吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

020 : 華と月 -1-

 かつん、かつんと足音がやけに響く。勿体ぶるようなその歩き方に、紫萌は口をへの字に曲げた。
「助けに来たよ、姫君」
 鉄格子の向こうへ、一人の男が立っている。
 あえて最後の「姫君」を強調するように言ったのは、金色の髪の少年だった。昨日会った時とは打って変わったラフな格好をして、右手に灯りのついた蝋燭を掲げている。見たところ剣を下げているわけでもなければ、昨日のように顔を隠す様子もない。
 紫萌はぼろぼろになった自分の服を見下ろして、それからネロを見、開きかけた口を閉ざした。どこにでもいるような少年の姿に、すっかり毒気を抜かれてしまったのだ。
(あんなことを言っておいて、どうして壊れた笛を渡すのよって怒るつもりだったのに)
 にやりと笑ったその顔には、緊張感のかけらもない。それが紫萌を戸惑わせた。紫萌だってつい昨日までは、慣れない土地に戸惑いながらも平穏な日々をおくっていたはずだったのに。そんな事を思うと、張り詰めていた心が不意に緩んでしまったのだ。
「紫萌殿、彼は――?」
 怪訝そうなセーマの問いを聞いて、紫萌は手の甲で目許を拭った。そうだ。まだ気を抜いてはいけない。紫萌には、やるべきことがあるのだから。
「ネロよ。私も詳しいことは知らないのだけど、少なくとも敵ではないわ」
「ですが、敵ではないから味方とは」
 ネロの外見は、明らかに塔の人間とは異なっている。セーマがその事を気にしているのはすぐにわかったが、紫萌はあえて、無防備に鉄格子の方へと歩み寄ってみせた。味方の少ない今、セーマにもネロにも、互いに不信感を抱いたままで居てほしくはない。
「紫萌殿」
「大丈夫だよ。ええと、セーマだっけ? 俺はあんた達に害を与える気なんてない。勿論、そっちが切りかかって来なければの話だけど。――それより姫君、その血」
 近づくにつれ、紫萌の服にこびりついた赤がよく見えるようになったのだろう。ネロが眉根を寄せて、言った。
「もしかして、怪我を? いや、その割には随分顔色が良いみたいだけど」
「あなたがちっとも来てくれないから、その間に色々あったの」
 短く言い切ってその話を終わらせると、両手で鉄格子を強く掴む。錆び付いたそれは柔らかな掌を浅く引っ掻いたが、紫萌はただ真っすぐにネロを見て、言った。
「それよりネロ。私、今すぐにノクスの所へいかなきゃならないの。どうか、私たちに力を貸して」
 ネロは一瞬驚いたように目を瞬いたが、すぐににやりと笑みを浮かべた。それからすっと右手を差し出して、紫萌の視線の高さで、そこに掴んでいた物を取り出してみせる。
「おやすいご用だ」
 それは鉄色の、いびつな形の鍵だった。
 
「どうして、すぐに呼ばなかったのさ」
 平然とそう言ってのけたネロに、紫萌は思わず呆れてしまった。地下牢を抜け出す間のことである。
 セーマの捕らえられていた牢は地上から随分深く掘り進められた場所にあり、地上へ続く階段は粗造りで一段ずつに高さがあった。紫萌はステップを踏むように半ば飛び上がりながらそれを登っていたが、それを聞いて一度、足を止める。
「私、呼んだわ。笛が壊れていたのよ」
「壊れてないよ。姫君がオルビタの屋敷の地下から呼んだ時は、確かに聞こえたから。俺が行った時は、既にもぬけの殻だったけど」
 紫萌がきょとんとして、それでも再び段を登り始めると、ネロは何かに思い当たったように渋い顔をした。
「そうか。……言ってなかった、か」
「何を?」
 窓のないこの通路には、両サイドへ蝋燭の灯りが点してある。しかしそれも大した数があるわけでなく、辺りは常に薄暗がりだ。ただしそれでも、自ら手に灯りを持ったネロの表情はありありと見受けられた。
 歩く度、炎が揺らめく。その炎を見下ろしながら、ネロが些か申し訳なさそうに溜息をついた。
「犬笛、って知ってる? 人には聞き取れない、特殊な音を出す笛のことなんだけど。その笛がそうなんだ。ほら、敵の本陣で普通の笛なんて吹いたら、俺はこっそり助けに行けなくなるだろ?」
 言われて紫萌は、ふと思い出す。
――不思議な音がするね。
 あの時鷏良には、音が聞こえていたのだろうか。真偽の程は本人に直接尋ねてみなくてはわからないが、ともかく紫萌は二の句が継げずに、その後は黙ったまま階段を登り続ける形になった。
 まさか、しっかりと音が届いていたなんて。もし始めから笛の性質のことを知っていたとしても、あの時はすぐにセーマがやってきた。結局のところ現状にそれ程違いが出たとは思えなかったが、なんだか知らずにあたふたしていた自分のことが、不甲斐なくて仕方ない。紫萌はやりきれない思いで短く溜息をつき、差し伸べられたネロの手を取った。ネロに対して怒っていたわけではなかったのだが、彼の側はどうやらそう解釈したらしい。ネロの態度は、先程より格段に優しくなっていた。
 薄暗がりの中での沈黙に耐えきれなかったのだろうか、その後でネロはこんな話もした。
 彼は元々地下牢へ捕らわれたというセーマを訪ね、紫萌の安否を問うつもりだったのだそうだ。どうも町では、昨晩屋敷で謀反があり、紫萌が誘拐されたまま行方不明だという話が出回っているらしい。しかしネロは紫萌失踪の現場に居合わせた兵士達の会話を漏れ聞いて、何か裏がありそうだと判断したのだという。
「なのに行方不明だって騒がれてる姫君まで、一緒に地下牢にいるんだから。さすがに少し驚いた」
 ネロは恐らくオルビタ達が紫萌をあの牢へ閉じこめ、町に偽りの噂話を吹聴したのだと考えているのだろう。そうとはすぐにわかったが、紫萌があの場に居合わせた経緯を説明するのは些か骨が折れる。セーマもその件について、ネロのいる前で掘り下げる様子はないようだったので、紫萌は何も言わなかった。
 何も言わずにただ、胸元へしまったあの少年の笛へ手をやる。ネロはこの笛の音を聞いて駆けつけてくれたのだろうと思っていたが、それはどうやら違ったようだ。
(ううん、違うわけではないかもしれない)
 まるで偶然かのように、あの笛がネロに引き会わせてくれた。何故か紫萌には、そう思えてならなかった。
 階段を登り切ると、そこは見慣れた造りの廊下であった。どうやらオルビタの屋敷のどこかに出たようだ。紫萌は警戒して左右を見回したが、辺りに人の気配はない。地下牢にはいくらか兵士がいたのに、これだけ人気がないのは些か妙である。もっとも地下牢の兵士だって、皆ネロに何かをされたのか、蹲って眠っていただけだったけれど。
 人気がないのを奇妙に思ったのは、どうやら紫萌だけではないようだ。右腕に包帯を巻き、兵士から奪った剣を腰に帯びたセーマも、辺りを見回し顔をしかめる。
「普段はこの辺りにも、見回りの兵がいるはず……。ネロ殿、何かご存じか」
「いや。さっきここを通った時も、こんなものだった。実は更に奇妙なことに、この先にも全く警備兵の姿がないんだ。普段なら確か、ここにも兵が二人は配置されてるはずだよな?」
「――よく、ご存じですね」
「おっと、警戒しないでくれよ。念のためにちょっと、調べてあっただけなんだって」
 おどけた調子でネロは言ったが、対するセーマの表情は硬い。紫萌は些か肩をすくめ、視線を上げて、驚いた。
 精霊達がふらふらと、力なく辺りを彷徨っている。
 精霊達には、病も怪我も無縁のはずだ。それなのに彼らはぐったりとして、気配自体が覚束ない。紫萌は彼らを追うように、一人廊下を駆け出した。
「紫萌殿! 兵の姿がないとはいえ、無闇に動くのは……!」
「セーマ、傷が痛むようだったらあなたは後から来て! 私、急いで行かなくちゃ」
 紫萌が顔だけを向けてそう言うと、思わず、といった感じでセーマが言葉をのんだ。そんな様子を尻目にネロが追ってきたのを見て、紫萌は再び前を向き、人気のない廊下を走っていく。突き当たりまでは精霊達を追うように。そうしてその先は、精霊達がやってきた方角へと道を辿って。
「姫君、一体どこへ」
「上よ」
「まだ登り足りないのか?」
 追いついてきたネロが、呆れた様子でそうこぼす。紫萌は頷くと、階段を登って一つ上の階を目指した。地下牢の階段と違い、こちらの段は登りやすい。しかし登り切るか否かというところで聞こえてきた悲鳴に、一瞬身をすくませる。
「今の声は、一体――」
 腕を抱えて駆けてきたセーマが、警戒して紫萌の前へ立つ。紫萌は悲鳴の聞こえた方を向いて、そこに、曲がり角から這うように逃げてくる一人の兵士の姿を見た。
 顔面蒼白、制服には血がにじんでいる。恰幅のいい男だが、今の彼には威厳も何もあったものではない。男はたった今這ってきた方向へ顔を向けると、口内で短い悲鳴を上げた。
 ざわり、と空気が歪んだのがわかる。風ではない。だが強大な何かが、紫萌の頬を掠めていく。
 セーマとネロの間を通り、静かに前へと進み出る。
 警戒心はない。紫萌には、曲がり角の向こうに在るものが一体なんであるのかわかっていた。
 否。そこに誰がいるのか、とうに承知していた。
「怖がらないで。大丈夫、私よ。わかる?」
 歩み寄る。ネロが止めるのを、無言で制した。曲がり角の方から、何かを引きずる鈍い音がする。
「大丈夫。私の声が聞こえる? 答えて――ノクス」

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