吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 百花繚乱

000 : 最終演目『光葬』

 静寂を打つ、音がする。
 涼やかで、そして高潔な音。心の形に沿うた音。それを聞けばどんな時でも、胸がどくりと高鳴った。
「この園にある天の果実を、わたくしに分けてくださいませんか」
 白地に朱の花模様の着物を身につけた女が、顔を隠してそう歌う。それに対峙するのは、恐ろしい獣の面をかぶった大柄な男であった。しかし男はぴくりともせず、女の言葉に答える様子もない。
「この果実だけを頼りにして、はるばるここまで来たのです。どうか、どうか、」
 男はそれに答えない。しかし突然大きく足を踏みならすと、どこから聞こえたものだかわからないほどの大声が、急にその場へ響き渡る。同時に、太鼓の音が轟いた。
「それに応えることはできない。――お前は我らを裏切った」
 もう一度、地を裂くような太鼓の音。すると次には、男がつるぎを右手に舞い踊る。代々継がれる光葬の舞いだ。女はさめざめと泣き、しかし諦めきれぬと言わんばかりに、男の守る樹に手を伸ばす。
「この果実さえ手に入れば、きっとあの方も目を覚ます。呪われたって構わない。わたくしはただ、ただあの方のためだけに」
 高らかな声。美しい歌。しかし女は振り返り、眼前に迫った獣の面に息を呑む。
「実を返せ」
「お許しになって」
「逃がさない」
「ああ、どうか」
 太鼓の音が大きくなる。
 心の淵に迫るように。心の檻を壊すかのように。
 そんな折、突然肩を叩かれて、舞台袖から顔を覗かせていた少女――彩溟(さいめい)は、思わず息を呑みこんだ。見れば団員仲間の利馬(りま)が、にやにや笑って彼女を見ている。そうして彼は自らの手に持った面を身につけると、彩溟にもそれを促した。
(いけない。そろそろ出番だわ)
 そう考えて、一度大きく深呼吸する。いつもの事ながら、思わず舞台へのめり込んでしまった。しかしそれほど迫真の演舞であるのだから、仕方がないと思いたい。
 薄く目を伏せ、面をかぶる。そうして舞台の袖から顔を出せば、熱気に覆われた客席が一度に見渡せた。
(さあ、私の舞も見てちょうだい)
 緊張感に支配された空間を横切り、舞台を軽く跳び回る。薄衣の布を空に掲げ、仮面の男の側へ静かに降り立つと、一瞬の後に拍手が起きた。
 心臓に響く太鼓の音。沸き上がり囃す人々の熱気。伏せていた顔をさっと上げれば、すぐ目の前には提灯の朱。
 しかし大歓声の中、彩溟だけは、他の誰にも聞こえない、静寂を促す凜とした響きを耳にしていた。
(懐かしい音)
 そう思う。
 それなのに、その音がなんであったのか、どうして思い出せないのだろう。
(薄情者め、――)
 心の中で、毒づいた。そうする間にも彼女の足は、舞の動線を踏んでいる。
 つるぎを天に掲げれば、赤い飾り紐のついた袖口が揺れる。そこからちらりと覗く腕は、既にうっすら汗ばんでいた。
 舞台で再び利馬に出会った。互いにつるぎと矛を持ち、実を手放さぬその女に刃を向ける。
「この果実は返さない」
 女が歌った。高い声で。
「この果実は返せない。この果実は、あの方にこそ必要なものなのだから!」
 
   舞星を追えや 舞を踊れや
   この地踏みしめて前へ進めや
   おのれの足には錆草が繁り
   おのれの顔には鳥が群がる
   それでも諦めきれぬなら
   いのちをむしばむ歌を愛せよ
   その竪琴で歌い明かせよ
 
 ああ、今宵も綺麗な満月だ。
 こんな時には何故だか無性に、あの鳥の笛が恋しくなる。

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