吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 百花繚乱

001 : 足跡の始まり

「本日はありがとうございました。皆様、またぜひ観に来てくださいね!」
 仮拵えの巨大な舞台の前に立ち、帰路へつく観客達に笑顔で声をかける。そうして彩溟はいつものように、手を振り彼らを見送った。
 公演を終えた夜更けのことだ。他の団員達は既に化粧を落とし、後片づけを始めている頃合いだが、彩溟はいつも通り舞台から降りたそのままの姿で、去りゆく彼らへ挨拶した。
「ご観覧、ありがとうございました」
 微笑む。するといまだに舞台の興奮から覚めやらぬ観客達は、彼女に笑顔で応えてくれる。
「本当に素晴らしい舞台だったよ。ここには、いつまで滞在するんだい?」
「今までに色々な舞台を見てきたけれど、今日の舞台は格別だった。ああ、まだ夢でも見ているようだ」
「可愛らしいお嬢さん。団員の皆さんにも、素敵な時間をありがとうと伝えておいてね」
 篝火が揺れ、人々の姿に影が落ちた。それでもじっと目を凝らし、一人ひとりの顔をのぞき込む。
 ああ、違う。この人も違う。しかし心に渦巻く小さな落胆は、少しも顔には表さなかった。
 一つひとつへ頷いて、誰もに笑顔で礼をとる。そうして得意げに胸を張ると、背後の舞台を振り返った。
 旅の一座、劇団『寿烙(じゅらく)』。観客達のもたらす声は正直なところ、彩溟が本当に求めているものとは異なっていたのだが、それでも仲間を誉められる事は、嬉しくもあり誇らしくもある。
(あの人達についてきて、良かった)
 そう思う。そして同時に、以前彩溟を助けてくれた、ある都市の市長のことを思い出す。
 
 彩溟は、記憶をなくした子供であった。
 当時のことを彩溟自身はあまり覚えていなかったが、どうやら彼女はある冬の日、血まみれになって町の外れに倒れていたのだという。とはいえ頭を打った様子はあったにせよ、特に大きな怪我をしていたわけではないそうだから、一体どこで血を浴びたのかはわからない。連れの姿も、辺りのどこにもなかったという。
 目覚めた彼女は自らの名すら覚えてはおらず、その頃既に亡くなっていた、市長の実の娘の名――彩溟という名をつけられた。
 そうしてその町の一員として迎え入れられた彼女に転機が訪れたのは、それから少し後のことだ。
「劇団の巡業について家族を捜すとは言っても、お前、肝心の家族の顔すら覚えていないんだろう。旅なんて危険ばかりなのに、無駄足を踏むんじゃないか。ただでさえ、お前はすぐに無茶をするのに」
 その町で暮らすようになって半年ほど経った頃、彩溟は丁度巡業に訪れていた劇団の話を聞き、すぐさま、その劇団の門を叩いた。下働きでも何でもするから、どうか、彼らの旅に加えてほしいと願い出たのだ。
 町での暮らしは悪くなかった。心優しい人々と、別れることは寂しく思えた。――しかし得体の知れない衝動が、ただ安穏と過ごす日々を嫌がった。
「市長さん、彩溟をとめてくれよ。こいつ、このままじゃ荷台に忍び込んででも、あの劇団についてっちまう」
「お前が他所の町に行かなくたって、いつかお前のことを知った誰かが、ここまで迎えにくるかも知れない。なあ、ここで一緒に待とう。それが良いに決まってる」
 どんなに強く言われても、彩溟はうんとは言わなかった。そうして毎晩のように劇団の門を叩き、そして最後の夜に劇団の入り口で、丁度彩溟とは逆に町へ戻ろうと出てきた市長に鉢合わせた。
「彩溟。お前のことだけど、たった今、この劇団の団長と話をつけてきたからね」
 市長ははじめ、事も無げにそう言った。
 劇団に加わりあちこちを旅したいのだと彩溟が切り出した時、彼女はそれを止めなかった。ただ黙って、彩溟と町の人々が押し問答するのを聞くに留まった。しかしこの時、彼女はそっと彩溟を抱きしめて、心底心配した様子でこう言ったのだ。
「くれぐれも、気をつけて行くんだよ」
 そして同時に、「やると決めたなら、最後までやり通しなさい」とも。
 
「あら、あなた……」
 唐突に声をかけられて、慌ててそれに振り返る。すると品の良さそうな壮年の女性が、彩溟が持った面を見て朗らかな笑みを浮かべていた。
「そのお面……。もしかしてあなたも、今の舞台に立っていたの?」
 問いは彩溟の期待していたものとは違っていたが、しかしがっかりした様子など、彼女はおくびにも出さなかった。そうして明るく微笑むと、優雅な仕草で面をつけ、くるりと一度、回ってみせる。
「『彼の地の番人』の使いの者として、舞を演じておりました。今宵の演舞、奥様に少しでも楽しんでいただけたなら良いのですが」
「何を言うの。あの舞台に心を動かされない人間なんているものですか。そう思うくらい、今日は素敵なものを見せていただいたわ。本当に、ありがとう」
 そう言い去っていく婦人に向けて礼をとり、彩溟は再び篝火に浮かび上がる舞台を見上げて微笑んだ。
 地に根を下ろさぬ旅の壇。季節を通じ、郷を渡り行く劇団『寿烙』。
(こうしていろんな土地を巡っていれば、きっといつか、私自身のことを知る手がかりが掴めるはず。私のことを知る誰かに、巡り会う機会だってあるかもしれない)
 そう考えて彼らの仲間に加わってから、既に二年近い時が過ぎていた。
 手がかりはまだ掴めない。けれど、立ち止まろうと思ったことは一度もない。
 彩溟はふと顔を上げると、興奮気味に舞台の感想を語らいあう観客達の背に向けて、大きな声でこう言った。
「劇団寿烙、この地方での公演は残り三日です。上席の観覧券もじきに売り切れますよ。ご購入の際は、お早めに!」
 
 一通りの客を送り終えると、後は片付けが待っている。彩溟は急ぎ作業服に着替えると、小走りに舞台裏へと向かっていった。途中でちりとりを拾い、先の抜けていない竹箒を探し出す。しかし視線の先にある人影を見つけると、迷わずそちらへ声をかけた。
「……天羽(あもう)!」
 呼ばれてこちらを振り返ったのは、『白の乙女』――、劇団寿烙一番の舞手にして、創設者の一人でもある天羽であった。彼女は声の主を見るや微笑んで、両手を広げて彩溟のことを受け止める。
 箒やちりとりを投げ捨てた彩溟が、迷わず彼女の豊かな胸に顔を埋めると、周囲の男達から羨ましげな溜息が漏れた。いつものことだ。彩溟はぎゅうっと彼女を抱きしめると、興奮気味にこう言った。
「天羽! 今日の舞台も最高だった。私、本当に感動したの。舞台袖から見ていたのに、あんまり熱中して、自分の出番を忘れそうになったくらい」
「あら、それは困るわね。『番人の使い』に邪魔をされなければ、『白の乙女』は簡単に、天の果実を手に入れてしまうじゃないの」
「そうさ。俺を――『彼の地の番人』を裏切ってくれるなよ」
 そう言葉を挟んだのは、獣の面をかぶり舞台で天羽と対峙していた男、寅灯(いんとう)であった。彩溟がそれを振り返ると、彼は無骨な腕でがっしと彩溟の肩を掴み、にやにやしながら頭を撫でる。彩溟の長い黒髪が、鳥の巣のように乱れるのもお構いなしだ。
「寅灯、もう、やめてってば! すぐに子供扱いするんだから!」
「ちんちくりんが、何言ってやがる。淑女扱いされたければ、せめて天羽くらい、こう、たわわに実をみのらせてだな、……痛っ! 天羽、何するんだ!」
 下品な身振りでそう語った寅灯の耳を、天羽の指が引っ張った。引きちぎらんばかりのその動作に、周囲で見ていた他の団員達が笑い声を上げる。するとその声につられたのだろうか。舞台裏の奥の部屋から、一人の男が顔を覗かせた。
 この劇団『寿烙』の団長、義辰(ぎたつ)だ。
「馬鹿だな、寅灯。またやられてやがんのか」
「団長! 全く、どうにかしてくださいよ。天羽の奴、舞台の上では『彼の地の番人』に勝てないからって、舞台を降りると途端に俺を虐めるんですよ。『番人の使い』まで虜にしちまったらしくて、肩身が狭くて仕方ねえや」
 言って、寅灯がちらりと彩溟を見る。彩溟はにやにやと笑い返して、そのやりとりを眺めていた。義辰は呆れたように肩を竦めたが、たいして気にした様子もない。
「さあ、後片付けはさっさと仕舞いにして、今晩はみんな早く寝な。公演はまだ三日もあるんだ。こんな半ばで体調を崩したりしやがったら、ただじゃおかねえぞ。……それから、天羽。お前は後で顔を出せ。少し話があるからな」
 「はぁい」と、それぞれに答える声。しかし彩溟が投げ捨ててあった竹箒に手を伸ばすと、まだ舞台衣装のままでいた天羽が、そっと彼女に耳打ちした。
「彩溟。あんたも、また腕をあげたわね」
 聞くや否や、彩溟の顔が輝いた。
「本当? 天羽、あの、本当にそう思ったの?」
「本当よ。特に中盤のつるぎの舞。彩溟の舞は線が細いのに強いから、不思議な魅力があるのよね」
 つるぎの舞。『番人の使い』が『白の乙女』を追い払おうと、つるぎを持って舞う演目だ。彩溟自身もその舞が好きで、暇さえあれば稽古に励んでいた。
「私、天羽と違って歌が下手だから……。台詞のある役にはつけないけど、でもせめて、あの舞は頑張ろうって思ってたの。だから、そんな風に言ってもらえて嬉しい」
 何だか少し照れくさくて、天羽の顔を見て言うことは出来なかった。しかし彼女はそれすら心得たと言わんばかりに微笑むと、寅灯にぼさぼさにされたままでいた、彩溟の髪を整えてくれた。
「知ってる。あんたが頑張る姿を見るの、私、すごく好きなの」
 言って、小さくウィンクする。軽い足取りで彩溟に背を向け、歩いていく後ろ姿には、『白の乙女』同様の凛々しさがあった。
(天羽が、私の舞を褒めてくれた)
 考えると、意図せずとも口元が緩む。しかしそうして彩溟が上機嫌で竹箒を動かしていると、どこかから不意に声がかかった。
「彩溟! 彩溟、ちょっと」
 彩溟とは対の『番人の使い』を演じる、利馬の声だ。しかしどこかに潜んででもいるのだろうか。辺りを見回しても、その姿は見つからない。
「彩溟!」
 呼ばれて、今度は気がついた。見れば舞台の影に隠れるように、利馬が小さく手招きしている。
「なあに、掃除も手伝わないで。一体何をしてるのよ?」
「そういう彩溟だって、たいして掃除してないだろう。そんなことより、いいから、早く来てよ」
 興奮気味なその声に、一度やれやれと溜息をつく。そうして彩溟が箒を置くと、彼は彩溟の手を引き舞台を少し離れてから、声を忍ばせてこんな事を言った。
「彩溟、大ニュースだよ。俺、団長の部屋の前で偶然聞いちゃったんだ」
「盗み聞きしたの? 後で叱られるわよ」
「そんなの構うもんか! ほら、早く耳を貸して」
 彩溟よりも少し前に一座に加わったこの少年が、こんなにも浮き足立っているのは珍しい。その事に興味を覚えた彩溟が耳を寄せると、彼は小さな声で囁くように、彼女に向かってこう言った。
「今度、瑞嘉の大舞台で公演があるだろ? その時にさ、なんと! あの星蘭(せいらん)様がお忍びで、俺達の舞台を見に来るんだって!」

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