吟詠旅譚

海の謡 第一幕

幕間 : 淵のしじまに

 次元を紡ぐ、音が鳴る。
 千仞の谷がそこにはあった。上から見下ろすにその闇の深さは窺い知れず、下から見上げるに地上の光を望むことすら畏れられる、深い、深い谷だった。
 神話の時代に悪しき者が這い出でたという伝承すらあるこの地に、足を踏み入れる人間等は絶えて久しい。しかし今、そこに旋律を紡ぐ影がある。
 詞のない歌。
 低く響くその声が、幽暗な谷に渦巻いていた。唸るようなその声は、しかし確実に、耳にした全ての者に一つの感情を植え付けていく。
 歌っているのは、つばの大きく奇妙な帽子をかぶった男だった。目許は闇に紛れて窺い知ることが出来ないが、その口元は確かに笑んでいる。
「随分早起きなのね」
 背後から聞こえてきた囁くような声に、男はにやりと笑って、頷いた。
「目が覚めたのか、カナデ」
 男が振り向いた先にいたのは、線の細い、一人の女であった。体つきは華奢だがその歩みは颯爽としており、切りそろえられた髪の合間から見られる瞳は強く、気高い。カナデと呼ばれた女は抱きしめるように両手を広げた男の側を、眉一つ動かさずに通り過ぎると、谷の境へと歩み寄った。
 一歩違えば闇の底。しかしカナデは臆する様子もなく、谷の境を品定めするかのようになぞっていく。
「そんなに還りたいのかい」
 呆れた様子で男が言った。
「おいおい。いくらなんでも、そんな端を歩いたんじゃ危ないな。いつ崩れるともわからない。運試しでもするつもりか」
「あなたは相変わらず、口数が多いわね。カタリ」
 耳を澄ましてやっと聞き取れるほどの声で、カナデがそう囁いた。男――カタリは溜息をつき、頭を振って、どっかとその場に座り込む。
 相変わらずの相棒の様子に、安堵するべきか、落胆するべきか判じがたい。
 一方でカナデはカタリの様子になどお構いなく、一歩、また一歩と闇の脇を歩んでいた。
「あなたの謡も、相変わらずだわ」
「そうかい。それはおあいにく様」
「想うだけでは、あまねく届けることなどできはしないのに」
「それしかできないだろう。今の俺たちには」
 ふてくされた声でカタリが言うと、カナデはようやく足を止めた。しかしカタリの元へ戻るのではなく、ただ、その足を谷へと向ける。
 大地をえぐり取ろうとしたかのように、深い、深い、奈落の闇。カナデはそこへ片手を向けて、一言何かを呟いた。
「カナデ。――まさか」
 カタリの問いに、返事はない。
 ただその一瞬、闇が、カナデの細腕に引き寄せられるかのように歪んだのがわかった。そうなると、カタリは黙って見守るより他にない。闇が収束する。その中心に、一人の女性が立っている。
「その為の休息……だったんだもんな」
 呟き、そして立ち上がる。
 カナデがふと、振り返った。その手には彼女の肩幅ほどのサイズの、小柄なハープが抱えられている。
「そして、その為の名よ。私が奏で、あなたが語る。けれど今の私に曲はなく、今のあなたに詞はない。――だからこそ、私達は彼らを追わなくては」
 カナデの長い指が弦に触れ、とりとめのない旋律を紡ぐ。
「まずは」
「全知の塔で、既に何やら起こっている。藍天梁のお姫様が騒ぎの中心だ」
「あら。あの塔、まだあったのね」
「俺たちが知っているあれと、同じものかはわからないが。……それからクラヴィーア。まだ若い国だが、押さえるものは押さえてる」
「権力者は、目聡いもの」
「小賢しいとも言う。あとはこれから調べなきゃならない。俺にもさすがに、これ以上は」
「私よりも先に目覚めたのに。――役に立たないわね」
「そう言いなさんな。なんにせよ、まずは塔へ行くしかないんだ。そこで次に進む方向を定めれば、何ら問題はないだろう」
 カタリが挑戦的に笑ったが、カナデは愛想に口の端を上げようとすらしない。カタリとしてもそんなものを期待するつもりは毛頭無かったようで、ただ黙って、『闇の淵』をあとにした。
「行きましょう、カタリ。私達の旅譚は、既に幕を開けたのだわ」
 上から見下ろすにその闇の深さは窺い知れず、下から見上げるに地上の光を望むことすら畏れられる、千仞の谷。
 その対岸には小さな花が、風に遊ばれ揺れていた。
The close of Act 1
-- 第二幕 第一章「百花繚乱」へ続く --

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