吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 百花繚乱

003 : 『物狂いの男』

「だから、本当なんだってば。こんな嘘を言って、私に何の得があるって言うの?」
 頬を膨らませた彩溟がそう言うと、利馬は手にした衣装をたたみながら、「それもそうだ」と頷いた。この地方での、最終公演を終えた晩のことである。
 春にしては、やけに蒸し暑い夜であった。藍天梁の南部に位置するこの地方は元々水はけが悪く、湿度の高いことでも有名な地方であったのだが、汗が伝うほどとは思わなかった。見慣れぬ花を見、食べ物を味わえたことは楽しくもあったが、今晩の公演を機にこの地を離れ、いくらか北の地方に位置する瑞嘉へ向かえることは、そこに役者達の崇拝する大舞台がなかったとしても、歓迎するべき事と思える。
 自分の衣装を行李に詰め、一つ小さく息をつく。この劇団寿烙では、一度預かった衣装は身につける団員自身が管理するのが常であるのだが、これがなかなか大変なのだ。飾りのついた衣装は重く、皺を付けないように、金具を壊してしまわぬようにと気を遣うのは、正直、彩溟の気性には合わなかった。
「それにしても、団長が人に向かって怒鳴るなんてなぁ。あんまり想像できねーや」
「でしょう? 私だって、驚いたわよ」
 待機用の天幕の中、彩溟は三日前に団長義辰の天幕で見聞きしたことを、余すところなく利馬に話した。団長と、見知らぬ男のやりとりのこと。血の気を失った天羽のこと。すると彼は開口一番、目を丸くして、彩溟が想像していたとおりの言葉を口にしたのだ。「信じられない」と。
「でもさ、平楽とかいうその男に、他のやつには口外するなって言われたんだろ? いいのかよ、こんなにぺらぺら俺に喋って」
 既に自分の作業を終え、立てかけた行李に背を預けた利馬が顔をしかめる。振り返って彩溟は、堂々たる態度でこう返した。
「どうして私が、あんな失礼な人の命令に従わなくちゃならないの?」
「……、そう言うだろうと思ったけど」
 それだって、彩溟はこの三日間、息を潜めて周囲の様子を観察し、時期を見計らおうとはしていたのだ。
 団長と天羽。明らかに日頃とは様子の違う二人の姿には戸惑いもしたし、不安も感じた。しかしあれきり、二人のどちらも平楽という男の話をするどころか、いつもと違う態度など、おくびにも出す様子がないのだ。彩溟があの場に居合わせていたと気づかれていないらしい事は幸いであったが、まるで何事もなかったかのように日々を過ごす彼らの姿に、彩溟は不安を募らせていた。なにやら、嫌な予感がしてたまらないのだ。
(だからこそ、利馬にもこの話をしたのに)
 考えてから、彩溟は短く溜息をする。劇団の中でももっとも歳の近い対の舞手は、彩溟の話を真面目に受け取る気など、ちっともない様子であったのだ。その証拠に、利馬はうーんと唸ってから、大真面目な顔でこんなことを口にした。
「痴情の縺れってやつじゃないか?」
「……。チジョーのモツレ?」
「つまり団長とその平楽って男が、天羽を取り合ってるんじゃないかって事」
「馬鹿ね。団長と天羽じゃ、親子ほど歳が違うわよ」
「いやいや、わかんないぜ。天羽さえその気ならさ。……なんにせよ、ヘタに首を挟まない方が良いんじゃないかなぁ。天羽に知れたら、変に気を遣わせるかもしれないし」
 彩溟にはどうにも、そういう話だとは思えなかったのだが、利馬はそう結論づけることであらかた納得してしまったらしい。しかし彩溟は二度目の溜息をつきかけて、思わずその身をこわばらせた。
 天幕の外から、ガラガラガシャンと派手な音。慌てて外へ出てみれば、舞台係の珊座が真っ赤な顔をして、重い舞台道具を運んでいる。どうやら先ほどの音は、道具の一部が地面に落ちた音であったようだ。
 落ちた部分を彩溟が拾い、利馬が咄嗟に手を添えると、珊座は幾分楽になった顔をして「助かった」とまず言った。
「芳の野郎が、手伝いもせずにさっさと打ち上げに行っちまったらしくてな。後でこってり絞ってやらにゃ」
「この道具、舞台から一人で運んできたの?」
「そうさ。昔はこの程度、一人でちゃっちゃと運べたんだがなぁ……」
 口惜しそうにそう言って、珊座は続けて「おまえ達は、こんなところで何してたんだ?」と首を傾げる。彩溟の背筋が思わず伸びた。
「他の役者達は、とっくに打ち上げに行ったろう」
「あ、あの、今まで衣装の片付けをしていたの。ここの手伝いをしたら、行くわ」
「そうかい。それじゃ、これを運ぶのだけ手伝っとくれ。だが、お前さん達はなるべく早く行きな。今日の打ち上げは、瑞嘉の舞台の配役発表の場でもあるだろう?」
 言って珊座がにやりと笑う。彩溟と利馬は顔を見合わせ、うんと頷くと、道具を所定の位置まで運び、そそくさと場を後にした。
「俺たちの話、珊座に聞かれたかな?」
「大丈夫よ。そんなに大きな声じゃなかったもの」
「じゃ、その件はいったん切り上げだ。それより瑞嘉の舞台の事だけど、配役替えはあるのかな?」
「どうかしら。今のところ、そういう噂は聞いてないけど」
 答えてから、彩溟は短く溜息をついた。早足で隣を歩く利馬を覗き見れば、先ほど彩溟の聞かせた話など、既に頭からすっかり抜けてしまったような顔をしていたのだ。
(人には話しにくい内容だから、こっそり利馬に相談したのに。男の子って、こういう時に頼りにならないんだから)
 こんな事を思う時、彩溟は大抵、もし自分に同じ年頃の女友達がいたらと想像した。小さな秘密を分かち合い、たまには恋の話も交えて、騒ぎあえたら楽しいだろう。寿烙にも女性の団員は多くいたが、彩溟よりもいくらか年上の女性が多く、あまりそういった話は出来ないのだ。
(それでもみんな、利馬よりはずっと真面目に取り合ってくれるけど)
 ふう、と小さく息をつく。しかし不意に漂ってきたご馳走の香りに心地よさを感じて、彩溟は思わず目を細めた。喧噪が近くなる。団員達が集まって、この地方での終演に互いの仕事を労っているのだ。
 そそくさと食べ物を取りに走り去る利馬の背を見送って、まずは辺りを見回してみる。篝火に照らされた屋外の会場の中心には様々な料理の置かれた机があり、その周辺で、団員達が銘々に談笑し、酒を呑み笑いあっていた。既に酔いつぶれてしまったのか、木陰に足を投げ出して横たわっている人影もある。舞台が行われている最中の寿烙は全員徹底して酒を禁じられているものだから、年上の団員達は打ち上げの席で、ここぞとばかりに酒を呷るのだ。しかしそんな様子を見て、彩溟は思わずくすりと笑った。
 彼らを本当に酔わせているのは、久方ぶりの酒ではなく、互いに力を合わせて一つの公演をやり遂げたという達成感なのだと、わかっていたからだ。
「彩溟」
 声をかけられ、振り返る。立っていたのは天羽であった。
 「今来たの?」内心の戸惑いを悟られないよう、まずは笑顔でそう尋ねる。答える彼女は何気ない。
「うん。化粧を落とすのに、手間取っちゃって」
「『白の乙女』は、お化粧も衣装も誰より華やかだもんね」
「そう。彩溟、あんたも濃い化粧をするようになった時のために、覚えておいた方が良いよ。あれはね、うまく落とさないと若いうちから皺が出来るからね」
「……それ、本当?」
「本当。だから『白の乙女』は舞と一緒に、化粧の落とし方も教わるの」
 「目元もたるむしね」言って天羽が自らの指で目尻を引っ張り、くすりと小さく笑ってみせる。それを見て、思わず彩溟も吹き出してしまった。
――団長、お願いだからよしておくれよ! 同郷の者同士で争うなんて、馬鹿げてる。
 あの時に見聞きしたことの真相は気になるが、こうして話す彼女はやはり、いつもの天羽のままであった。
 優しくて明るい、彩溟の憧れの女性のままであった。
(利馬の言うとおり、あまり気にしない方がいいのかもしれない)
 彼の推測した状況の正誤は別として、あの諍いが天羽の個人的な事情によるものならば、彩溟が口を挟むべきではないという事も確かに承知している。逆に彩溟の助けが必要であれば、天羽はきっと、自ら事の顛末を話してくれることだろう。
(だったら、その時を待とう)
 彩溟だって、この年上の友人におかしな疑念を持ちたくないのが本音なのだ。
「今のうちに、沢山食べておきなよ。次の舞台の配役発表が始まったら、きっとそれどころじゃなくなるだろうからね」
 そう言って、天羽が食べ物を取り分けた皿を彩溟へ渡す。香りの良いご馳走の盛りつけられた皿を見れば、直前までの不安が少し、和らいだ。
(我ながら、単純……)
 急に、肩の力が抜けてしまった。そうして彩溟がご馳走を貪っていると、不意にひゅるると高い音が聞こえてきた。
 ぱぁんとはじける音を耳にして、慌てて頭上を振り仰ぐ。すると色とりどりの炎の塵が、夜空に花を咲かせていた。
「花火――!」
 同時に辺りで歓声が上がる。ぱらぱらと散った光の後に、また一筋の光が走り、違った形の花を咲かせた。
「凄い! 天羽、花火よ! 私、初めて見た!」
「まったくもう。瑞嘉で公演が出来るからって、みんな、財布の紐が緩みっぱなしなんだから」
 苦笑しながら天羽が言う。その直後、「おぉーい、聞け、皆の衆!」と、よく響く低い声がした。寅灯の声だ。
「皆、十分に飲んで食って酔いもまわってきた頃かと思う! だがちょいとしっかりしてくれや。ここいらで、俺が団長に代わり瑞嘉の舞台での配役を発表する流れとあいなった。耳の穴かっぽじってよく聞けよ、同じ事は二度言わねえ。酒に呑まれて朦朧としているなんて論外だ!」
「馬鹿言うな、一番酒に呑まれてやがるのは、てめぇだろうが寅灯!」
「酩酊して配役を読み違えたりしてみろ、次は舞台に立たせねえぞ!」
 既に真っ赤な顔をして、大音声で言い立てた寅灯を、周りの人々が囃し立てる。しかしそれらの言葉など歯牙にもかけず、寅灯は『彼の地の番人』の仕草でひとたび吠えると彼らをたちまち黙らせて、懐から大きな巻物を取り出した。流石に慣れている。祭り騒ぎの好きな彼は、こういう役を必ず自ら買って出るのだ。
「そんじゃ、団長から預かった配役の一覧を読み上げるぞ。まずは、『白の乙女』! この役は引き続き、我が劇団一の舞い手である天羽に任せることとする!」
 人々がわっと歓声を上げた。振り返って見た天羽の表情は、誇らしげな様子に輝いている。
「『彼の地の番人』も引き続き、俺が演じる事となった! てめぇら、文句はねぇだろうな?」
「その酔っ払い顔さえ獣の面で隠してくれりゃ、十分よ!」
「そりゃ、違えねえ! その赤ら顔じゃ、『番人』も普段は『白の乙女』に頭のあがらねぇ、ただの男なんだって事が観客達にバレちまう!」
 野次の後に、笑い声。「そりゃ不味い」と寅灯も、一緒になって笑っていた。
 そうして彼は巻物の文面へと視線を戻す瞬間、ちらりと遠くの彩溟を見た。その表情が、なにやら不敵に笑んでいる。
「皆の衆!」
 寅灯がまた、大きく吠えた。
 彼の声はよく響く。空を震わせ夜を震わせ、そうして、人々の胸を震わせる。
「次に、俺は非常に不本意な発表をしなくてはならない。ああ、恐れていたことが起きてしまった。ついに『番人』の陣営から、裏切り者が出てしまったようだ」
 聞いて、彩溟はきょとんとしたまま瞬きした。他の団員達も皆、同じ事だ。芝居がかった仕草で額を押さえる寅灯と、彩溟の隣に佇む天羽だけが、静かな笑みをたたえている。
「いつかこんな日が来るのではないかと思っていた。ああ、しかしその日がこんなに早く訪れるとは!」
「おい、寅灯。何を言ってるんだ? 勿体ぶらずにさっさと言えよ!」
「いやいや、これは重大な問題なのだ。この配役を事前に目にした時、俺は悲しみと怒りとで震えが止まらなかった」
 「寅灯ったら」言って笑う天羽の肩が、おかしそうに揺れている。
「天羽、何か知ってるの? 裏切り者ってどういうこと?」
「彩溟、言ってやりな。馬鹿な上司に愛想が尽きたんだ、ってさ」
 天羽が堪えられないとばかりに口元を押さえてそう言ったが、余計に意味がわからない。しかし歩み寄ってきた寅灯にがっしと肩を掴まれて、彩溟は小さく悲鳴を上げた。
「な、何? 寅灯、どうしたの」
「皆の衆、次に我らが『白の乙女』にとっての唯一の味方であり、彼女の旅の理由でもある、『物狂いの男』の配役を発表する。これは長らくこの劇団の創設者の一人でもある勝央の翁が務められたが、この度、予てより患っておられた腰の療治に専念するため役を降りられた。そしてその役を引き継ぐことになったのが、」
 見下ろす寅灯の顔が、満面の笑みに輝いている。
 息をする事が出来なかった。彩溟は自分の鼓動が脈打つのを感じながら、寅灯の発する言葉を待っていた。
「彩溟」
 天羽の囁きと、寅灯の力強い声とが、重なった。
「あの、私……」
 思わず言った彩溟の声が、団員達の大歓声に掻き消される。いつの間にやら戻ってきていた利馬までが、「この裏切り者め!」と笑いながら彩溟の肩を叩いていった。
「次の舞台からはこれまで『番人の使い』を務めていた彩溟が、舞台上ではそれと対立する『物狂いの男』を務めることとなる。だが本人も重々承知しているとは思うが、この者の演舞は『物狂いの男』を勤め上げるにはまだ甘い。勝央の翁を師と仰いで、瑞嘉の舞台までの道中、しっかりと稽古に励むように! ――それじゃ、続きも読み上げるぞ!」
 そう言ってまた巻物の中身を読み上げる寅灯の背を、彩溟は微動だにせず見送った。ほんの一瞬前まで想像もしていなかった事態に、少しも思考が追いつかなかったのだ。
(『物狂いの男』? 私が――?)
 『物狂いの男』と言えば、劇団寿烙の舞台において『白の乙女』、『彼の地の番人』に次ぐ中心となる登場人物である。この男は人の身ながら人ならざる力を手にしたため、言葉を失い、理性を失い、獣とも思えぬ様相で壇上を舞う。だからこそその舞の表現にも、尋常ならざる技量を問われる役なのだ。
――あんたが頑張る姿を見るの、私、すごく好きなの。
 何故だか不意に、数日前に聞いた天羽の言葉が脳裏をよぎった。
「彩溟」
 天羽に呼ばれて、硬い表情のままそれを振り返る。
「『物狂いの男』は『白の乙女』の唯一の味方。その男がいなければ、乙女は旅に出ることも、番人達と争うこともなかったでしょう。難しいだけじゃない、登場する場面はそう多くないけれど、この舞台にとってとても大切な役よ。それでも……、できる?」
 すっかり日の暮れた夜空の下、篝火に照らされた天羽の顔には揺らぐ影法師が映っており、その表情は曖昧だ。
 それなのに、静かな声でそう尋ねた彼女の風貌は、今までに見たどんな舞台のそれより美しく見えた。
「やりたい」
 自然と言葉が零れ出た。
「やりたい。あの、――私、頑張ります! 『物狂いの男』、やらせてください!」

:: Thor All Rights Reserved. ::