吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 百花繚乱

007 : 散り火花 -3-

「私どもも、その話をしていたところです。今、別の職員が詳しい話を聞きに出ていますが……。ああ。丁度、戻ってきたようですね」
 管理組合の人間がそう言って、外から帰ってきた男を出迎えた。どうやらここでも、先程の記事の件は話題に上っていたらしい。男は先程彩溟が見たものとも似た記事にさっと目を通すと、まずは「例の公判の件のようです」と穏やかな口調でそう言った。
「コウハン?」
 きょとんとして問うた彩溟の頭上で、寅灯がひょいと記事を覗き込む。そうされてしまうと小柄な彩溟にはちっとも記事が覗けないのだが、そんな事にはお構いなしだ。思わず睨んだ彩溟の視線に気づいていないのか、それとも気づいているのにあえて気づかぬふりをしているのか、寅灯は腕を組むと、うーんと一つ唸ってみせた。
「こいつらの目的が、俺には今ひとつよくわからんのですが」
「町中では、我が国の敵意を煽る目的だとまことしやかに囁かれているようですね」
 眉をひそめて、職員の一人がそう言った。
「まあ、それにしては妙な動きだと思いますが」
「でしょう? 挑発が目的なら、過去に国境争いのあった雲翔地域とかへ乗り込んだ方が、話が早いんじゃないんですかね」
 そう言ってまた腕を組みなおした寅灯の側から、やっとの事で記事を覗き見る。人の手の中にある文字は読みにくかったが、それでも、ある程度の内容は読み込めた。
 西のレシスタルビア帝国で行われる処刑祭――どうやら、囚人を民衆の目の前で裁く催しのようだ。そんな催しがあると聞いただけで、大抵の藍天梁人は顔をしかめるだろうが――その野蛮な催しに、レシスタルビア皇族が、あろう事か藍天梁国の女帝である環黎と、『第一の姫』星蘭を招いたというのである。
 爪先立ちで記事を覗き込んでいた彩溟を見かねて、組合の男が記事を手渡してくれた。町で配られていたものよりも、いくらか良い紙質だ。恐らくは町中で配られていたものではなく、どこかで購入してきたものなのだろう。とすると、リフラが大切そうに抱えて帰った記事よりも、詳細に情報が綴られているはずだ。
 顔を真っ青にして、じっと記事にのめり込んでいたリフラのことを思い出す。あんなに必死になって記事を得た彼女は、あれから一体どうしただろう。もう一度記事を読み返して、彩溟はひとつ息を吐いた。
 長く諍いの絶えなかったレシスタルビアが、あえて国事に藍天梁の帝を招いた――。それだけでも一大事なのに、加えて、その祭が事もあろうに『処刑祭』だった。どうやらその事が、人々を騒がせているらしい。
 「寅灯は、この事件に詳しいの?」問えば、「そんなわけがあるか」と顔をしかめられた。
「ワケのわからないことだらけだから、こんなにあちこちで話題になるんだ」
 しかし寅灯はぼりぼりと頭を掻いてから、もう一度記事へ視線を落とし、こう続ける。
「ただ、その処刑祭自体の話は、雁斬で公演をやった頃から噂になってたからな。藍天梁の情勢を惑わす国があるとしたらレシスタルビアくらいのものだし、みんな、レシスタルビアの動向には目を光らせてるのさ」
 「それにしても」彩溟が言った。「この記事はレシスタルビアと藍天梁の話ばかりなのに、よく読むと、実際に処刑されるのはどちらの国の人でもないのね。クラヴィーア? あまり聞かない名前だけど」
「ああ、それはレシスタルビアの南にある国ですよ。彩溟さんは、紗里和茶をご存じですか?」
 彩溟の問いには、組合の人間の一人が答えた。紗里和茶。何度か飲んだことがある。確か紅い色の出る、甘みのある茶葉のことだ。彩溟が頷いたのを見ると、相手も満足そうに頷き返す。
「あれは元々、クラヴィーアにあるシャリーアという港町で飲まれたことから、その名が付いたそうです。気候の穏やかな国だと聞きますが、レシスタルビア寄りの文化圏にあるので、あまり我が国との接点はありませんね」
「記事にはその国の王族が処刑されると書いてあるけど、この人は、何かレシスタルビアで罪を犯した人なのかしら」
 「それがまた、正確な情報が伝わってないんだ」続けたのは、寅灯だ。「まあこれだけおおっぴらに裁かれるわけだから、何かとんでもない事をしでかした奴なんだろうけどさ。ただこれを機に、レシスタルビアがクラヴィーアの王室を乗っ取って属州にしようとしてるって噂が早い内から出てたんで、蒼苑の『姫』達も警戒をしていたらしいんだ。そこへ今回の、異例の『お招き』が舞い込んできたってわけさ」
 
 「公演に障りますかねぇ」寅灯が言うと、組合の人々は眉を寄せ、しかし「大丈夫でしょう」とそう言った。件の報道のために町には不穏な空気が流れてはいたが、レシスタルビアの目的も、宣戦布告や属州云々という話も、曖昧な憶測が飛び交うのみである。蒼苑の女帝や『姫』達の対応も不透明な今、結局のところ人々はただ、耳をそばだてながらも日常を過ごすより他にないはずだ。というのが、彼らの言い分であった。
「組合の人達、みんな冷静だったね」
 寿烙の宿営地へ戻る道すがら、彩溟がぽつりと呟くと、寅灯もそれに頷いた。
「瑞嘉はあの舞台のおかげで、元々、あちこちから観光客が集まる町だからな。いろんな主義主張の奴がやってくる。きっと、厄介ごとには慣れてるんだろうさ」
 一仕事を終えた寅灯はそう言って、往来の人目も気にせず大きく伸びをした。今日は珍しく畏まっていたものだから、きっと肩が凝ったのだろう。とはいえ、帰る頃には組合の人々ともすっかり打ち解けてしまった彼はその腕に、土産と称して頂戴した果物の包みを抱えている。元々人懐こい性格の彼は、よく公演の度に現地の人々と仲良くなっては、こうして美味しそうなものを貰い受けてくるのだ。
(あとで、一つわけてもらおう)
 自分の荷物を抱え直し、日中よりは人通りの減った大通りを歩いて行く。そろそろ夕餉の時間帯だ。通りに面した飲食店はどれも賑わいを見せ、かぐわしい香りを漂わせていた。
 そうして通り過ぎてゆく人々へ、何気なく視線を巡らせる。日中見かけた、平楽のことを思い出したからだ。
(あの人、瑞嘉で一体何をしていたのかしら。……前に会ったのは、南天の舞台の最中だった。そうすると、あの人も私達と同じように、陸路を北上してきたんだろうけど)
 一体、何のために。
 義辰や天羽と、何か揉めているふうであった。ならばひょっとしなくとも、彼は寿烙の後を追って――義辰や天羽との諍いに、何かしらの決着をつける目的で――この瑞嘉までやってきたのではないだろうか。
 そうしてまた、密かに義辰達と接触する機会をうかがっているのではないだろうか。
 「考え事か」唐突に声をかけられて、彩溟ははっと顔を上げた。
「さっきも、上の空だったな。どうした? 心配事でもあるのか」
 隣を歩く寅灯が、前を向いたままそう言った。言いながら、眩しそうに眼を細めている。見れば傾いてきた瑞嘉の日差しが、町を赤く染め始めていた。
「あの、……」
 言いかけてはみたものの、そのまま言葉が続かない。一瞬、自分が見聞きしたことを全て寅灯に打ち明けてみようかと、そう思った。寅灯ならば、渦を巻いているこの得体の知れない不安を理解してくれるだろうか。それとも利馬がそうであったように、受け流されてしまうのだろうか。
「『物狂い』を演じるのが、不安か?」
 問われて彩溟は、ゆるゆると首を横に振った。自分の演技に納得のいかないところは多々あるにしろ、稽古にだけは何より真摯に取り組んできた自負がある。不安がないと言えば嘘になるが、舞台に関してのみ言えば、それを思えば不安と同等にわくわくとする高揚感を覚えるほどだ。
「じゃあ、やっぱり疲れてるのか」
 寅灯の声が、心なしか優しくなった。彩溟は、またゆるゆると首を振る。
 ふと見れば、民家の壁に何かを剥がした跡が見られた。恐らくは、既に公演の終わった舞台の広告を剥がしたのだろう。明日にはこの跡の上に、先程彩溟達が持ち込んだ、寿烙の公演を報せる広告が貼られるはずだ。組合の人々が話していた内容を思い返しながら、そんなことを考える。
「それとも、」
 寅灯が、細く長い息を吐く。その隣を、異国の装いをした一団が通り過ぎていった。彼らも瑞嘉の舞台を――ここで行われる、寿烙の舞台を見に訪れたのだろうか。
――ねえ、だけど彩溟。瑞嘉でもし、あんたの知り合いが見つかったら、どうする?
 見慣れぬ衣服を纏った彼らを目で追った。そうして、
「それとも、天羽に何か言われたか」
 呟き混じりにそう言った、寅灯の言葉に、ふと、立ち止まる。彩溟がはっと顔を上げると、寅灯がまた溜息を吐き、「やっぱりか」とそう言った。
「寅灯、その事、どうして」
「ここしばらく、何か様子がおかしいとは思ってた。それにしても年下の団員まで惑わせて、あいつはなにをやってんだ」
「様子がおかしい? 寅灯も何か言われたの? ――それとも何か、……見たの?」
 身を乗り出して言ってから、自らの言葉の意味に気づいて、彩溟は小さく息を呑む。
――待っていてくれるかもしれない誰かを見つけても、ここで舞台を作っていきたいって、思える?
 天羽は何故、今になってそんなことを問うたのだろう。その違和感は既にあった。瑞嘉は確かに賑やかな町であるし、大舞台があるために役者ならば誰もが憧れる場所ではあったが、それより大きな町には今まで何度も立ち寄ってきた。だが知人に行き当たるのではないかと町を出歩く彩溟を、天羽は励ましてくれていたのに。そう思ったのだ。
――ねえ、彩溟。あのね、実は彩溟を『物狂いの男』に推薦したの、私なんだ。
 天羽がそう言ったから、彩溟の意志を試すようなことを言い出したのも、そのせいなのかもしれないとも考えた。重要な役を与えたからこそ、やり遂げる意志があるかと問おうとした。それは確かにあるかもしれない。けれど。
 そうだ。その問いよりもずっと前に、あんなにもはっきりと、自分は天羽の取り乱す様を見ていたではないか。
(私の考え過ぎかも知れない。……でも、)
 眉根を寄せた彩溟を見て、寅灯は困惑した様子で一度押し黙ると、しかし視線だけで咄嗟に周囲を見回した。まるで敵を威嚇する『彼の地の番人』のようだと、そう思う。何故そんなふうに、周囲に気を配る必要があるのだろう。しかし彩溟がそう問う前に、寅灯の口が小さく動いた。
「つまりお前は、何か見たのか」
 低い声が耳に届く。
 何故だか少し、背筋が冷えた。
「……南天の舞台の時に、知らない人が、団長と何か言い争ってたの。何の話かはわからなかったけど、天羽も一緒にいたわ」
「団長もそこにいたのか? その、知らない人間ってのはどんな奴だった?」
「髪の長い男の人よ。自分で名乗ったわけじゃないけど、天羽は、その人のことを平楽って呼んでた。実はさっきは、その人の姿を見た気がして、追いかけようと思って外へ出たの。でも直後に例の記事の件があって、見失っちゃって。詳しいことはよくわからないんだけど、どうも、天羽達の同郷の人みたい」
「同郷? その話、――利馬にもしたか?」
 寅灯の声が、また低くなる。彩溟はわけがわからぬまま頷いて、小さく首を傾げた。一体何故、ここで利馬の話題が出るのか皆目見当が付かなかったのだ。劇団創設者である義辰と天羽が元々同郷の出身であることは、寿烙の誰もが知る事実だが、利馬はそうではないはずだ。だが彩溟がそれを問おうとした、まさに、その時の事だ。
「いたいた! 寅灯、彩溟!」
 通りの向こうでそう言って、大きく手を振り駆けてきたのは、まさしく今その名を聞いた、利馬であった。彼は屈託のない笑顔で両手を振り、軽やかに人の波を避けて彩溟達の所へやってくると、「どこへ寄り道してたんだよ」とまず言った。
「寄り道なんかしてないさ」
 そう答えた寅灯が、さりげなく彩溟の前へ立つ。まるでたった今までしていた会話を隠すかのようなその仕草に、彩溟はいくらか狼狽えたが、「打ち合わせが長引いちまってな」と答える寅灯はまるでいつもの調子である。
「打ち合わせ先で蜜柑をもらったけど、食べるか?」
「寅灯、相変わらず貢がれてるな。今度はどこの美女にもらったのさ」
「馬鹿言うな。組合の人達が、友情の証にくれたのさ」
 寅灯はそう言って軽く笑うと、包みの中から一つを取り出し、それを利馬へと手渡した。ついでに、と言って彩溟にも果物を渡した寅灯の顔は、いつもの、舞台を降りた彼の顔であった。
(寅灯……?)
 視線で問いかける。しかし寅灯は答えない。ただ利馬の方を振り返ると、「それで?」と言葉を促した。
「俺達を探しに来たのは、何か急ぎの用でもあったのか?」
「ああ、そうそう!」
 利馬がさっそく皮を剥いて、手にした蜜柑を頬張った。そうしてから寿烙の宿営地がある方を指さすと、口をもごもごとさせたまま、「団長が」と言葉を続ける。
「何か発表があるから、団員全員集めろってさ」
To be continued...
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