吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

024 : 華と月 -5-

 思うが速いか、紫萌は直ちに顔を背けて鷏良の背にしがみついていた。
 あの視線に捕まってしまったら、もう逃げられない。
「懸命な判断です。けれど、毎回そればかりで私が引き下がるとでもお思いですか?」
 冷たい声。しかし同時に大きな風と、こんなに上空だというのに砂煙が辺りに舞って、紫萌ははっとツキを振り返った。砂煙がトリオールの視界を奪い、その隙を突くように鷏良が空を駆けていく。そんな中、ツキが苦い顔をしながらも強い口調で、「戻ろう」と言った。その苦渋の表情が、このまま戦いになれば紫萌達に勝ち目はないのだと言うことをありありと語っている。
 どこに戻るのかは、すぐに窺い知れるところであった。この不思議な世界――狭間の世界ではなく、元いた全知の塔へ戻るというのだ。紫萌は一度頷いて、再び笛を握りしめる。
 折角見つけた仲間の手がかり。本当なら、早速あの羊飼いの少年を探しに行きたいところではあったが、そう悠長なことを言っているわけにはいかないようだ。
(大丈夫よ。焦らなくたって、必ず会える)
 自分自身に言い聞かせる。二度もこの丘にたどり着くことが出来たのだ。三度目だってあるに違いない。しかしそんな思いを嘲笑うかのように吹いた強風に、紫萌は思わず悲鳴を上げる。
 必死に鷏良の背にしがみついていると、隣からツキの呻く声が聞こえてきた。どうやら今の風は、ツキが意図して起こしたものではないらしい。ならば、トリオールがやったのだろうか。
 しばらく行くと、風の力が弱まった。しかし恐らく、トリオールの追撃を逃れたわけではないだろう。相手は紫萌達に、脅しをかけているだけなのだ。風を操る程度の子供だましなら、おまえ達でなくても出来る。そんな声が聞こえてくるかのようだった。
「紫萌、聞こえる?」
 突然の問いに、辛うじて頷き返す。場にそぐわない笑い声が聞こえた。
「針、千本飲むのは嫌だけど、指切りっていうのはなんだか気に入った。ついでだから、もう一つ約束しよう」
「何を約束するの?」
「再会を」
 はっとして、紫萌は目を開けツキを見た。いつの間にか彼は器用に鷏良の背へ立ち上がり、相変わらずの悪戯っぽい顔で紫萌を見下ろしている。
「トリオールが何者なのかは知らないけど、俺たちが今、一緒に奴へ掴まるのが得策だとは思えない」
「でも……! 言ったでしょう、私、自分だけ逃がしてもらうなんて嫌だって!」
「紫萌だけ逃がすんじゃない。俺も逃げる。鷏良も。ただ、逃げる方向が違うだけだ」
 そう話したツキの表情があまりに真剣で、紫萌は思わず唾を飲み込んだ。彼の目には恐らく、紫萌が見ている以上の物が見えているのだ。その証拠にツキの目はまっすぐに進む先を捕らえていて、少しも揺るぐ様子がない。
 鷏良が短く、啼いた。同時に風がゆらぎ、三人は大きく吹き飛ばされる。紫萌とツキは咄嗟に鷏良へしがみついたが、鷏良は今のことで傷を負ったようだった。飛び方のバランスが崩れたのを見て、紫萌が必死に安否を問う。
「まずは、紫萌の大好きな環黎サマとやらに会ってみようと思う」
 ツキがそう言ったので、紫萌は些か驚いた。しかし目の前に小指を突きつけられて、問い返そうとした言葉を飲み込んでしまう。
 周囲の精霊達が、得体の知れない何かの出現に怯え、逃げ去っていく。こうしている間にも三人が着々とトリオールの手中に収まりつつあることは、紫萌にも理解のあるところだった。このままでいては、相手の思うつぼだ。
 わかっている。けれど、踏ん切りがつかない。
 ツキの目を見る。深い紅の瞳も、紫萌のことをじっと見ていた。
(さよならを、しないための指切りなんだわ)
 心の中で、そう呟く。
 紫萌はそっと右手を挙げると、自分の小指を差し伸べた。
「その為に一番簡単なのは、私が塔から『失踪』すること――。そうよね」
「政治的にも軍事的にも、塔より藍天梁の方がずっと強い力を持ってる。そうなったら環黎の当初の思惑通り、オルビタもトリオールも手を出せない。塔に戻ればセーマがいる。あいつならきっと、退路を確保しているはずだ」
「それなら私は『失踪』している間、同じ力を持った仲間を捜してみる。世界中を歩き回って」
 小指を絡めて、にこりと笑う。
「嘘ついたら針千本のます」
「指切った!」
 いつの間にやら、鷏良は徐々に高度を下げて丘の方へと降りてきていた。川の大分上流の方に、小さな湖があるのを見つけたのだ。川と同じくいくらか流れがあり、鏡のように張り詰めた水面というわけではなかったが、今の力ならばこれでも道を通せそうだとツキが言った。
 段々と水面が迫ってくる。鷏良の嘴が水面を突き刺し、紫萌も大丈夫だとは思いながら、飛び込む瞬間にぐっと息を止めた。
 しかしそうして水面をくぐり終えるか否かの所で、紫萌はそれを、見た。
 息を呑む。隣でツキも、狼狽して肩を震わせたのがわかった。
 水面が真っ黒く、闇の色に染まっている。そうしてその中に、目のように、昏く灯る光が二つ。
「そう簡単には行かせませんよ」
 聞き覚えのある声がした。ツキが隣で何事かを叫んだが、紫萌の耳には届かない。
 あの目が、昏い光が、紫萌のことをじっと見ている。
「紫萌!」
 ひきつれたその叫びを聞いて初めて、紫萌はいつの間にか、自分が鷏良の背からはじき飛ばされていたことに気づいた。手を伸ばす。差し出されたツキの手を取ろうとしても、届かない。
(今落ちたら、私、どっち側に取り残されるのかしら)
 悠長なことに、そんな疑問が頭をもたげた。しかしそれも、一瞬だ。
 がんっと強く、頭を打った。何にぶつけたのかはわからない。一度世界が真っ暗になって、頭がやけにぼうっとした。
 水面から、透き通った一対の大きな腕が伸びている。それが紫萌めがけて進んできたのがわかったが、今の紫萌に避けられようはずもない。その時ツキが、紫萌に向かって白い光を投げつけた。光は紫萌の傍らに落ち、不気味な腕が怯む様子を見せる。ぼうっとしながら光に手を伸ばすと、その正体が何であるのかはすぐに知れた。どうやら先程取り落としたらしい、あの少年の笛だ。
「おまえは、こっちだ!」
 ツキがそう言って、昏い光と共に水面へ沈んでいく。気がつけば、鷏良がいない。どこにいるのと問おうとしても、上手く言葉がはき出せなかった。
 そんな内に、ぐらり、と大きく視界が揺れたのがわかった。真っ暗だ。自分は今、どちら側にいるのだろう。そんなことを考えたが、その答も定かではない。
 紫萌は今、暗闇の中を落ちていた。ツキは、鷏良はと尋ねる声も、ただ空しく流されていく。
 
 気づくと、紫萌はただ、ただ、ひたすらに続く荒涼とした大地に佇んでいた。
「どうして」
 呟いた言葉は紫萌の唇を動かしただけで、誰に伝わるはずもない。
 けれど答えがあった。
 紫萌は背後から近づいてくる人影の存在に気づいて、そっと、振り返る。
 すらりと伸びた影。相手は何重にも巻かれた布で身を包み、手に掲げた槍を杖のようにして、這うようにこちらへ近づいてくる。金具は錆びて持ち手は朽ち、今にも槍頭が崩れ落ちてきそうな程に傷んだ槍。それにすら縋るように歩く人影はいかにも病んでおり、包帯を巻き付けた腕はあまりに痛々しかった。
 逆光のため、その表情はうかがい知れない。
「ここへ呼んだのは、おまえを眠りへと誘うため」
 疲労と乾きに掠れた、しかし、優しく囁くような声。もはや男女の別もつかないようなその声に、聞き覚えがあった。
(あの、鏡の中の――!)
「おまえはまだ幼い。眠りなさい。そうしていれば今少し、狭間の者の目を欺くことが出来る」
 聞いて、紫萌はわけもわからぬまま首を横に振った。
「だめ。私、約束をしたもの」
 一歩、また一歩と相手が近寄ってくる。歩く度に布が地面へこすれ、ずるずると乾いた音がした。
「おまえが一番、私に近い。ここで失うわけにはいかない」
 深い声。弱々しい足取りとは裏腹に、その歩みには鉾先を突きつけるような威圧感がある。逃げようと思っても、少しも足が動かなかった。そうしているうちに相手の手が、静かに紫萌の頭に触れる。
 涼やかな、鈴の音がした。
「だめ。私、ツキ達の所へ帰らなくちゃいけないの。星蘭も、セーマも、ネロも、きっと待ってくれているはずだわ」
 有無を言わさぬ機敏さで、相手の手に力がこもった。不思議に頭は痛まない。ただ、体中の力が抜けていく。
「だからこそ、おまえは眠らなくてはいけない」
 かすれゆく意識の中で、そんな声を聞いたように思った。しかしそれも定かではない。
(約束を、したのに)
 呟いた。
 
「おや、目が覚めたのかい!」
 明るい声でそう言われ、気を抜けば再び閉じてしまいそうな自分の目蓋を、無理矢理にこじ開ける。
 窓から差し込む光がまぶしい。朝日だろうか。体を起こすと太陽の光が、低い確度からまっすぐにこの部屋を照らしているのがわかる。
 額に乗せてあったらしい、濡れた布が膝へと落ちた。頭に手をやってみると、何やら包帯らしきものが巻き付けられている。長い黒髪は三つ編みになって、肩から垂れ下がっていた。
「私……」
「怪我をして、町外れの崖で倒れていたのさ。あんた、何であんな所にいたんだい。血まみれで顔も真っ青だったから、始めは死んでいるのかと思ったよ」
 世話好きそうな壮年の女性が、そう言って剥いたばかりのリンゴを差し出した。フォークに刺さったそれを受け取って、しゃり、と先を噛んでみる。みずみずしい甘酸っぱさが口内に染み渡っていくのを感じると、思わず、彼女の頬に笑みがこぼれた。それを見て気をよくしたのだろう。女性はリンゴを三つも剥いて皿に載せると、ぽん、と肩を叩いて、言った。
「まあ、詳しい話は傷が癒えてから聞かせておくれ。あたしはここの市長だからね、傷が治るまで、入り用のものがあったら何でも言っておくれ」
 気持ちの良い言い方に、思わず心がほっとする。「ありがとう」と言って頷くと、女性は嬉しそうに笑って、扉の向こうへ去っていった。
「市長さん、例の子、目が覚めたのかい」
 扉の向こうに、他にも何人かいるのだろう。声が聞こえてくる。
「ああ。今はリンゴを食べてる。食事も用意してやらなきゃね」
「市長さんちで採れたリンゴは美味いからなあ。俺が食べたいくらいだぜ」
「おまえは怪我も病気もしねえからなぁ。それより市長さん、いつまであの子の面倒を見てやるつもりだい。聞いた話じゃ、血まみれで倒れていたってことだけど――厄介ごとを背負い込んでないと良いが」
「おや。おまえさん、随分薄情なことを言うんだね。私は、あの子が行くと言うまでいつまでだって面倒を見るつもりさ。うちの娘……彩溟(さいめい)も、生きていりゃあ同じくらいの年頃だ。私があの子を見つけたのも、何かの思し召しかも知れないからね」
 明るい声達が、そんなことを話しながら少しずつ遠くへ去っていく。
 しゃり、と静かな音がした。フォークに刺さっていたリンゴを食べ終えると、卓子に置かれた銀盆が視界にはいる。水が張ってあった。どうやら、頭に載っていたタオルはここで濡らされたものであるらしい。
 そっと体を伸ばし、銀盆の中を覗き見る。包帯も巻かれているようだし、頭を打ったのだろうか。視界がぐらぐらと、落ち着きなく揺らいだ。それでもなんとか体を踏ん張って、そっと、その水面を真上から窺ってみる。
 黒い髪。けっして白いとは言えない肌。成長途中の、頼りない肩。
 銀盆の隣に、笛があった。どこかで見たことがあるように思うが、詳しいことは思い出せない。何か、大切なことだったように思うのだが。
 もう一度、銀盆の中の自分に視線を移す。それから少女は、しっかりとした口調でこう呟いた。
「――あなたは、誰?」
 扉の向こうの声は、ずっと遠くへ去っていってしまった。ただ、窓の外からは小さな水音がする。どうやら、雨樋から水が垂れる音のようだった。
(昨日は、雨でも降ったのかしら)
 考えなくてはならないことは、どうやらとても沢山あるようだった。しかし今は、思考がそれに追いつかない。
 ぎゅっと、胸元で笛を抱きしめる。
 それは鳥の彫刻がなされた、質素な横笛だった。
-- 「幕間」へ続く --
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