吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

022 : 華と月 -3-

「ツキ?」
 呟くように、問い返す声。紫萌はうん、と頷いた。
 あの時は――以前紫萌自身が力を暴走させ、心を失った時には、夜空にぽっかりと穴を空けたような月の光だけが、唯一の救いにさえ思えた。そんな事を思い出しながら、紫萌はもう一度語りかける。
「そう、ツキよ。あなたの新しい名前は、ツキ」
 少しずつ、純白の獅子が駆ける速度をゆるめていく。速度をゆるめるのと同時に、だんだんと地上が近くなった。まずは雲の下へ。その後は鳥達の隣を駆けて、やがて二人は見覚えのある丘へと降り立っていた。
 とん、と地を踏む軽い音。それと同時に暗闇が晴れて、辺りが急に昼になる。
 獅子が足を止めるか否かのところで、紫萌はその背を飛び降りた。それから身軽に回り込み、獅子の頭部を抱き締める。獅子がそれを拒絶しなかったのをいいことに、紫萌は好き勝手にその毛を撫でた。
 一度腕の力をゆるめると、純白の毛並みに包まれた、赤い瞳と目があった。先程とは打って変わって落ち着いた、優しさのある彼の瞳だ。
 照れ臭そうに獅子が笑う。紫萌がもう一度その毛並みに顔をうずめるように抱き締めると、ふと、腕の中のものが形を変えた。見れば、頬を赤く染めたノクスデリアスが――否、ツキがじっと紫萌のことを見ている。
「紫萌。――ち、近い」
 ぐぐっと腕で引き離されて、紫萌は一瞬きょとんとした。しかし赤く染まったツキの頬を見ると、なんだか愉快な気分になってきて、思わず笑い出してしまう。隣でツキが心底嫌そうな顔をしたのがわかったが、紫萌は笑うのをやめなかった。ツキが体に巻き付いた残りのロープを引きはがしているのを見ながら、明るい声できゃらきゃらと笑う。
「ツキ! あなた、顔が真っ赤よ!」
「だ、誰のせいだと思ってるのさ! そんなに笑い転げることでもないだろう。大体、紫萌はもっと淑女としての慎みを持つべきだ」
 言われて何とか笑い止み、紫萌はすっかりボロボロになったスカートを摘んで左足を右足の後ろに添え、全知の塔の女性のように、膝を曲げて微笑んでみせた。それでもなんだか笑いがこらえきれずに、思わず吹き出してしまう。そうしているうちにツキは尚更嫌そうな顔をして、ぷいとそっぽを向き、どこかへ向かって歩いていってしまった。
 紫萌は慌ててその後を追い、そっと右手で彼の手を取る。
 手を繋いで、丘を歩く。ツキは紫萌を振り返りこそしなかったが、その手を振り払うこともしなかった。
「この丘、多分私が鷏良と別れた場所と同じだと思うの。精霊達の雰囲気に、覚えがあるから――。きっと、歩けばすぐに見つかるはずよ」
「……『シンラ』って、例のあいつのこと?」
「そう。あのね、元々は紫萌の弟の名前――なのだけど」
 紫萌が言うと、ツキはすっかり黙ってしまった。紫萌がそっと顔を覗き込むようにすると、今度はゆるゆると足を止める。
 不安に思った紫萌が、眉根を寄せる。一方でツキは空いている自分の右手をじっと見つめて、それからぐっと、拳を握った。
 その手にはところどころに、既に乾いて茶色くなった血がこびりついている。
「あっ、あの……そういえば私、この丘で、不思議なおばあさんと会って」
 慌ててそう言った紫萌を押しとどめるように、ツキが小さく、首を横に振る。
 ちく、と心が痛んだ気がした。けれど紫萌は中途半端に微笑んだまま、ただ素直に口を閉じる。
 手は放さなかった。ツキがぎゅっと、今まで紫萌がしていたよりも強く、紫萌の手を握りしめていたからだ。
「大丈夫。自分のしたこと、覚えてるから」
「ツキ、あの」
「紫萌。あの獅子の姿で、どうして俺のことがわかったんだ?」
 まっすぐに正面から目があって、紫萌は思わず瞬いた。
 逆光でツキの表情を覆い隠した、太陽がまぶしかったのだ。それに。
(――男の子って、なんだかずるい)
 紫萌が俯いて頬を膨らませると、ツキは些か驚いた様子だった。紫萌を怒らせたようだとでも思ったのだろうか。不意にくしゃくしゃと、屋敷であの鏡から脱出したときのように頭を撫でられて、紫萌は尚更むっとした。
 顔を上げ、相手の目をじっと見る。それから紫萌は、面食らった様子で視線を泳がせるツキに向かってこう言った。
「私も、あなたと同じように力を暴走させてしまったことがあるの。獅子ではなかったけれど、その時の私はどこか普段いるのとは別の世界で、何かの獣になっていたわ。――その時のことはあまり覚えていないけど、環黎様にお話ししたら、それは『狭間の姿』なんだって仰っていた」
「狭間の姿?」
「ええ、そう。狭間の姿、闇の淵……それから禍人の姿、とも」
 
 それから二人は鷏良を見つけ出すまでの間、短い身の上話をした。実際に二人が降り立ったところから鷏良のいる川辺まではそう距離もなく、精霊に道を尋ねながら歩いた為に大して時間はかからなかったのだが、それは紫萌が全知の塔を訪れてから最も、互いに本心から相手のことを知ろうという意志のある会話だった。
「貧しい村だったから、親が子供を売るなんていうこと、そんなには珍しくもなかったの。だけど私、怖くなって」
「紫萌が力を暴走させたのは、その時か」
「そう。細かいことはあまり覚えていないけど……。だけどその頃ね、私には精霊の声が聞こえているらしいっていう噂話を聞きつけた環黎様が、偶然私のことを探してくれていたの。私は精霊の事を人にはあまり言っていなかったから、それは周りの人達が面白半分に言いたてていただけの噂話だったんだけど。火のないところに煙は立たないと言うし、私が一度、環黎様の前で先詠みをしたのを思い出して、確信したのだって仰っていたわ。その頃から環黎様はオルビタ様の事をご存じだったはずだから、ツキみたいな力を持った子供を探していたのかもしれない。それで、暴走した私を――」
「都合よく、助けに来たわけだ。しかも紫萌は、『細かいことは覚えてない』」
 言葉に以前ほどのトゲはなかったが、言い方はやはりつっけんどんだ。紫萌は口の先をとがらせたが、すぐに諦めじみた溜息をついた。
「環黎様のことが嫌いなのは、相変わらずなのね」
「別に嫌っちゃいないさ。信用ならないと思っているだけで」
「似たようなものじゃない」
「ちょっと違う」
「そう? ……私はどっちも嫌だけど」
 ツキが一度足を止めて、周囲の精霊達に道を尋ねた。紫萌はその様子を見ながら、そっと、空いている方の手で袖の端を握る。
 精霊達の声が、以前より少し遠のいた。
――私の力を、あなたにあげる。
 そう口にしたときから、理解はしていたことだ。
(けど、全く聞こえなくなったわけじゃないもの)
 紫萌はツキには見えないよう少しだけ俯いて、それから人知れず、大きく息を吸い込んだ。そうすると、ふと、風に乗って誰かの声が聞こえてくる。
 鷏良かとも思ったが、どうやらそうではないようだ。紫萌はツキの手を放すと、胸元にしまっていた笛を取り出し、握りしめた。この丘で、羊飼いの少年から借りた笛。もしかすると今の声は、あの少年のものだろうか。紫萌は笛を片手に持って、ツキを振り返る。
「ツキ。私この丘で、一人の男の子に会ったの。あなたと同じくらいの年格好をしていて、赤い髪の、羊飼いだった。もしかしたらあの子も――」
 言いかけて、紫萌は口を閉ざした。ツキが真剣な面持ちをして丘の向こうへ視線をやり、紫萌の口元に人差し指を突き立てたからだ。
「黙って。精霊も呼んじゃ駄目だ。見つかったかもしれない」
「見つかったって、一体誰に」
 笛を持った紫萌の手に、ツキがそっと、自分の手を寄せた。紫萌は笛をしまい直してその手を取ると、注意深く辺りを見回す。
 先程までと変わりない、長閑で静かな丘の上。紫萌がぎゅっと手を握ると、耳元でツキが、小さく言った。
「トリオールだ」
 瞬時に、背筋が凍る思いがした。
 ツキが手を引いたのを見て、紫萌も足早に歩き出す。しばらく無言で歩いてから、どちらともなく話し始めた。
「どうして、あの人まで? ここはあの鏡の中と同じ、普通とは違う世界なんでしょう? 私、てっきり私達のような力を持った人しか来られないのだと思ってた」
「いや、本当はそのはずなんだけど――。俺にも、あいつのことはよくわからないんだ。わかっているのは三つだけ。ふらりと塔へやってきて、そのままもう何年も住み着いていること。たまに塔を抜け出して、長い間留守にすること。それから……俺の力について、やけに詳しいっていうこと。シンラ達を造る方法も、あいつがオルビタに教えたらしい」
 紫萌が息を呑んだ横で、ツキはがさがさと音を立てながら、茂みをかき分け進んでいく。紫萌はそれに続きながら辺りを見回して、そこがどうやら、鷏良と別れたあの川岸に近い場所であるらしいと気づいた。こんなところに茂みなどあっただろうか。そう思いはしたが、進むにつれ、その答も知れてきた。
 茂みの中心に、一本の木が生えている。そうしてその根元に護られるようにして、一人の少年が俯せに横たわっていた。
「暴走が解けて、無意識に精霊を呼んだわけか……。おかげで、生態系が狂ってる」
「――鷏良!」
 辺りを見回しながら冷静に呟くツキを尻目に、慌てて駆け寄り膝をつく。しかし手を伸ばそうとしたところで、紫萌はびくりと体を震わせた。
 背を上下させ、苦しそうに息をする小さな体。汚れた細い白髪も、紫萌が手当てした背中も別れたときのままだが、一つ大きく違っていることがある。鷏良の体が全体的に、うっすらと光に透けていたのだ。
 血で染まった地面が、体を透かしてよく見える。恐々その肩に触れようとしてみたが、予想通り、まるで雲を掴んだかのようにすり抜けてしまった。
「ど、どうして……」
「俺の能力で造られた、人間のまがい物だもの。多分生命力が薄れて、精霊に近い存在になっているんだ。これだけの出血でも死ななかったのは、例の魂の連結ってやつが関係してるのかな」
「ツキ、どうにかならないの?」
 すがるように見上げると、ツキは小首を傾げて肩をすくめてみせる。「さあねえ」とまるで他人事かのように言った言葉を聞いて、紫萌は呆れて言葉を飲み込み、猛然と立ち上がった。
「そんなふうに適当なことを言わないで! 鷏良はあなたの力で創られたのよ。あなたの子供みたいなものじゃない!」
 なのに、どうしてこんな風に落ち着いていられるのだろう。紫萌が袖の端を握りしめてそう言うと、ツキは一瞬きょとんとして、それから心底迷惑そうに眉根を寄せてみせる。「理不尽な」と呟いた表情には、苛立ちすら見受けられた。
「十二歳で子持ちなんて冗談じゃない。そういうおままごとは、二人で勝手にやっててよ」
「お、おままごとなんかじゃないわ! そうじゃなくて、鷏良にはお父さんもお母さんもいないし、私……」
「それを言うなら、俺だって親なんかいないけどね」
 何でもないかのようにそう言われて、紫萌は思わず言葉を切った。
 今のは一体、どういう意味だろう。しかし紫萌が問い返すよりも前に、ツキは顔を背けて鷏良の足下へ座り込んでしまう。その上だめ押しだとでもいうように、「あんまり騒ぐとトリオールに見つかる」と言うなり難しい顔をして、何事かをぶつぶつ呟き始めた。
 隣に座り込んで聞き耳をたててみても、何を呟いているのやら、紫萌にはかけらも理解できない。途中で『精霊騎士の法則』だの『魂の連結』だの、オルビタがこぼした言葉が含まれていたことだけは辛うじて聞き取れたが、それだけだ。
 ツキがじっと何かを考え込んで、時たま地面に文字を綴る。紫萌は何度か声をかけようとして、やめた。今のツキの耳には、紫萌が何かを言ったところでその言葉が届くとは思えない。
(トリオールが、今にも私達を見つけるかも知れないのに)
 あまりの奔放さに、紫萌は一度溜息をつく。どうにかして鷏良を運ぶ術を考えて、今すぐどこかへ逃げた方が良いのではないか。しかし紫萌がそう口にするより前に、ツキがぱっと顔を上げた。
「紫萌。紫萌の国では、人の名前に意味を持った字を使うんだったね」
 突然そう問われて、紫萌は慌てて頷いた。驚いて、一瞬何を聞かれたのだかわからなかった程だ。しかし紫萌は問われた言葉を脳裏で反芻して、それから言った。
「そうよ。例えば鷏良は……シンの字はまことの鳥、ラは良いという字を書くの」
「まことの鳥……。よし、それで行こう」
「それで、って、一体何をするつもりなの?」
 紫萌が問うと、ツキはただにやりと笑って立ち上がった。自信のありそうなことはわかったが、何をする気かさっぱりだ。その上彼がこんな事を言うので、紫萌は遂に困り果ててしまった。
「紫萌がお母さん役なら、そのおままごと、付き合っても良いよ」
「どういうこと?」
「……わからないなら、それでもいいや。ともかく、ちょっと離れて」
 立ち上がると、今度は離れすぎないように釘を刺された。「何故」と問うと、短い答が返ってくる。
「精霊の気配を嗅ぎつけて、あいつが来るかも知れないから」

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