笑わない」
「笑うよ」
「絶対に、絶対? 本当に俺が笑うって言い切れる?」
「そんなの、君の方が知ってるだろう?」
「そうさ。だから俺は、絶対笑わないって誓う。さ、話したまえ」
 随分尊大な物言いだが、不思議と嫌な気はしない。この少年は、ラトが相手だからといって怖がったり、距離を隔てたりしないのだ。きっと同じ目線で、対等に話すというのはこういうことなのだろう。
 ふと、ラトは唐突に自分の目のことを思い出した。三つ目のことを忘れるなんて、自分が自分でないようだ。
「冒険者になりたいんだ」
「冒険者?」
 ツキは頓狂な声を上げたが、その声にはどこか、その答えを予期していた感があった。それもそのはずで、マカオのような偏狭の町では、冒険者を夢見る子供が多いのだ。ラトの知る限りでも、ニナの友達で冒険者になりたいと言っている少年が、五人はいる。
「それで?」
「それで、って?」
「笑われると思うのには、もっと他の理由があるんだろう?」
 自信に満ちた表情だ。この少年には、相手の心を読む力でも備わっているのだろうか。
 ラトはしばし逡巡した後、呟くようにポツリと言った。
「――僕は、天空の城へ行きたいんだ」
 白髪の少年は、真剣な顔をしてその言葉を聞いていた。それから、一言一言確認するかのように、ラトの言った言葉を繰り返す。
「てんくうの、しろ」
「そうさ」
 ラトがもっと幼いころに、ばあさまに聞いたたくさんの物語。その中の一つに出てきた『天空の城』は、長い間ラトの憧れだった。大昔に大地から切り離され、はるか上空に取り残された城。そこには今では失われた、様々な精霊や生物、知識に技術が今なお残されているという――。
 ツキがそれきり何も言わなくなってしまったのを見て、ラトは頬を膨らます。
「やっぱり無理だと思ってるんだろう。天空の城なんて、おとぎ話だって」
「いや」
 即答だった。ツキは否定するだけ否定して、視線をラトから芝へと落とす。
「そんなことは思ってないさ。それどころか……」
「それどころか?」
 ラトが言うと、ツキは笑った。それは年相応の、満面の笑みだった。
「俺は嬉しい」
「嬉しい?」
 ラトが尋ね返したが、ツキは何も言わず、ただただ微笑んでいる。それを変えたのは、その場へ吹いた風だった。
 急に、夢の中へ吹いた風。それは大きな風だった。
「行かなくちゃ」
 ツキがポツリと呟いた。
「一体どこへ?」
「わかっているくせに」
 表情なく、ツキが言った。どこか、気乗りしない感のする表情だ。
「行ってあげてよ」
 体を起こして、ラトが言う。もう一度、大きな風が吹いた。まるで悲鳴のような風。だが、ラトはその風に含まれた言葉を知っていた。
「行ってあげて、ツキ。――高原の風のところへ」
 ツキは表情のないまま風を見ている。そうして途切れ途切れに吹く風を見ながら、一瞬、寂しそうに目を伏せた。
「ラトの頼みじゃ、断れないな」
「……ツキ?」
 ツキが立ち上がり、何も言わずに行ってしまう。ラトは少し迷った後、「ツキ」ともう一度、その背中へ声をかけた。
 ツキがゆっくりと振り向いて、始めにラトの夢へやってきた時のように、にやりと笑う。細い白髪が、風に煽られツキの視界を邪魔していた。
「ラト、頼むから君だけは見つからないでくれよ」
「それは、どういう……」
 人差し指を立てて、ツキが自分の口元へあてる。そうしてラトには待ったをかけておきながら、自分自身は今までの何よりも大きな声で、高らかにこう宣言した。
「時がきたら、いずれまた。俺は、天空の城で待っている!」
 ラトは驚きに目を見開いたが、ツキに事の次第を問いただすような時間は無かった。ツキの宣言が耳に響いたその瞬間、夢の中の世界が大きく歪み始めたからだ。
 慌てて辺りを見回すが、既にツキの姿は無い。
――ト…
 よく聞き知っている声がする。その声が、ラトを呼んでいた。
――ラト!
 目が覚めてしまう。ツキを探して、天空の城のことを聞かなくてはならないのに。
(起こさないで、僕にはまだやることがあるんだ)
 耳を塞いでも、声は頭に響いてくる。
(頼むから、僕の邪魔をしないで――!)

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