吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 百花繚乱

004 : 宵の装束

 音頭をとる太鼓の音に、じっと耳を澄ませていた。そうしてすっと立ち上がり、まずは静かに右足を下げる。
 そろり、そろり。音は立てない。目付は常に、相手の動きをとらえている。
 相手を恐れて距離をとる、獣としての本能の所作。けれどそれ以上に退くことはない。ぴたりと動きを止め、次に腕を上げるのは、恐れを忘れた『物狂い』の所作だ。
 太鼓の音頭が転がった。聞いてぐらりと肩を下げると、機敏な動作は所作を違わず、舞台の端を蹴り上げる。
「阿々!」
 腹の底から一声吠えて、同時に両手を振り下ろした。刃のない棍を握る腕に力は込めていなかったが、指の付け根を絞り込むと、棍がしなって風を切る。しかし途端に「違う!」と声が飛んできて、彩溟は、びくりと肩を震わせた。
 昼を過ぎた時分であった。
 人通りの少ない街道から、更に離れた森の中でのことである。動きを止めると吹き出すように、額に汗が浮いてくる。それを咄嗟に鼠色の稽古着の袖で拭ってから、彩溟は一つ、大きく深く息を吸った。
「違う、違う。肩から上と腰の動きがばらばらだ。丹田に力を込めろと言ったろう。『番人の使い』の時も、そんなひょろひょろした動きで舞っていたのか?」
 振り返れば一人の翁――前任の『物狂いの男』が、ぴしりとそこに立っていた。
 「動きに気をとられてしまって」とまず言えば、勝央の翁がにやりと笑う。その挑発するかのような笑みの色に、彩溟はもう一度だけ汗を拭うと、同じくにやりと笑ってみせた。「次は上手くやってみせます」と言えば、翁は愉快そうに口元を緩ませる。
「はは。儂が長年かけて築いてきた動きを、そんなに簡単に、会得されてたまるものかい」
「そりゃ、まだまだ勝央様には敵いませんけど……。でも私だって、瑞嘉の公演を最高の舞台にしたい気持ちは一緒です。『物狂いの男』の配役が変わったせいで舞台の質が落ちたなんて、絶対言わせませんからね」
 拳を握ってそう言えば、翁が再び相好を崩す。しかし彼は他の団員達がとどまっている宿営地の方へと視線を移すと、悪戯っぽく、「休憩だ」と息をついた。
「ええ、もう?」
「さっき、銅鑼が鳴ったろう。聞こえなかったのか? ――ようやく、昼飯にありつける」
 瑞嘉の舞台へと向かう、長い道のりでのことであった。
 劇団寿烙の一行の旅は、決して先を急がない。三十人あまりの団員と多くの舞台道具を運ぶこの旅は、天候や治安の事情を読み、馬を休ませ、人を休ませ、着実に歩みを進めるのが常である。だから大抵は一日のうちのおよそ半分を移動に充て、あとは銘々に次の舞台の準備をすることになっているのだ。
 宿営地の方へと戻れば、色とりどりの衣装や道具の製作が進められ、その脇で役者達が銘々に自らの技を磨く様子が目に入る。彩溟はこの劇団に加わったばかりの頃、主に小道具製作と炊き出しの雑用を担当していたのだが、その頃も、仕事の手が空くのを見計らっては役者達の稽古を覗き見ていたものであった。
(あの頃は、自分が舞い手になれるだなんて思わなかった)
 くすりと笑い、習ったばかりの舞の動線へ身を躍らせる。揺れた髪の隙間から、暖かな日の光が射し込んだ。
 
 劇団寿烙の演じる舞台『徨楼異伝』は、序章を含め全五幕で構成された歌劇である。
 第一演目『天果』、第二演目『商場』、第三演目『人形』、そして最終演目『光葬』。古くからこの藍天梁国北部に伝わる『徨楼伝』を題材としたこの舞台は、ある男が禁忌を犯し、人の心を失う事から物語が幕を開ける。
 自らの故郷を守るため、男が手にした力は人の身に余るものであった。その力を得たことで、男は故郷を救うが心を失い、世を彷徨うこととなり、男の恋人である『白の乙女』は、彼を救うために各国を渡り歩くこととなる。そうしていずれ『白の乙女』は、『彼の地の番人』と、その一族の持つ万能の薬――『天の果実』の存在を知るのだ。
 彼女は人ならざる者の声を聞き、幾千の山を越えて番人の待つ地へ訪れるが、力及ばず、最後は心を失ったはずの恋人――『物狂いの男』の死を知り自ら命を絶つ事となる。
 予てより北部の少数民族によって演じ伝えられていたこの哀話を、劇団寿烙が演じるようになったのは、そう日も遠からぬ十余年前の事であった。
 その当時、団長の義辰や勝央、天羽等のごく少数の団員が立ち上げたこの劇団は、決して名のあるものではなかった。しかしいつしか、多彩な歌や舞、合間合間に描かれる影絵、まるで人間のように歌う絡繰人形等を入れ替わり立ち替わり登場させる舞台で観客達の心を掴み、今では広い藍天梁の中でも知名度の高い劇団となった。
 一握りの創設者達を除き、団員は皆あちこちから加わった流れ者ばかりであった。だがその誰もが寿烙という劇団を大いに盛り上げ、今なおその栄光に箔を付けている。
 
「稽古、順調にいってる?」
 昼食の皿を地面へ直に置き、団員達の輪から少し離れたところで体を伸ばしていた彩溟に、天羽がそう声をかけた。午前中いっぱいは、彼女も舞の稽古をしていたのだろう。額に汗を浮かべた彼女は、しかし無精な彩溟とは違い手巾でそれを拭うと、隣へちょこんと腰掛けた。
「順調! ……って言えたらよかったんだけど……。なかなか先に進めないの。最終演目の舞もね、いつも半ば辺りで動きが追いきれなくなっちゃう。『物狂いの男』の動きって前から読みにくいとは思ってたけど、ここまでとは思わなかった」
「あら。でも勝央の翁は、彩溟のことを褒めてたよ。才能がどうかはともかく、気骨があるって」
「私から打たれ強さをとったら、あとには何も残りませーん」
 そう言い彩溟がころりと寝転がれば、天羽は花巻を食べながら、明るい声でくすくす笑った。天羽の笑い声はまるで鈴のようだと、いつか団員の誰かが言っていたのを思い出す。確かにそうだ。天羽の笑い声はまるで鈴が鳴るように、明るく軽やかだ。
「ねえ、彩溟。あのね、実は彩溟を『物狂いの男』に推薦したの、私なんだ」
 唐突に天羽がそう言ったので、彩溟は思わず瞬きした。そうしてがばりと身を起こすと、天羽はまた笑って、寝転んだ時についたのであろう木の葉を、彩溟の髪から払い落としてくれた。
「すぐに言わなくて、ごめんね。でもそれを言ったら彩溟に恨まれるんじゃないかって、ちょっとだけ不安だったの。『物狂いの男』は表現が難しいから稽古も厳しいし、何より折角の瑞嘉での舞台なのに、『番人の使い』みたいな華やかな衣装は着られないでしょう?」
 それは確かにそうであった。配役発表の後、衣装係の砂揮が新しい『番人の使い』のために、彩溟の身丈に合わせて作った衣装を繕い直しているのを見て、彩溟がどれだけ残念に思ったことかわからない。『物狂いの男』は人ならざる人の役である故、その衣装は黒を基調としたぼろ布に、銀の色を塗った鉄で出来た帷子をだらりと被せた、質素な物が基本であるのだ。その奇妙な動きを強調するために、人の輪郭を曖昧にする。だからこそ彩溟や勝央の翁のような小柄な人間にも、技術さえあれば大の男の役をこなせるのであるが、物足りない思いは拭えない。しかし。
 ほんの少し考えてから、彩溟は首を横に振る。そうしてじっと天羽の顔を覗き込むと、まずは素直にこう言った。
「でも私、綺麗な衣装を着ることより、『物狂いの男』を任せてもらえたことの方がずっと嬉しい」
 どこかで、昼食を食べ終えた団員が稽古を再開したのだろうか。遠くに拍子を打つ音が聞こえてきている。
「天羽は前に、私が頑張る姿を見るのが好きだって言ってくれたでしょう。それと同じで、私、この劇団みんなで作る舞台が大好きなの。だから私、劇団の一員として新しい役を任せてもらえたことが凄く嬉しいし、頑張りたいし、それにその、天羽が私の何かを認めてこの役に推薦してくれたなら、凄く誇らしいって思う」
 彩溟がそうして話す間、天羽もじっと目を合わせたまま、視線を逸らそうとはしなかった。しかしそうして彩溟の言葉を聞き、居心地悪そうに自らの首元を掻くと、彼女は呟くような声でこう言った。
「そんなに真っ直ぐに言われると、なんだか私が照れるじゃないの……」
「だ、だって、あの、……にやにやしないでよ、天羽。私まで恥ずかしくなってきちゃう……」
 言えば、天羽は困ったように眉根を寄せ、小さくくすりと笑ってみせた。そうして不意に右手を空へかざすと、短く軽やかな溜息をこぼす。
 拍子を打つ音に合わせて、天羽の細い指がひらりと動く。『白の乙女』の指先には、それが舞台の上であろうとなかろうと、どうやら舞が棲みついている様子であった。彼女は無意識なのであろうその動きを続けながら、こんな事を口にする。
「ねえ、だけど彩溟。瑞嘉でもし、あんたの知り合いが見つかったら、どうする?」
「知り合い?」
「そう。あんたが記憶をなくす前の知り合い。――瑞嘉は大きな町だもの。今度こそ、あんたの昔のことを知る誰かが見つかる可能性だってある。だけどもしそうなったら、あんたはその後どうするの?」
 静かな風が吹いていた。
「待っていてくれるかもしれない誰かを見つけても、ここで舞台を作っていきたいって、思える?」
 鈴の音のような彼女の声が、その時少し、震えていた。
 問われて、彩溟はしばらく答えぬまま、天羽の指先を眺めていた。そうして不意に、「そんなの、その時にならなきゃわからない」と呟くと、脇へよけてあった花巻きを詰めこむように食べ始める。それを見て、天羽は小さく「ごめん」と笑った。
「今のは、ちょっと意地悪だったね」
「ちょっとじゃない。……凄く、意地悪だった」
「ごめんって。機嫌、直してよ。あんたが本当にこの劇団を好いてることも、真剣に自分の記憶を取り戻そうとしていることも、よくわかってる。でもね、あんたがあんまり真っ直ぐだから、ちょっと羨ましくなっちゃったの。ごめんね、彩溟」
 そういって笑う天羽の顔は、いつもと変わらぬ様子であった。
 けれど直視は出来なかった。
――お願いだからこれ以上、私たちの事に構わないで。
「そろそろ、午後の稽古に戻らないと……。彩溟、食事の邪魔して悪かったね」
 明るく言って立ち上がる。そんな天羽を視線で追うと、何故だかじわりと震えが来た。
――頼むから、何も知らないふりをして。
 数日前に目にした不可解なやりとりのことが、再び脳裏に甦る。しかし彩溟が口を開きかけた途端、「天羽」と名を呼ぶ声がした。
「利馬」
 呟くようにそう呼ぶと、先日までの対の舞手は、にやりと笑みを浮かべてみせる。そうして天羽に、「団長が呼んでるよ」と伝えると、「二人で何を話してたの?」と小首を傾げた。
「彩溟に、『物狂いの男』の出来映えを聞いてたの。それで、団長はどこにいるって?」
「大道具を見て回ってる。勝央の翁もいたから、彩溟も一緒に行ったら……」
 言いかけて、利馬が途中で言葉を切った。どうやら置いたままになっていた、彩溟の昼食に気づいたらしい。
「まあ、ゆっくりでいいけど」
「……。ありがとう」
 素直にそう頷いて、立ち去る二人の背を見送った。そうして去っていく利馬の右手には、瑞嘉での舞台のために新たに拵えた『番人の使い』の面がある。
 獣の顔を模した面。先日まで自分自身も身につけていたその面が、なにやらきらきら光って見えた。額の部分に埋め込まれたガラス玉が、太陽の光を反射しているのだろう。
(まるで、額に輝く目があるみたい)
 ぼんやりと、そんなことを考える。そうして大きく息をつくと、頭上で鳥が羽ばたいた。
(また、天羽に何も聞けなかった――)

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