吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 町を買った少年

005 : Quis vocat? -1-

「ただいま」
 家の扉を開け、明るい声でそう告げる。
 返事はない。家の中はしんと静まりかえっており、何の動きも感じられなかった。外は随分暗くなってきたというのに、タシャもニナも、まだ帰っていないのだろうか。ラトはカンテラに綿糸の端を浸し、灯りをつける準備をした。じきに完全に陽が落ちる。まだ誰も帰っていないのなら、玄関にも灯りを置いておいた方が良いだろう。
 しかしそうしてラトが玄関へ向かおうとした矢先、カタ、と部屋の奥で乾いた音がした。
「ラト……帰っていたの」
 あまりに唐突なその声に、ラトは思わず肩を震わせた。手に持った油壺を取り落としそうになったが、それは何とか食い止める。
 タシャの声だ。
 疲れ切った声をしている。どうやら机に臥して眠っていたようだ。目覚めたばかりの占い師は、すっと上体だけを起こしてラトを見ていた。
「羊たちに、きちんと餌はやれた?」
「うん。もうみんな、囲いの中に入れてある。……それより母さん、大丈夫? あの、とっても疲れているようだけど」
 「大丈夫よ」と、タシャが静かに笑う。力無い笑みだ。やはり相当疲れが溜まっているのだろう。一昨日辺りから、毎晩帰りが遅かった。何か気になることがあるらしく、ここ最近は離れで仕事をし続けているのだ。
 前にも同じようなことがあった。日照りが続いて、町が慢性的な水不足に悩まされた時のことだ。その時タシャは毎晩星を読み、地脈を探り、地下の水脈を見つけた頃には倒れるほど疲労困憊していた。町の施療院に入院している間、見舞いに行くことすら許されなかったラトは、この家でやきもきしたものだった。
「おまえが帰ってきたということは、もう日が暮れるのね。ニナは、まだ帰っていないの?」
「うん、まだ……。今日はエクメアの収穫課題があるって言っていたから、少し遅れるのかも」
「そう。――いただいたパンと野菜があるから、ニナが帰ったら二人でお食べ。母さんは少し、仕事があるから」
 聞いて、ラトは驚いた。こんなにも疲れ切った顔をしているのに、この暗い中、仕事に出かけていくなんて。「こんなに曇った日にまで、星を読みに行くの?」そう問うて、それからラトはこう続けた。優しいタシャに、これ以上無理をさせたくなかったのだ。
「なら、僕が行く。星読みの仕方なら、ばあさまに少し習ったよ」
 聞いて、タシャは微笑んだ。彼女は優しくラトの頭を撫で、しかし首を横に振る。
「お前では駄目よ。星は、ただ気高く美しいばかりではないのだから」
「だけど」
 ラトは言ったが、タシャはやはり微笑むだけだ。外套を羽織り、出かけていく母親の背中を見ながら、ラトは自分のポケットに手を入れた。
 指先が、折りたたんである札に触れる。
(また、あの日照りのような何かが町に起こるんだろうか)
 何の手助けも出来ないことが腹立たしい。こんな時に自分はといえば、タシャにも本当のことを告げぬまま、遊んでばかりの毎日だ。何か少しでも、役に立てることがあればいいのに。
――おまえがしたいと願うことなら、なんだってしてあげよう。
 ふと、禍人の声が脳裏を過ぎった。
――お前が喜んでくれることが、私にとっては何より嬉しいのだから。
 ラトには何も出来なくても、禍人ならば、何か出来るだろうか。
 タシャは禍人を忌むべきものと見ていたようだが、禍人だって、話してみれば別段害のあるでもない、気さくな奴に思えてくる。一度わかってもらえたなら、札を使って町へ通っていることだって、もう隠さずに済むかもしれない。
「禍人」
 呼んでみる。しばらく待ったが、流石にそう都合良く現れてくれるものでもないようだ。
 ラトはニナが帰るのを待ち、二人きりで夕飯を食べると、しばらく窓の外を眺めていた。外では雨が降り、ついには風まで吹きはじめている。星読みの離れにいるタシャは、大丈夫だろうか。
「お兄ちゃん。あまり遅くまで灯りを点けていると、明日は朝から母さんに怒られるよ」
 ニナがそう言って、そそくさと部屋を去っていく。ラトはまた少しの間ベッドの上でぼうっとしていたが、次第に眠くなってきて、やがて自然と目を閉じた。
 何故だか急に、ニナと喧嘩をした日、夢の中に同い年ほどの少年が出てきたことを思い出す。あれは一体、誰だったのだろう――。
 
 夢の中で、ラトはいつもの丘へ登っていた。その手には何故か、一本の横笛が握られている。
(昔、無くした笛だ)
 いつ無くしたのだったかは、思い出せない。随分前に、占い師のばあさまからもらった笛だ。いつの間にか無くしてしまい、それからすっかり忘れていた。
 ラトは昔、よくこの丘の上で笛を吹いていた。その事は良く覚えている。ラトは丘の切り株に腰掛けると、久しぶりに笛を吹いてみた。
 誰かに教わったわけでもない、でたらめのメロディ。吹きたいように吹いていたらこうなった、というだけの、単純な曲だ。流石は夢の中と言うべきか、指は毎日笛ばかり吹いていた頃のようになめらかに動く。ラトはそうしてしばらくの間笛を吹いていて、ふと、自分の額の目が、いつの間にやら涙を流していることに気づいた。
(悲しい、寂しい、つらい……)
 心の声に、曲が書き換えられてしまう。ラトは口元をそっと笛から放して、悔しさを隠しもせずに、言った。
「泣くなよ、おまえのせいで町へ出られないんだぞ。……泣くなって、ほら、涙と鼻水が交ざっちゃう……」
 自分の目に対して、こんな事を言うのは酷く滑稽なことのように思われた。それでも涙が止まらない。そのうち、他の二つの瞳からも涙がこぼれ始めそうだ。
 ラトは意地になって、その涙を服の袖でふいていた。ここは夢の中だから、現実にはシーツか何かでふいているのかもしれない。なんでもいい。だがそんなことをしているうちに、ふと、ラトの夢の中に誰かの歌声が響き始めた。
「森よ、森よ、彼の森よ」
 ラトが、よく知っているメロディだ。
「つとして眠るその幼子の、小さな体を支えておくれ」
 先ほどまで、ラト自身が笛で吹いていたメロディ。ラトの夢の中の出来事なのだから、そうおかしいことでもないのだろうか。しかしそのメロディには今やラトの知らない歌詞が付いて、やはりラトの知らない声が、それを歌っている。
「月よ、月よ、彼の月よ。独り旅立つその旅人の、孤独な道を照らしておくれ」
 歌が止んだ。ラトが驚いて振り返ると、たった今まで歌っていたその声が、小さく笑ってこう言った。
「何を泣いてるんだ。いい歳をして、みっともない」
 ラトの後を追って丘を登ってきたのは、白髪の少年だった。ゆったりとしたローブを羽織った体には、ラトが見たことのない様なおかしな装飾品をつけている。ラトと同じくらいの歳に見えるが、その笑い方には、どこか大人らしい印象を与えられた。
 前にも夢に出てきた、あの少年だろうか。
 ラトは少年から一度顔を背けて涙を拭うと、言った。
「うるさいな。君に、僕の気持ちなんかわかるもんか。僕はみんなと違うんだ。悪いことは何もしていないのに、この目が人と違うから、みんな僕を見て脅える。それがどんなに悲しいか、それがどんなに悔しいか、誰かにわかってたまるもんか」
 白髪の少年は何も言わないまま、そっとラトの隣へ立った。そうしてラトが何かを言う前に、再び歌を口ずさむ。
「その歌詞、君がつけたの?」
 少しむくれた表情のまま、ラトが問う。白髪の少年は満足そうに首を横に振って、丘の下へと視線をやった。
「俺じゃない。彼がつけたんだ。君も昼間、会ったろう」
「昼間……。もしかして、高原の風のこと?」
 白髪の少年が、口笛を鳴らした。
「その名前、誰がつけたんだい? ぴったりだ」
「誰がつけたって、本人がそう名乗ったんだよ。君は、高原の風のことを知ってるの?」
「知ってるよ。だけど君程じゃない。直接話せたのはかなり昔、それも、本当に短い間だけだから」
「なら、どうして歌を知っているんだ」
 夢の中の世界に、風は吹かなかった。草木はあるがそよぎもしないし、露に濡れてもいない。眼下の町は玩具のようで、しかしその玩具の町に、太陽の光は惜しげもなく降り注いでいる。
 ラトはふと、以前にもこの白髪の少年に会ったことがあるように思った。数日前に見た夢の中だけではない。もっと昔、だがいつか、確実にどこかで――
「聞こえたんだ。『高原の風』が歌ってた。彼がどうして、君の作った曲を知っていたのかまではわからないけど」
 「そう」と、ラトは呟くように答えた。どうして、なんて考える必要もない。高原の風はラトの、いや、夕日の友達なのだ。作った曲に友達が詞をつけてくれただなんて、素敵なことではないか。
「君は、どこから来たの?」
 ラトが尋ねた。確信のある、安定した言葉だった。
「どうしてそんなことを聞くんだい。ここは君の夢の中だろう?」
「だけど、君は僕の夢の中の人間じゃない」
「よくわかるね」
「馬鹿にするなよ」
「馬鹿になんてしてないさ。それどころか、感心した。君は俺たちの中で、一番幼いだろうと思っていたから」
 褒められているのか貶されているのか、よくわからない。ラトは言い返そうとして、やめた。半端なことを言って、またわからないことを言われるのが嫌だったからだ。
「ひとまず、泣くのはやめたみたいだね」
 白髪の少年が、そう言ってくすりと笑う。それから、
「ノクスデリアス・イッルストリス」
 呪文のような言葉を呟いた。
「なんだい、それ」
「なんだいってことは無いだろう。俺の名前だよ」
「それは……ごめん」
「いいさ、たいして気にしちゃいない。自分でも長くて面倒な名前だと思っているから。『高原の風』の名前は、これよりもっと長いけどね」
 この少年は、彼の名前まで知っているのか。ラトは驚いて、それと同時に考えた。高原の風の本名は、一体どんなものなのだろう。尋ねようとして、ラトはふと、先ほど高原の風としたやりとりを思い出す。
――わけあって、本名は名乗りたくないんだ。
 彼は確か、そう言った。
 ラトは一度口をつぐんで、うっすらと微笑んだ。今、ここで聞くのはやめによう。いつかまた高原の風に会った時に、本人に聞いてみれば良いのだ。
「それじゃあ君は、僕の名前も知ってるの? ええと……ノクスダリー……」
「ツキでいいよ。ある人がそうつけてくれた。君みたいに短くて呼び易い名前に憧れてたんだ。ラト」
 ツキがそう言いニヤリと笑う。ラトは驚いたが、問いただすことはしなかった。不思議なことにはここ最近の禍人の件で慣れていたし、聞くだけ無駄なことに思えたのだ。ここはラトの夢の中だ。きっとなんでもありなのだろう。
「だけど君、どうして急に僕の夢の中へなんて来たの?」
 ラトが聞くと、ツキは笑う。
「何故って、昔、約束したじゃないか」

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