吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

023 : 華と月 -4-

 あいつというのは、トリオールのことだろうか。今度は紫萌が聞き返す間もなく、ツキが手を前に突き出した。それから鷏良を指で指し示し、「鳥よ」と低く、唸るように言う。
 辺りを舞っていた精霊達が、声に呼び寄せられたかのように近寄ってくる。ただでさえ精霊の気配が濃い場所ではあったが、こうなると、まるで精霊達が群がって紫萌達を捕らえる檻にでもなったかのようだった。前後左右、至る所に精霊達の気配を感じる。力のいくらかを失った紫萌でさえそう感じるのだから、ツキなどは尚更だろう。
 吹き飛ばされそうに強い風を受けて、紫萌はツキの服の端を掴んだ。辺りを飛び交う砂や葉が目に入って、空いた方の手で目をこする。そうしながら辛うじて顔を上げ、紫萌は思わずはっとした。
 目の前に、今、二つの光が灯っている。
 片方は清浄な白。塔で見慣れたあの色が、優しく鷏良を包み込んでいる。
――何物にも変わり得る、何物にも染まらぬ白、それが私達の信念とも言えましょう。
 初めて出会ったとき、セーマがそう言っていたことを思い出す。しかし紫萌は一度目をつむると、もう一つの光を睨み付けた。昏く灯る、暗晦としたその光を。
(怖い)
 鷏良を傷つけた、あの時の物と同じ影。紫萌は一瞬身震いして、しかしそっと、ツキから手を放す。ツキは目を閉じ集中していて、あの昏い光のことになど気づいてもいないのだろう。
 意外なことに、足は竦まない。
 あの光は危険だ。きっとまた、大事な人を傷つける。
 誰かが紫萌に、耳打ちした。
 思うがはやいか、紫萌はそれに向かって駆け出していた。後ろでツキが制止をかける声がしたが、止まることなどできはしない。一瞬も、遅れることはできないと思った。
 短い映像が紫萌の脳裏に過ぎったのだ。あの闇が紫萌達をめがけて弧を描き、それから。
(誰かが目の前で傷つくのは、もう嫌――!)
 ツキが大きく舌打ちしたのがわかる。紫萌は足元で拾った太めの枝を取ると、闇へ向かって勢いをつけ、力一杯振り下ろした。
 奥歯を噛みしめる。手応えはなかった。だが確実に闇が弛み、今まさに切り裂かんとしていた軌道を逸れたことが知れる。ほっと安堵の息をつきながら、紫萌は草に足を取られて尻餅をついた。
 その時だ。
「おやおや、おてんばなお姫様だ」
 聞き覚えのある声に、思わず身を堅くする。
 声のした方、闇が向かって行ったのとは逆の方向に視線を向ける。しかしそこに、想像していた人物の姿は見られない。
(今の声、一体どこから――)
 その時ひやりと、首筋に冷たい何かが触れた。
 立ち上がろうとしていた紫萌は、その姿勢のまま振り返ることができずに息を呑む。得体の知れない恐怖に、背筋がぞっとした。
 地面を見下ろす、視界がぼける。ああ、駄目だ。実際に目の前にいるわけでもないのに、あの目に囚われてしまったときのように、体が重くて動かない。紫萌は地面の草を握り締め、目をつぶった。
 しかし、同時に。ツキの声が場に響く。
「まことの鳥の、名を持つ者よ! 形を得、今一度現世の魂へと還れ!」
 強い風が紫萌を取り巻いた。首筋に触れていた冷ややかな何かが遠のいたのを感じて、紫萌は肩で息をしながら顔を上げる。いつの間にか、全力で走り続けていたかのように汗をかいていた。
「ツキ、――ツキ!」
 風の向こう側から紫萌の名を呼ぶ声に、手を伸ばし、呼び返す。握り締めた手から土がこぼれ、ちぎれた草が宙に舞った。足で必死に地面を蹴り、声に向かって走り出す。
 風の向こうに、差し出された手があった。指の端がそれに触れる。その瞬間にどうやら、紫萌が駆ける理由は無くなってしまったようだった。ツキがしっかりと紫萌の手を取って、強く抱き寄せたからだ。
 紫萌はツキの華奢な胸に顔を埋めて、瞬きした。
 丘に再び、一陣の風が吹く。
(白の、光が)
 紫萌の長い黒髪を、かき乱すように震う風。その中で今、白く煌々と輝いていた光が徐々に姿を変えていくのが知れた。
 強い風に目を細める。しかし紫萌は、視界にその光を捕らえ続けた。正確には、目を離すことが出来なかったのだ。その静謐な光は少しずつ丸みを帯びて膨らみ、それから唐突に、すっと首を起こしてみせた。
(大きな、――鳥)
 気づかぬうちに、感嘆の溜息が漏れる。
 もはや紫萌達の目の前に、傷つき倒れた幼い少年の姿など無かった。今そこに佇んでいるのは、大人の背丈程もある純白の、気高い一羽の鳥だけだ。
「鷏良……?」
 呼ぶと、純白の鳥が静かに、気高く、紫萌を見やる。鳥の笑顔など紫萌は見たことがなかったが、しかし彼がにこりと微笑みかけたことは確かだった。
 思わず惚けてしまった紫萌の手を、注意を呼びかけるようにツキが引いた。紫萌は驚いたがすぐに頷いて、共に鷏良のそばへ寄る。
 彼らを取り巻く風が、既に随分弱まっていた。紫萌がもう一度足元の枝を拾い上げると、ツキが苦笑したのがわかる。
「そんなもの構えなくたって、紫萌のことは――」
「あの池の時のようなことは、嫌よ。私達だけ逃がしてもらうなんて、これっぽっちも嬉しくない。ツキのことが心配で、助かった気なんて全くしなかったんだから」
 言葉を遮るようにそう言いきってから、紫萌はそろりとツキの表情をのぞき見た。こんな事を言って、怒らせてしまっただろうかと少し心配になったからだ。しかし実際のところ、ツキは怒った様子など無しにこう続けた。喧嘩腰の態度でもなく、どちらかと言えば笑んでいる。
「あれは致し方なかった。チャンスだと思ったんだから」
「チャンスって、一体何の?」
 尋ねる紫萌に直接答えず、彼は再び手を振り上げると、空に向かって何事か声を上げた。何を言ったのか紫萌には理解ができなかったが、それによって風の威力がまた強まりはじめたのがわかる。ツキの声に呼応したのだろうか。
 紫萌が戸惑っていると、優しい羽毛が腕に触れた。
 赤い瞳が話しかける。紫萌はなんとなくその意図を察して、首を横に振った。しかし。
 次の瞬間、体がふわりと浮かび上がったのを感じて、紫萌は短く悲鳴を上げた。ツキに急に手を引かれ、風の渦へと飛び立った、鷏良の背中に乗せられてしまったのだ。
 強い風に振り回されて、目を開けることもままならない。それでも必死にしがみつき、ツキの手をぎゅっと握りしめる。
「これが俺達の本当の力だよ、紫萌!」
 紫萌の様子になどお構いなしで、嬉しそうにツキが言った。
「もっと力を手にいれれば、天候だって左右できる。紫萌は知らなかったみたいだけど、あの暴走は『覚醒』の証だ。一度覚醒すると、使える力もずっと強くなるのさ」
「じゃあ……その覚醒っていうのをするために、ツキはあの時、わざと自分を追い詰めたっていうことなの?」
 紫萌は呆れてそう言ったが、ツキは尚更胸を張って、「そうさ」と明るく言ってのける。
 その為に鷏良のことまで危険に晒し、塔の人々を傷つけたのかと思うと腹がたったが、あまり文句を垂れるわけにもいかなかった。三人はあっという間に空を駆け上っており、確かに、この力があればトリオールから逃げ切ることも可能なことのように思えたからだ。
 昼間の空はきらきらとして、鷏良が力強く羽ばたく度、また大きな風が起こる。辺りに春の陽気さはなかったが、寒いとはちっとも思わなかった。紫萌は微笑んで、寄り添うように居るツキの顔を覗き込んだ。
 どうやら、この空の旅がお気に召したらしい。目がきらきらと輝いて、丘のあちこちを楽しそうに見下ろしている。
(雨が降っているのにも気づかないほど、屋敷に籠もりきっていたときとは全然違う)
――白い髪、白い肌、血の色が浮き出た赤い瞳。自然環境に弱く、地形に恵まれたこの全知の塔より出る事もままならない。
 沈んだ顔で、オルビタは紫萌にそう告げた。
――仲間が見つかったら、一番に紫萌に教えるよ。だから。
 どうやら少しずつ、鷏良も飛ぶことに慣れてきたようだった。いくらか風の抵抗力が減ってきたのを感じて、紫萌は勢いよく顔を上げる。それから有無を言わさぬ笑顔で唐突に、「三人で行きましょう」と言った。
「行くって、一体どこへ」
 怪訝そうな顔でツキが言う。紫萌はそっと、胸元にしまったあの少年の笛へ手を触れた。
「私と、ツキと鷏良。三人で行くのよ。三人で私達の仲間を捜しましょう。私達、人にはない力を持っているんだもの。きっと協力したらなんだってできるわ。ツキの……アルビノ、だったかしら。塔の人の体質だって、それでどうにかなる気がするの」
「大雑把だな」
「そうかしら。でも、そんな風に思わない?」
 いっぱいに目を見開けば、まるで世界の何もかもが視界に入ってくるようだった。それほどまでにこの場所は高く広々として、清々しい。そんな中でツキを見やると、彼の頬がまた、いくらか赤く染まったのがわかった。
(……。近いからかしら?)
 紫萌がもぞもぞと動いて体を離すと、ツキは見るからに苦い顔をして、深い溜息をつく。紫萌は首を傾げたが、なんだか楽しくなって、にこりと笑った。
 小難しい駆け引きなんて要らない。このまま三人で進んでいけたらいい。
(環黎様が私に、詳しい話をしてくださらなかったのは)
 もしかするとこうなることを、事前に予期していたのではないだろうか。紫萌はツキと友達になった。二人はこれからもずっと、藍天梁であるとか、全知の塔であるとか、そんなものは関係無しに、互いを助け合っていくことが出来るだろう。
 満点の答ではないかも知れない。けれど。
 約束をしましょう。と、あの人は言った。従うのではなく、崇めるのでもなく、ただ信じなさいとあの人は言った。
「約束をしましょう」
 紫萌がそう言って小指をたてると、ツキは不思議そうにその手を見て尋ねてくる。
「約束?」
「そう。藍天梁ではね、約束をするとき、指切りというものをするのよ。小指をたてて、絡ませて」
「約束の内容は?」
「何でも良いわ。何が良い?」
「……なんだ、それ」
「だって、約束することに意味があると思うんだもの。――じゃあ、こうしましょう。私達三人とも、これからお互いを助け合っていくこと。鷏良も、それで良い?」
 直接答える声はなかったが、鷏良が大きく羽ばたいたのを見て、紫萌は満足げに頷いた。ツキにもどうやら、異存はないらしい。紫萌はツキと指を結んだ反対側の手で鷏良の背に触り、歌うように軽やかに言う。
「嘘ついたら針千本のーます」
 鷏良の背に目配せし、それからツキへと視線を向ける。
 なんとなく、舌が空回った。つい先程までは普通に話していたのに、何故なのだろう。紫萌は少し手の力を強めて、無理に笑った。あと一言言うだけなのに。その一言が、上手く口から出てこない。
「紫萌――?」
 怪訝そうにツキが尋ねてくる。直後、二人の表情に戦慄が走った。
 その場所に降りたのは、銀色の霜だった。
 正確には一つの人影が、まるで空に浮かぶ見えない地面があるかのように、三人の前へ立ちふさがったのだ。人形のように精巧な造りの顔、非の打ち所の無い優雅な動作。けれどその銀色は霜のように確実に周囲の音を奪い去り、場に静寂と寒気をもたらしていく。
(トリオール……!)

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