吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 百花繚乱

002 : 明けの揺籃

「彩溟! ――彩溟!」
 呼ばれて、びくりと目を覚ます。
 夢を見ていた、ような気がした。誰かに何か、問われる夢――。それは大切な問いであった気がするのに、砂糖菓子についた薄紙のような夢の欠片は朝の光に融けだして、すっかりその身を隠してしまった。彩溟はぼうっとする頭で頭上を睨むと、薄い布団を抱いて身を縮まらせ、無意識のまま寝返りをうつ。
(まだ起きたくない。だって、夜更かしをしてしまったんだもの……。ああ、でもどうして、夜更かしなんてしたんだっけ。昨日は、舞の稽古をしたわけでもないし――)
 ふわふわと、覚束ない意識のままで考える。しかしそうしているうちに段々と、自らの発した問いの答えなどどうでもいいことのように思われてきた。
 理由なんて、なんだって構わないではないか。それより今は、自らを夢の世界へと強く誘う、春のまどろみに身を全て委ねてしまいたい……。しかし彩溟が再び目を閉じかけた、次の瞬間、
「彩溟! テメェ、いつまでぐーすか寝てやがる!」
 突然聞こえたその声に、思わずがばりと起きあがる。慌てて辺りを見回すと、すぐ隣に大きな影が、仁王立ちしているのに気がついた。
 劇団寿烙の団員達が寝泊まりする、一番大きな天幕の隅。固い地面へ厚手の敷物を敷いただけの寝床には、既に他の団員達の姿など見当たらない。代わりに彩溟の隣へ立ち、呼んでいたのは寅灯であった。
「ああ、寅灯。おはよう」
 いまだ寝ぼけ眼のまま、まずはふにゃりとそう笑う。すると寅灯は肩を竦めて、呆れた口調でこう言った。
「既にちっともお早くねえよ。全く、また夜更かしか? あれだけ毎回のように朝飯を食いっぱぐれておいて、まだ懲りてねえってのか」
 聞いて、思わず瞬きする。「もうそんな時間なの?」尋ねても、相手はすぐには答えない。
 彩溟の背筋に、冷や汗が浮いた。
「今なら、ま、まだ間に合うわよね? 今日食べそびれたら、私、今週だけで既に三度目なの。寅灯、知ってるでしょう?」
「自業自得だがな。毎朝、何人がかりで起こしてやってると思う」
「でもほら、前は……どこかにこっそりと、私の分を残してくれたりしていたじゃない?」
「いつまでも甘やかしちゃならないと、団長から直々に言われた」
「そんな、……寅灯!」
 泣きつくようにそう言うと、相手が大きく溜息をつく。そうして続いたその言葉に、彩溟は思わず瞳を輝かせた。
「だからわざわざ、その三度目を阻止しにきてやったんだろうが」
「……ありがとう! 今だけは、寅灯のことが尭大老様みたいに見えるわ!」
 明るい声でそう言うと、恩人を尻目に布団を投げ捨て、身軽な足取りで外へ出た。見れば大地を染める朝焼けの中、早起きの団員達が既に活動を始めている。劇団寿烙の朝は早い。日の出を迎える頃に起き、午前中いっぱいをかけて舞台を整え、晩の公演の準備をするのだ。
 腕を伸ばし、朝の空気を目一杯吸うと、体の芯がしゃきりと覚醒していく。彩溟が「おはよう」と声をかけると、誰もが笑って振り返り、朝食の用意された野外食堂を指さした。
「おはよう、彩溟。しっかり眠った? 夜更かしは程々にしなさいよ」
「今日は間に合いそうだな。空になった鍋を見て、次はどう悔しがるかと楽しみにしてたのに」
「ほら、急げ! あんたの好きな浸し物もあったわよ!」
 幾つもの天幕が張られたその広場に、清々しい明け方の風が吹いている。そんな中を駆ける間、彩溟は大声で歌い出したい衝動を、いつも懸命にこらえていた。
 どこかで聞いた、懐かしい歌。だが声に出しては歌わない。彩溟が気分よく歌い出す度に、周囲の仲間達が笑って彼女をからかうからだ。
(いいじゃない。別に、ちょっとくらい音が外れていたって!)
 しかしそうは思いながらも、彩溟の歌がどれほどまずいものかは、彩溟自身も承知している。だからこんな風に歌い出したくなったときにはその代わりに、歌うように軽やかに、舞を舞うように鮮やかに、足取り軽く、より駆けるのだ。
 机を前に黙礼し、まずは朝食を平らげる。そうして作業用の前掛けを身につけると、彩溟は視線で利馬を探した。今日は午後から残りの観覧券を売りに行く手はずになっていたから、細かなことを決めておこうと思ったのだ。
(そうよ。昨日は利馬と話していて、夜が遅くなったんだわ)
 昨晩の話の内容を思い出し、一人で密かに含み笑いする。思わずそうしてしまうほど、昨晩耳にしたそれは特別な事であったのだ。
「彩溟! ちょうどよかった。これ、ちょっとあててみて」
 衣装担当の砂揮(さき)に呼ばれ、足を止める。そうして彼女の手にした作りかけの衣装を見て、思わず「わぁ」と明るい声を上げた。
「素敵! 新しい衣装? 色鮮やかで、綺麗ね。これ、一体誰が着るの?」
「誰って、彩溟あなたのよ」
 言って、得意げに砂揮が笑う。
「次の公演で使うの。いいデザインでしょう? 次は瑞嘉(ずいか)の大舞台を使えるって聞いてたから、元々気合いは入ってたんだけどさ。ここへきて団長が、思う存分煌びやかにしろって言いだしたから、大万歳! 天羽や寅灯の衣装には、もっと力が入ってるんだから。ああ、もう、腕が鳴って仕方ないわ!」
 熱っぽくそう語ってから、彼女は不意に首を傾げ、「だけど団長ったら、突然どうしたのかしらね?」と呟いてみせる。聞いて思わず、彩溟はその顔に満面の笑みを浮かべてしまった。
 新しい衣装が嬉しかった事も勿論そうだが、団長が急に指示を変えたその理由が、手に取るようにわかってしまったのだ。
(それはそうよ。誰だって、最高の舞台にしたくなるわ。だって次の公演は星蘭様が――、藍天梁国、『第一の姫』がご覧になる、特別な舞台になるんだから!)
 
 桃邑生(とうおう)大陸のほぼ全土を統べるこの国、藍天梁国は、神話の時代に初代女帝であった羽原(はばら)が国を築き上げ、それを継いだ占音(せのと)が礎を作った時からその伝統に例外なく、女の皇をその頂点に頂いてきた国家であった。
 繁栄を尊び、礼節を重んじる藍天梁。その歴史は千と数百からなり、幾重の栄枯を経ながらも、周辺の国家は勿論、海を越えた他国にも強く影響を及ぼし君臨し続けている。現在では百と二からなる小国家や自治領までを支配下に置き、知らぬ者のない大国となった。
 その帝国を現在治めているのが、第八十五代女帝、環黎(かんれい)である。
 十八の若さで帝位を得た彼女は国内外に対し優れた政治的手腕を奮い、即位後十年のうちに内紛の絶えなかった白歌の地を平定。近隣諸国と同盟を結んで戦争を回避し、国民には善く商いをさせ、桃邑生大陸全土に富と平穏をもたらした女傑であった。
 藍天梁においてその頂きたる皇は代々伴侶を持つ事が無く、子を成すことも一切ない。かくいう環黎も元は将軍家の令嬢であったと聞くが、先代の皇にその才覚を買われ、皇族に名を連ねたのである。そして現在も同じように、藍天梁には幼い頃から皇を補佐し、ゆくゆくは女帝の位を継ごうと学ぶ者達がいる。それが、首都蒼苑(そうえん)に住む『姫』達――、環黎の養子となった娘達である。
 この内部のことは広く知らされるところではなかったが、姫達はその生まれを問われることなく自らの才を頼りにこれへ志願し、幼い頃より『姫』として、宮殿の内にて国を学ぶ。そうして時が来るとその中から、たった一人、女帝の位を継ぐべき『後継の姫』が選ばれるのだ。
(その中で今、『第一の姫』であらせられるのが星蘭様……)
 『第一の姫』。つまりは現在、次代の皇として最も期待を集めている姫ということである。彼女は昨年、紅牙川の堤防が決壊するのを未然に防いだことでその名を国中に知らしめ、『第一の姫』の位を手に入れた。旅の一座で細々と生計を立てる彩溟達からしてみれば、女帝環黎に次ぐ雲の上の存在なのである。
「星蘭様が、私たちの舞台を見に来るの?」
 この報せを初めて聞いた、昨夜の舞台の後の事。彩溟が思わず聞き返すと、利馬はにやにやと笑みを浮かべながら、こんな風に言葉を続けた。
「なっ? 彩溟、凄いだろ? 俺、それを聞いたらともかく誰かに話したくなっちゃって、それで急いで駆けてきたってわけ。でもこんな大変なこと、盗み聞きしたってばれたら叱られちゃうからさ。みんなにちゃんと知らされるまでは、知らないふりで通してくれよ。……ああ、でも、その気はなくても顔に出ちゃいそうで怖いけどさぁ」
 そんな話を聞いていると、彩溟の頬にも自然と笑みが浮かんできた。利馬がこうまで舞い上がるのも、無理のないことであったからだ。
 藍天梁の『第一の姫』が、わざわざ人目を忍んでまで、寿烙の舞台を見に来るという。それは確かに、利馬でなくとも目を輝かせたくなる大ニュースであった。寿烙のような旅の一座であっても、『第一の姫』に気に入られれば一気に箔がつくばかりか、外交の場で他国の高官達を相手に舞台を設けてもらえる可能性だって出てくるだろう。それどころか、灼桜の都に専用の劇場を作ることだって叶うかもしれないのだ。
「でも、星蘭様はどうして急に、寿烙に興味を持たれたのかしら?」
「そんなの知らないよ。どこかで、俺たちの評判を聞きつけたんじゃないの」
 聞いて、彩溟もそれに頷いた。確かに劇団寿烙の舞台は随分前から好評で、その舞台を見るためだけに、はるばる近隣の同盟国から旅をしてくる人間すらいる程なのである。しかしそれを思えば尚更、『第一の姫』の来訪は栄誉な事と、彩溟には素直にそう思われた。
 
「ねえ、誰か利馬を見かけなかった?」
 すれ違う団員達に問いかけながら、すっかり日の昇った露営地の内を歩き回る。しかし一向に対の舞手の姿がないのを見て、彩溟は短く溜息をついた。利馬は元々よく言って活動的、悪く言えば落ち着きのない性格であったから、同じ露営地にいるはずだとはわかっていても、なかなか見つけられないことが多いのだ。とはいえ落ち着きのなさに関して言うなら彩溟とて、人のことをとやかく言える立場では無かったのだが、こんな時にはついつい頬被りをしてしまう。
 客席をまわり、舞台袖近くの影絵幕――寿烙の舞台は、物語の合間合間に影絵で風景描写を行うことでも有名なのだ――の裏を抜け、利馬を探して歩いてゆく。そうして舞台裏へたどり着き、
 突然聞こえた怒鳴り声に、思わず肩を竦ませた。
「黙れ! 魔女の狗と化したお前の言葉を、誰が素直に聞き入れると思う!」
 驚いた。聞き覚えのある声ではあったが、その人物がこんなふうに怒鳴り散らす姿など、今までに一度だって見たことがなかったのだ。しかし彩溟は咄嗟に物陰へと身を隠し、信じられない思いで露営地の中でも最も外れたところにある天幕――劇団寿烙の団長、義辰の天幕へと、そっと顔を覗かせた。すると同時にその天幕から尻餅をつく形で、一人の男が飛び出してくる。
 ドサリと地面へ落ちる音。長い黒髪を乱した見知らぬ男は相手を睨みつけ、鋭い剣幕で悪態を吐く。
「馬鹿が、どうしてわからない! 時流を読め、義辰!」
「黙れ、この裏切り者が! 魔女に魂を売った人間を、誰が同胞と認めるか!」
 続けてそう怒鳴った人物を見て、彩溟は思わず息を呑んだ。声の主は始めにそうと気づいたとおり、間違いなく、団長の義辰であったのだ。
 芸の道には厳しいが、日頃穏やかな団長の、怒鳴る姿など初めて見た。突然のことに彩溟が目を白黒させていると、同じ天幕からもう一人、見知った影が飛び出してくる。――すっかり青ざめ、その肩を震わせているのは、天羽だ。
「団長、お願いだからよしておくれよ! 同郷の者同士で争うなんて、馬鹿げてる」
「同郷だから何だと言うんだ? こいつは既に、誇りを捨てた狗でしかない! それがなんだ? 時流を読めだと? 巫山戯るな!」
「団長!」
 短く叫ぶ、悲痛な声。天羽は必死に義辰の腕を引き、彼と見知らぬもう一人の男とを見比べて、泣きだしそうにこう言った。
「もうよして……。平楽(たいらく)も、お願いだからこれ以上、私たちの事に構わないで。頼むから、何も知らないふりをして……」
 天羽の言葉は切実だった。そうして義辰が何も言わずに去るのを見て、彼女は慌てて、そのあとについて歩いて行く。
 物陰に隠れていた彩溟は、目の前で起こった一連のやりとりを、息を殺して見守っていた。
(今の……、一体、何だったの?)
 あまりに唐突の出来事に、理解が少しも追いつかない。早鐘のように鳴る胸の音が、煩わしいことこの上なかった。
(団長があんな風に怒るなんて……。それに天羽は、何のことを言っていたの?)
――頼むから、何も知らないふりをして。
 日頃は凛としたあの天羽が、すっかり色を失っていた。それが何故だかやけに恐ろしい事に感じられて、彩溟は思わず、両手で自らの腕を抱いていた。しかしそっとその場を去ろうとして、思わず小さく悲鳴を上げる。
「おいチビ、待てよ」
 地を這うような低い声に、身動きすることが出来なかった。だが同時に伸びてきた男の腕に肩を掴まれて、否応なしに振り返る。すると彩溟の眼前に、先ほど義辰と言い争いをしていた男――平楽と呼ばれたあの男の、不機嫌そうな顔があった。
「てめえ、どこからどこまで話を聞いた」
 問われて、首を横に振る。しかしそれでも相手が引き下がらないのを見て、やっとの事でこう答えた。
「あの、あ、あなた達が天幕から出てきたところ……から……」
「その前は?」
「き、聞いてないわ。だって私、たった今、通りかかっただけだもの」
 「ふうん」と短く男が呟く。そうしてようやく彩溟から距離をとると、彼は相変わらずの仏頂面に、低い声でこう言った。
「今見たことは、他言無用だ。口に出したら最後と思え」
「いきなりなにを、……」
「いいか? わかったんなら黙って頷け」
 酷く横柄な物言いではあったが、有無を言わせぬ迫力があった。彩溟がこわごわ頷くと、相手は尚不機嫌そうな様子で辺りを見回し、さっさと背を向け去っていく。
 何が何だかわからずにその場へ取り残された彩溟は、しばらくの間、唖然としたままその場にただ佇んでいた。直前に見た言い争いのことも、見知らぬ男の事も、理解できないことばかりだ。
 しかし混乱したまま舞台の方へと引き返す間、絶えず彩溟の脳裏に浮かんでいたのは、平楽と呼ばれた男の不躾な態度であった。
(他言無用も何も、……誰かに話せるほど、たいしたことは聞けてないわよ!)
 見当違いの腹立たしさが、胸の内を占めていく。そうして逆に彩溟を探しに来た利馬の顔を見つけるや否や、脳天気な彼の背中に、八つ当たりの拳を贈った。

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