吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 百花繚乱

005 : 散り火花 -1-

「彩溟、そんなに焦ることはないよ」
 町に身を置いていた頃、どうにかして記憶を取り戻したいのだという彼女に向かって、周囲の人々はよくそう言った。
「焦ったって、思い出せるものじゃない。そんなに自分を追い詰めなくてもいいじゃないか」
 彼らの言葉はいつだって優しかった。彼らの好意はありがたかったし、それにどんなに慰められたかわからない。けれど彼らのその言葉を、心はいつも否定した。
 いけない。
 安穏と日々を過ごしてはいけない。
 思い出さなければ。
 行かなくては。
 やらなくてはならないことがあるのだ。
 守らなくてはならない、――約束があるのだ、と。
 
「ここに、……寿烙にいたら、それが見つかる気がしたのよ」
 ぽつりと、口をとがらせそう呟いた。
 隣を歩いていた寅灯が、「ん?」と短く聞き返す。しかし彼が両手に抱えた荷物を取り落としそうになったのを見て、彩溟は、慌ててそれを支えてやった。
「なんでもない。それより、一人で持って重くない? 大丈夫?」
 聞けば、彼は抱えた大荷物――劇団寿烙の公演を伝える幟や散広告の類を持ち直し、「大丈夫だ。それより彩溟、前、気をつけろ」と笑ってみせた。慌てて前へと視線を戻せば、目の前を小さな子供達が駆けていく。それを避け、またすぐに、今度は後ろからやってきた荷馬車に道を譲った。けっして狭い道ではない。しかし石畳のしっかりと整備されたこの大通りの両端には市が立ち、人と物とがごった返しているため、足下すらろくにうかがえない程なのだ。
 古くから貿易の要所として栄え、東西の物品や文化が交わるこの瑞嘉の町は、今日も噂に聞いた以上の賑わいを見せていた。
 寿烙の一行がこの町へ辿り着いたのが、昨日の夜も更けてからのこと。昨晩は旅の疲労もあって、町の活気を味わうことなく眠ってしまったのだが、昼になって通りを歩けば、久方ぶりに味わう人混みに翻弄されるばかりである。
(こう人が多いと、歩くだけでも重労働だわ)
 人々とすれ違う度に、寅灯の荷物が危うげに揺れる。それでもなんとか進んでいくと、やがて、目的の建物が見えてきた。
「彩溟、地図を見てくれ。ここであってるか?」
 寅灯に問われ、頷いた。四角い土壁に、二頭竜の扉囲い。通りに面した壁に突き立てられた色とりどりの看板を見ても、恐らく間違いないだろう。手の自由な彩溟が扉を開け、先に建物の中へと入れば、愛想の良い男がすぐに二人を迎え入れた。
「お待ちしておりました。……劇団寿烙の方々ですね?」
 そう言って二人を部屋へ通したのは、瑞嘉の大舞台を管理する組合の人間達である。
 扉が閉まると、途端に町の喧騒が遠のいた。春の日差しは日に日に熱を増していたが、建物の中の空気は肌にひんやりとして心地良い。しかし思わず体を伸ばした彩溟のすぐ隣で、荷を下ろした寅灯の表情が、いくらか、引き締まる。
 こういった舞台側との打ち合わせは最近まで団長の仕事であったから、多少緊張しているのだろう。とはいえ寅灯も、常より舞台を演じる役者である。彼は慇懃に一度会釈をすると、笑みを添え、穏やかな声でこう言った。
「この度は、伝統ある瑞嘉の舞台へお招きいただき、ありがとうございます」
 物腰柔らか、とまではいかないまでも、誠実なその物言いに、相手の表情が幾分柔らむ。
「瑞嘉の大舞台は、役者にとっての聖地とも言える場所。団員一同、ここでの公演のために稽古に励んできました」
「こちらこそ、噂に聞く寿烙の舞台を見られるとあって、今回の公演を楽しみにしておりました。私達も、出来る限りの協力をさせていただきます。ぜひ、良い舞台にしましょう」
 「ええ」と言って寅灯が、しっかと相手の手を握る。その様子を眺めながら、彩溟もいくらか微笑んだ。
 そうしてから、しかしふと、俯く。
 寅灯に続いて会釈をし、その隣へと腰掛けた。この後は舞台の効果や観客の誘導方法など、実際の公演に関わる具体的な話し合いが行われる事になっているのだが、付き添いでしかない彩溟に、意見を求められることはないだろう。出された木の実を一つつまんで、窓の外へと視線を移すと、彩溟は小さく息を吐いた。
 諸々の打ち合わせが終わるまでに、いくらか時間があるはずだ。それが終わるまでは、脳裏で『物狂い』の動きを復習していよう――。しかしそうは思うのに、ただ黙って座っていると、それとは違う思いばかりが、彩溟の脳裏に渦巻いた。
――待っていてくれるかもしれない誰かを見つけても、ここで舞台を作っていきたいって、思える?
――あんたがあんまり真っ直ぐだから、ちょっと羨ましくなっちゃったの。ごめんね、彩溟。
 足を止める度、目を瞑る度、天羽の言葉が甦る。それを忘れていられるのは、『物狂いの男』として地を蹴り舞い踊っている間だけだ。
(記憶を失う前のこと、思い出したい。それはずっと変わらないけど、でも寿烙の一員として、舞台を成功させたいって思うのも本当だもの……)
 もしも天羽の言うとおり、この町で過去の手がかりが見つかったなら。記憶を取り戻したなら。そうしたら彩溟は寿烙のことなど顧みることもなく、記憶を失う前の自分として生きることを選ぶのだろうか。あるいは過去を捨て、寿烙の舞い手としての自分を選ぶのだろうか。そのどちらかしかないのだろうか。
 天羽に問われた時には、わからない、と咄嗟に答えた。そうとしか答えられなかった。けれど。
(どちらも手放したくないと思う、私は欲張りなのかしら)
 そう考えれば気づかぬうちに、細く小さな溜息が漏れる。
 彩溟に選択を問うた天羽は、それでも彩溟に『物狂い』の役を与えた。それなのに。
 天羽は今になって何故急に、あんなことを問うたのだろう。
――水汲みでも、風呂焚きでもなんでもします! だから、だから私をこの劇団に加えてください!
 何をしてでもこの劇団、『寿烙』について行こうと決めた頃の事を思い出す。あの時には何故だか、この劇団について進めば必ず何か見つかるはずだという、何の根拠もない期待があった。
(期待……? ううん、違うわ。あれは、)
 手にした包みの上から、ぎゅっと、数少ない自身の持ち物を握り込む。すると何かすらりと伸びた感触が、すぐに彩溟の指に触れた。目で見て確認しなくとも、それが何かはすぐに判る。
 無意識に彩溟の指がなぞったそれは、一条の横笛であった。
「お嬢さんも、何か楽器を演奏されるのですか?」
 唐突に頭上から降ったその声に、彩溟は思わず息を呑んだ。咄嗟のことにびくりとして、手にした荷物を取り落とす。すると相手も慌てた様子で、まずは「すみません」と声をかけ、彩溟の取り落とした荷物を拾い始めた。
「あ、あの、ごめんなさい。私、今、考え事をしていたものだから、……」
「いえ、私の方こそ突然声をかけてしまって」
 そう言いながら苦笑したのは、組合の人間の一人である。きっと彩溟が手持ちぶさたにしているのを見て声をかけてくれたのだろうに、悪いことをしてしまった。しかし彩溟の取り落とした荷の中に笛を見たその男が、「これを?」と問うてきたのを聞き、彩溟は一度頷きかけ、すぐに首を横に振る。
「その笛は、お守りみたいな物で……、私は楽士じゃないんです」
「へえ。では、今回の舞台では何を?」
「ええと、それは、――」
 ちらりと寅灯の様子をうかがうと、彼は悪戯っぽい笑みを浮かべて、頷いた。舞台の配役替えの件も含めて、公にしても良いという意味だろう。彩溟は小さく頷き返すと、舞台にたつ人間の仕草で相手から笛を受け取り、公演を終えたときのように、優雅に深くお辞儀した。
「自己紹介が遅れました。名を彩溟と申します。今回の舞台では、『物狂いの男』の役を演じる予定です」
「『物狂いの男』? えっ、君が?」
 組合の男が驚いた様子で言うのを聞いて、彩溟はまた寅灯と顔を見合わせ、二人で思わずにやりとした。先程までの緊張した面持ちはどこへやら、戯けた様子で寅灯が「それで、俺が『彼の地の番人』です」と続ければ、相手は笑って「それは先程聞きました」と言ってから、もう一度彩溟に向き直る。
「私はまだ寿烙の舞台を拝見したことはありませんが、『物狂いの男』といえば相当の技量を問われる役だと聞いています。こんなに若い方が演じられるとは、思ってもみませんでした」
 「まあ、役を継いだばかりの新米なんですがね」彩溟に代わってそう答えた寅灯は、何故だかやけに自慢げだ。だが続いた言葉を聞いて、彩溟は思わず瞬きした。
「新米ですが、大役も重荷に捕らえず稽古に励む、良い舞い手です。どうか期待してやってください」
 寅灯が、ちらりと彩溟に目配せする。そうして打ち合わせに戻りがてら、彼は小さく囁いた。
「どうした? ぼうっとして。なんなら、休む場所を借りようか。道中、稽古ばかりで疲れたんだろう」
「ううん、大丈夫。本当に、ちょっと考え事をしていただけだから」
「そうか? なら良いけど、無理はするなよ。本番は、これからだ」
 ぽんぽんと無造作に頭を叩かれると、髪が乱れてあちこちへ散る。しかしその時ばかりは、彩溟も素直に頷いた。
(本番は、これから)
 視線を下ろせば件の横笛が、彩溟の手中に収まっている。派手に落としてしまったが、欠けたりはせずにいてくれたようだ。そこに彫られた鳥の背を指でなぞってみれば、小さくほっと息が漏れる。
 記憶を失った彩溟が、ただ一つ握りしめていた笛――。失った他の記憶と共に笛の吹き方を忘れてしまったのか、それともそもそもこの笛自体が誰かからの預かり物であるのか、彩溟には、いくら習ってもその笛を上手く奏でることが出来なかった。それでも、大切なことには違いない。
――瑞嘉でもし、あんたの知り合いが見つかったら、どうする?
 柔く笛を握りしめる。そうしてふと窓の外へ視線をやれば、相変わらず人の往来の激しい瑞嘉の町は、明るく賑わっていた。
 行き交う人々は様々な模様の織られた布地を身につけており、飛び交う言葉もあちらこちらに訛りが混じって聞こえている。
 大きな町なのだ。
 人も、物も、何もかもが集う町。
――瑞嘉は大きな町だもの。今度こそ、あんたの昔のことを知る誰かが見つかる可能性だってある。
 目を伏せる。しかし、その時、
 視界の端――窓の外に見えたその人物に、彩溟は咄嗟に顔を上げた。
「彩溟? 今度はどうした」
 寅灯の声に、まず曖昧な返事をする。
 もう一度、窓の向こうを確認した。間違いない。そう思うやいなや、彩溟は自分の荷物をひょいと担ぎ、慌てて扉を押していた。
「ごめんなさい、すぐ戻るから」
 喧噪の中へ、飛び込んだ。
 人々の声と体温が、周囲に熱の渦を描いている。
(追いかけて、どうするの?)
 思わず自分にそう問うた。しかし体は、迷わない。
 背の低い彩溟には、頭上の風が遠く感じられた。それでもなんとか人混みをかき分け、前へ前へと進んでいく。
(眼鏡をかけていたけど、でも、間違いないわ。今、そこを歩いていたのは、)
――お願いだからこれ以上、私たちの事に構わないで。頼むから、何も知らないふりをして。
――今見たことは、他言無用だ。口に出したら最後と思え。
「平楽、……あの人だわ」

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