吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

021 : 華と月 -2-

 約束をしましょう。と、あの人が言った。
 紫萌が藍天梁の宮殿で、初めて目を開けたときのことだ。どうして自分がここにいるのか、あの力が一体なんだったのか、聞きたいことはいくらもあった。
 けれど全ては、あの人の微笑みに霞んでしまった。残ったのはただ、暖かな安心それだけだ。
「私がおまえを――紫萌のことを守り、導きましょう。その代わり、おまえは私を信じなさい。従うのではなく、崇めるのでもなく、ただ、私を信じなさい」
 薄絹のカーテンが、窓辺で柔らかく揺れていた。美しい部屋。しかしそれまでには見たこともなかった煌びやかな細工のなされた天井も、柔らかで軽い掛け布団も、更には手当をされた自分自身の傷さえも、その時の紫萌には空虚なものに思われた。
「約束します。――天女様」
 欲していたのは、この安心だけだった。
 長く望んでいたものは、誰かの理解だけだった。
 
 血なまぐさいこの廊下に、ずる、ずる、と何かを引きずる重い音。それが一体なんの音であるのかは、案外すぐに知ることができた。曲がり角からゆっくりと、足を引きずるようにして現れた、一つの影があったからだ。
「一晩のうちに、何が……」
 そう言って顔を背けたセーマの隣で、紫萌はぎゅっと袖を握りしめる。目の前に対峙したその人物は、紫萌になどまるで気づいていないかのように、ただじりじりと歩んでいた。
 うつろなその瞳には、恐らく何も映っていないのだろう。
 血の気の失せた、青白い顔。衣服は乱れ、その体には幾重にもロープが巻き付けられている。拘束されていたのだろう。中途半端に千切られたロープの先に、生々しい人間の腕が絡まっていた。紫萌は湧き上がる吐き気を懸命に押さえ込んで、もう一度呼ぶ。
「ノクス。――ノクスデリアス」
 弾かれたように、血で汚れた白髪の少年がぴくりと肩を震わせる。髪の間から覗く瞳が怯えるように見開かれたかと思うと、今度は一歩、また一歩と逃れるように後退し始めた。
「待って!」
 紫萌が追うと、彼も背を向け歩む速度を上げる。体中を縛り付けるロープが邪魔なのだろう、けっして追いつけない速度ではないのだが、紫萌もぬめりに足を取られて尻餅をついた。
(――血溜まり)
 差し出されたセーマの手を取り、立ち上がる。紫萌は曲がり角まで一息に駆けて、思わずそこで立ちすくんだ。
 廊下の両側に蹲る、人、人、人の影。ある者は昏倒し、ある者は血を流しながら低く呻き、壁にもたれかかっている。それは廊下の中程にある大きな扉まで、血の道を作るかのように続いていた。
 そんな中をよたよたと、ノクスデリアスが歩いていく。
 ぞっとした。
 見渡す限りの負傷者達。片側が外に向かって大きく開かれている廊下には、それでも強く血の臭いが充満していた。うめき声。それに、すすり泣く声。一方ではそれらから逃れるようにして、精霊達が遠くどこかへ去っていく。
 空間の何かが歪んでいた。そして、その中心には――他でもない、彼が立っている。
「紫萌殿。これをまさか……ノクスデリアス殿が?」
 ぞっとしない様子で呟いたセーマを見上げ、紫萌は思いを言葉に出来ないまま、ただ恐々と口を動かす。こんな所で立ち止まっている場合ではないのに。そうは思うが、足が竦んで動けない。
 この惨状を作り出したのが、ノクスデリアスだというのなら。
(私……自分が暴走したときのことは、あまり覚えてないけれど)
 あの時も、こうだったのだろうか。
 皆無事だったかと問うた幼い紫萌に、環黎は笑んで「心配することはない、大丈夫だから」と言って聞かせた。けれど紫萌が自分自身の目でそれを確かめたわけではない。もしも、もしあの時も、こんな惨憺とした事態を引き起こしていたのだとしたら。
 嫌な汗が背中を伝った。足に力が入らない。しかし。
「姫君、このままだと逃げられるよ」
 変わらぬ口調でネロがそう言ったのを聞いて、紫萌ははっとした。見るとノクスデリアスは廊下の端までたどり着き、その向こうへ更に続く階段へ姿を消したところだった。紫萌は数歩追いかけて、機敏に二人へ振り返る。
「セーマとネロは、ここで怪我をした人達の手助けをして。ノクスは私が追いかけるわ」
 言うと、セーマが表情を曇らせるのがわかった。
「一人で行かれるおつもりですか」
「何人もで追いかけたら、きっと怖がらせてしまうもの。必ず戻ってくるわ。だから、この人達をお願い」
 恐らく二人がついてきてくれたところで、怪我人を増やす結果にしかならないはずだ。紫萌にはそれがわかっていた。紫萌達の持つ力の前には、腕っ節の強さなど意味を持たないのだから。
 セーマとネロとを交互に見ると、まずはネロが、すんなり頷いた。
「わかった。ここで救命活動にいそしむことにする。事態が飲み込めなさすぎて、ついて行っても役には立てなさそうだ」
「ありがとう。……セーマも」
 セーマは少しの間了承できずにいたようだったが、結局はネロになだめられる形になった。紫萌は心の中で二人に礼を言いながら、颯爽と廊下を駆け抜ける。廊下の途中にある扉の向こうを一瞬覗き見たが、すぐに視線をそらして先を急いだ。
 先を行くノクスデリアスを追い、再び階段を駆け登る。上からはずるずると体を引きずる音がするし、ところどころにロープの切れ端が落ちている。見失うわけがなかった。
「ノクス!」
 叫んでも、相手が歩みを止める気配はない。そうしているうちに階段が終わり、再び長い廊下に出た。紫萌は駆け寄ろうとして、大きくたたらを踏む。
 体中を締め付けるロープから逃れようとしているのだろう、体をよじり、小さく呻きながら歩く少年の姿がある。
 先程とは、少し違う。
 今、ノクスデリアスの周りには昏い、鬱屈とした影が見えていた。
(あの時と、同じ影)
 思い出して、ぞっとする。以前オルビタと話をした時にも見たあの影が、ノクスデリアスを濃く取り囲んでいたのだ。
「だ、誰か――!」
 怯えきった叫び声。見るとノクスデリアスの向こう側に、立ち竦んだ二人の給仕の姿があった。その叫び声に驚いたのだろうか。ノクスデリアスが立ち止まり、腕を静かに持ち上げる。
 紫萌は思わず息をのんだ。
「駄目よ、ノクス――!」
 駆ける。前へ進んだ自覚など、これっぽっちもありはしない。紫萌はただノクスデリアスに駆け寄って、彼の背中へ渾身の力で飛びついた。
 どくん、と脈打つ静かな音。あの不思議な丘で聞いたのと同じ音だ。紫萌を振り払おうと、ノクスデリアスが大きく傾いだのがわかった。それでも手を、放さない。
「駄目だったら! お願い、聞いて……あなた達、はやく行って!」
 給仕達が大慌てで背を向け、足を縺れさせながらも逃げていくのが視界の隅に映る。
 しかしその為に、些か気が緩んだのだろうか。
 次の瞬間、紫萌は床へ激しく打ち付けられていた。突き飛ばされたのだ。慌てて視線を上げると、あのうつろな瞳がまっすぐに紫萌を見下ろしている。その後ろに得体の知れない、大きな、昏い影を侍らせて。
「ノクス」
 口の中で、言葉が空回った。ノクスデリアスの手が動く。それから。
 その手が振り下ろされるのを見て、紫萌はぐっと奥歯を噛みしめる。
(ああ、駄目)
 あの丘で、鷏良を前にした時と同じだ。
(どうしてこんなに――無力なの)
 まるで鋭利な刃物を振るったかのように、空を切る音がする。精霊達の叫び声が聞こえたように思ったが、定かではない。
 瞬間、真っ赤な瞳と視線があった。泣き腫らしたかのようにも見える、塔の人間らしい血の色の瞳――。
「紫萌」
 呟くような、声が聞こえた。
 紫萌は両手をそっと開いて、そこに立った独りの少年を、力いっぱい抱き締める。
 
 体がふわりと浮く感触を、紫萌は当たり前に受け止めた。
(ああ、そうよ。鷏良を迎えにいかなきゃならないんだもの)
 独りごちる。ふわふわとした、実体の無い夢じみた場所だった。紫萌は今、そこへ俯せになって倒れている。
 白くそよぐ何かが、紫萌の頬を優しく撫でた。ここはどこだろう。風が吹いている。周りの星々があっと言う間に過ぎていくから、馬車にでも乗っているのだろうか――。
 そんな事をぼうっと考えてから、紫萌は跳び起きた。それから辺りを見回して、一瞬前まで予想もしていなかった事態に目を丸くする。
 紫萌は今、何かに乗って闇の中を駆けていた。
 見回しても、辺りに地面は見当たらない。ただこの暗闇の中には、時たまちらちらと輝くものがあった。しかし夜空だろうかと目をこらしてみても、見慣れた星座は見えてこない。
 紫萌を運んでいるのは、純白の毛並みをした一頭の獅子だった。
 真っ白なたてがみが、風に煽られきらきらと輝いている。しかしその雄大な姿とは裏腹に、獅子の動作に余裕はない。
 死にものぐるいだ。何かから、必死になって逃げている。
 畏れ、悲しみ、生への渇望。
「やめて」
 獅子からの、答えなどない。
 どくん、どくんと鼓動の音。しかしそれは今や弱り切っており、今こうして駆けている間にも、少しずつ命が削られているのだとわかる。
「やめて。このままじゃ……このままじゃ、死んでしまう」
 涙が溢れる。ふと、紫萌の脳裏を言葉が過ぎった。
――紫萌になんか、わかってもらえなくたっていいさ!
 獅子の足が縺れて、その体躯が大きく揺れた。紫萌は必死でしがみつき、どうにか体勢を立て直す。今のでどこか傷めたのだろうか。獅子は足を引きずるようにして、しかし、それでも歩みを止めはしない。
――ああ、そうだよ。馬鹿だよ、俺は。同じ力を持ってるだけで、紫萌のことを仲間だなんて思っていた俺が馬鹿だった。
「そうじゃない。あなたも同じ力を持っているんだって知ったとき、私だって本当に嬉しかった」
 どんなに言っても、もう、届かないのだろうか。
 この闇の中で果てていくのを、黙って見ているより他にないのだろうか。
(そんなのは嫌。そんなこと絶対に、絶対に)
 その時紫萌は、ふと気づいた。ここは闇の中だというのに、獅子の毛の一房一房が、紫萌の目にははっきり見える。
(暗闇の中で、私達を照らすもの……)
 なんだ、けっして難しいことではなかったのだ。
 紫萌はもう一度、ひたすらに駆ける獅子の背中へしがみついた。
「私、あなたを助けたい」
 毛並みに顔を埋め、呟く。
「私に出来ることがわかったの。私の力を、あなたにあげる。その証として、私はあなたに名前を贈るわ」
 獅子の背中は温かかった。だから、何も怖くない。紫萌はそっと目を閉じて、夢の中へ語りかけるかのように優しく、強く、こう言った。
「ツキ。暗闇の中でも沢山の星に囲まれて、静かに辺りを照らし出す、月の名前をもらいましょう」

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