吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 百花繚乱

006 : 散り火花 -2-

 いつも気丈なあの天羽が、顔を青くして震えていた。いつも穏やかな団長が、声を荒げて怒鳴り散らした。
――馬鹿が、どうしてわからない! 時流を読め、義辰!
――黙れ、この裏切り者が! 魔女に魂を売った人間を、誰が同胞と認めるか!
(待って、待ってよ! ……ああ、もう!)
 道にごった返した人混みが、今は心底煩わしい。人を掻き分け掻き分けやっとのことで進むのだが、大きな荷物を担いだ商人やら、遊び回る子供達やらが、彩溟の道を阻むかのように次々と目の前を横切っていくのだ。
 利馬は、きっと天羽達の個人的な事情なのだろうから、放っておけとそう言った。そうするべきなのかもしれないという思いは、正直、今も彩溟の心の中にある。だが黙っていられないのは、こうして彼を追いかけているのは、一体どうしてなのだろう。
(だって、『視えた』んだもの)
 平楽の顔を垣間見た瞬間、得体の知れない不安の影が、彩溟の視界の隅に宿ったのだ。それが一体何なのか、彩溟にはちっともわからない。けれど。
(あの人を追えばわかるのかしら? だから私は、こんなに必死に追いかけているのかしら。――ああ誰か、そうよ、『彼ら』に聞けば、きっとわかるのに)
 だが、『彼ら』とは一体誰の事だろう。新しい疑問が胸に落ちたが、それでも彩溟は駆けていた。思うとおりに進めない事も、思考がちっともまとまらないことも、何もかもが苛立たしい。そうこうしている間にも、求めた背中は重なった人混みの向こうへ消えてゆくというのに――。
「待って! た、……平楽さん!」
 意を決して、大声で呼んだ、その時だ。
「号外、号外だよ!」
 声と共に大判の紙が、音を立てて方々の空へと舞い散った。何事かと注意を向けた人々の足が、一斉にその場へ立ち止まる。
 市場の流れが、一変した。
 人々は皆各々に手を伸ばし、落ちてくる号外記事を我先にと求め始める。平楽の背がまた遠のいた。しかしそれでも彼を追おうとした彩溟を、すぐ目の前へ割り込んできた、太った男が邪魔をする。咄嗟に避けることが出来ずに体当たりをしてしまってから、「ごめんなさい!」と叫ぶように言って顔を上げたが、既にそこに、平楽の姿は見当たらなかった。
「あの、今ここを通った男の人が、どっちへ向かったかわかりませんか? 眼鏡をかけて、長い髪を結った、背の高い人なんですけど……」
「さてなぁ。それにしても、全く、レシスタルビアの考えることは訳がわからん」
 そう言って拾い上げた記事に視線を落とす男の側を通り過ぎると、小径の方へと足を向ける。最後に見た平楽の姿はこちらへ向かっていたから、ひとまず、それを手がかりにして進んでみようと思ったのだ。しかし記事を求めて大通りへ向かう人々に逆行して駆け、闇雲に小径を曲がったところで、彩溟も思わず足を止めた。
「きゃ……!」
 正面からの突然の衝撃に、小さく漏れた叫び声。彩溟がその場へ尻餅をつくと、小径から飛び出してきた相手の女性が、「すみません!」とまず言った。
「あの、お怪我はないですか?」
 そう言って彩溟へ右手を差し出したのは、混じりけのない金色の髪をした女性であった。
 問うた声は大人びていたが、よくみれば彩溟とそれ程年が離れているようには思われない。しかし彼女の風貌に、彩溟は思わず息を呑む。
 ふわふわとした癖毛を肩の上で切りそろえた彼女は、藍天梁風の服を身につけていたが、どこか異国の顔立ちをしていた。藍天梁は広い国だ。首都の蒼苑を歩けば様々な国から訪れた商人達で溢れていると聞くし、藍天梁に従属する少数民族の部族へ行けば様々な顔立ちの人々が生活しているそうだが、金色の髪も、鼻筋の通った顔立ちも、彩溟には見慣れなかったのだ。
「大丈夫です。ごめんなさい、急いでいたものだから」
 言えば彼女は苦笑して、「私も」とまず言った。そうしてから少し迷うような素振りを見せて、大通りの方をちらりと覗くと、また彩溟へと向き直る。
「あの、先程この辺りで配られていた号外記事、もしお持ちでしたら、譲っていただけませんか?」
 どこか、言葉に訛りがある。恐らく元々は藍天梁の人間ではないのだろう。そんな事を考えながら、彩溟はもう一度だけ最後の足掻きに、周囲をざっと見回した。やはり、平楽の姿は見当たらない。これ以上闇雲に進んだところで、もう追いつけはしないだろう。
「あっ、あの、ごめんなさい。突然こんなことを言って、ご迷惑でしたよね」
「いえ、そうじゃないんです。けど私、記事を配っているのは見たんですけど、もらわずに通り過ぎてしまって……。まだ大通りへ行けば落ちているかもしれません。私も戻るので、一緒に探しましょう」
「でも、何かお急ぎだったんじゃありませんか?」
 おずおずと聞き返されて、彩溟はにこりと笑ってみせた。平楽が見つからないのなら、どちらにしろ先程の道を通って、寅灯の所へ戻らなくてはならないのだ。その途中で少しくらいの寄り道があっても、たいして違いはないだろう。
「私、彩溟って言います。今度、この瑞嘉で舞台をやることになって、ここへは昨日着いたところなんです」
「舞台? それじゃ、劇団の方なんですか?」
「はい。寿烙っていう劇団の団員です」
 彩溟が言えば、「寿烙!」と、女性が驚いた声をあげる。「私、この町へは寿烙の舞台を見に来たんです。といっても、お仕えしている方の付き添いなんですけど」
 風貌からもそんな気はしていたが、やはりこの町の人間ではないようだ。瑞嘉の舞台には外国からも見学に訪れる客が多くいると聞いているから、彼女や彼女の主も、恐らくはそうしてこの瑞嘉へやってきた口なのであろう。
「私、リフラと言います。用があって外へ出ていたんですが、何か、あの……レシスタルビア帝国の事で、記事が出たと聞いて」
 リフラと名乗ったこの女性は、そう言ってどこか落ち着きのない様子で、また周囲を見回した。恐らくは、件の記事がどこかに落ちていないかと探しているのだろう。
 レシスタルビアといえば、この藍天梁国とも並ぶ西の大国だ。首都である暁の都に帝王を据え、多くの属州を持つ国ではあるが、その実、圧政的な民族支配のために内紛の絶えない治安の悪い国だと聞いている。
「リフラさんは、……レシスタルビアから来たんですか?」
 問えば相手ははっとした表情をして「いえ、私は」と青い顔で首を横に振る。まずいことを聞いてしまった。国際情勢に疎い彩溟には詳しいことはわからないが、この藍天梁国とレシスタルビア帝国は、もう何十年も前から諍いの絶えない間柄なのだ。仮に彼女がレシスタルビアの人間であったとしても、素直にそうとは言わないだろう。
 そうして話しているうちに、市場の出る大通りまで戻ってきた。混ぜ返すような人混みは相変わらずなものの、そこかしこで足を止めていた人々は既に日常へと帰っており、道の流れは元の通りに戻っている。だが余程、人々にとっては関心の高い記事だったのだろうか。先程あんなにばらまかれた紙面は既にあらかた姿を消してしまっており、すぐに手に入れることは出来なかった。それでも二人であちこちを見て回り、露天の隅に丸まって落ちていた記事を見つけると、それをなんとか広げてみる。端に足跡が付いているが、読むのには支障ないだろう。
 「ありがとう」短く言ったリフラの声が、何故だか少し、震えて聞こえた。気のせいかとも思われたが、どうやらそうではないらしい。
 食い入るように記事を端から端まで読み込む彼女の表情が、段々と、青ざめていく。
「――、殿下」
 ぽつりと呟く、声が聞こえた。彩溟は首を傾げたが、彼女はそれにも気づかぬ様子で記事を握りしめると、「知らせなくちゃ」と独り言のように、そう言った。
「彩溟さん、あの、ご親切にありがとうございました。このご恩は、忘れません」
「ご恩って、そんな大袈裟な」
 彩溟が思わず苦笑すると、彼女は今にも泣き出しそうな表情で、しかし深々とお辞儀をして、一目散にもと来た方へと駆けていく。取り残されるようにその後ろ姿を見送った彩溟は致し方なく、また人混みの中を寅灯のいる組合の館までを戻ることにした。
 彼女は、リフラはあの記事の何を見て、あんなに青ざめていたのだろう。そんなことを思いながら、またきょろきょろと辺りを見回した。もう一部くらい、人の手を離れた記事がその辺りに転がっているのではないかと思ったのだ。しかしそうして歩いている内に、ひょいと大通りを抜けてしまった。
「おい、つまりこれってのは、レシスタルビアから藍天梁への宣戦布告って事なんじゃねえのか?」
「そうは書いてねえだろう。大体、呼ばれたのは藍天梁の人間だけじゃないんだ。環黎様はなにより和平を尊ばれるお方だからな。そうそう戦ごとにはならねえさ」
 小径にさしかかると、少しずつ、囁くような声が聞こえてきた。見れば屋台の片手間に将棋を打つ人々や、井戸の周囲に集まって衣服を洗濯する人々が、ひそひそと、何やら銘々に声を潜めて語らっている。
 宣戦布告。なにやら不穏な言葉を聞いた。自然と、組合の館へと戻る足が速まっていく。
 寅灯の打ち合わせはもう、済んだだろうか。しばらく行くと、先程も見た二頭竜の扉囲いが見えてきた。窓からひょいと中を覗き込むと、彩溟に気づいた寅灯が、苦い顔で手を振っている。
「まったく。突然駆けだして、一体どこへ行ってたんだ、お前は」
「ごめんなさい。ねえ、それより寅灯。さっき市場で配られていた記事のこと、もう聞いた? あれ、一体何の記事だったの?」
 溜息を吐きつつ出迎えた寅灯にそう尋ねれば、彼はやはり苦い顔をして、「ああ、お前も見たのか」と短く答えた。

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