吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

019 : 朱の境界線 -3-

 止血薬を塗って包帯を巻き、しばらくすると、出血は和らいだようだった。鷏良は相変わらずの青い顔をしてぐったりと横たわっており、傷口に熱をもってはいたが、先程よりは呼吸も安定してきたように思う。
(ノクスも、同じように回復していると良いけれど)
 そんなことを思いながら、紫萌は川の水を手ですくい、それをいくらか飲みこんだ。冷たい水は紫萌の喉を潤わせ、すっと体内へ落ちていく。見上げた空は青く澄み渡っており、つくづく、ここが全知の塔とは遠く離れた場所であるのだということを実感してしまった。
 全知の塔では、こんな綺麗な青空を見ることなどできなかった。
(……。日が落ちるまでには、全知の塔へ戻りたい)
 すっかりしわくちゃになってしまった服の袖で口元を拭うと、紫萌はじっと、川に映った自分の顔を睨み付けた。川の流れはそれ程激しくないのだが、絶えず動く水面は静まる様子もない。紫萌はゆらゆらとうつろう己の姿を見て、小さく溜息をつく。
(これじゃ、鏡の代わりにはならないわ)
 精霊の力を借りることができれば、あるいはノクスデリアスのような能力の使い方もできるかもと思ったのだが、いかんせんここにはその為の媒体がないのだ。水辺といえばこの川くらいしか見当たらないし、先程の家の窓を思い出しても、ガラスは最低限にしか使われていなかった。紫萌がくぐれるような、大きな姿見があるとは思えない。
 そっと、水面へと手を伸ばしてみる。ひんやりと冷たい水に触れれば、何か良い考えが浮かぶかも知れない。そう思ったのだ。根拠などはどこにもなかったが、そうしてみて紫萌は、あるいはそう間違った考えではなかったのかもしれないと直感した。
 指が濡れるか濡れないかのところで唐突に、旋律が聞こえたのだ。
 聞き覚えのあるそのメロディに、紫萌は思わずはっとする。笛の音。また先程の少年が、どこかで奏でているのだろう。精霊達がひそひそと囁きあい、足音を忍ばせるようにひっそりと、その音へ導かれていく。紫萌も立ち上がると、精霊達に倣って耳をすませてみた。
 近い。先程より、ずっと。
 助走をつけて川を飛び越えると、紫萌は小走りに音を追い始めた。
 精霊達を感じながら進めば、相手の居場所はすぐに知れる。音が少しずつ離れていくのを感じて、紫萌は走る速度を上げた。
 ふと、ノクスデリアスとの会話を思い出す。
――ご明察。実はこの鏡を使って、俺たちみたいな力を持った他の奴らを探そうと思ってるんだ。
――私たちみたいに……? まだ、他にもたくさんいるの?
――たくさんはいないと思うけど……。でも、まだいるよ。この世界のどこかにね。
(もしかしたら)
 腕を振り、丘を駆ける。
 またすぐに、笛の音が途切れてしまった。離れていった様子ではなかったから、吹くのをやめてしまったのだろうか。紫萌は今まで精霊達が進んでいた方向を頼りに、走り続けた。急げば追いつけるかもしれない。
 追いついてどうするのか、そんなことまでは考えていなかった。だがもし、先程の少年が紫萌達と同じように、能力を持つ子供なのだとしたら。
 一つの丘を登りきると、急にぱっと視界が拓ける。一本の老樹がそびえ立つ、その小高い丘に登ると、眼下に小さな町が臨めた。
 傾き始めた太陽が、素朴な印象を与える小さな家々をほんのりと色づかせている。あまりに自然な町の登場に、紫萌は思わずぽかんとした。そういえば、丘の家の辺りにも細いながら道があった。近くに町があって当然なのだが、そのあまりに平和な様子に虚を突かれてしまったのだ。紫萌はしばらくそこへ立ちすくんでいたが、含みのある様子でくすくす笑う精霊達の声にはっとなり、慌てて辺りを見回した。
(あの子は、どこ?)
 もう日も落ちる。ひょっとすると、既に町へ帰ってしまったのだろうか。一瞬そんな考えが脳裏を過ぎったが、どうやら早とちりだったようだ。紫萌の心配をよそに、少年の姿は案外容易に見つけることができた。
 丘を下っていく、羊の群れがある。その群れを追い立てるように、一人の少年が手にした棒を振っていた。
 紫萌は少年に呼びかけようとして、ふと、何かを蹴飛ばした感覚に視線をおろした。見ると足下に、一本の横笛が落ちている。あの少年が吹いていたものだろうか。紫萌はそれを拾い上げると、口元に片手をあて、大声で言った。
「待って! これ、あなたのでしょう?」
 声が届いていないのか、少年が振り返る気配はない。紫萌は丘を数歩駆け下りると、また言った。
「少し話がしたいの。もしかしてあなたにも、精霊達の声が聞こえるんじゃない?」
 少年はやはり、振り返らない。紫萌は拾った笛を握りしめると、再び駆けだした。丘を駆け下りるのは簡単だ。少年は羊を追いながらゆっくりと歩いているし、紫萌には、すぐに追いつく自信があった。事実少年との距離はすぐに縮まっていき、紫萌は息を弾ませながら更に言う。
「待って! 聞いて、私――」
 それでも、少年は振り返るどころか紫萌に気づく様子すらない。既に数歩分程度の距離まで来ているというのに、もしかすると、無視をされているのだろうか。紫萌は笛を握ったのとは反対の手を伸ばし、少年の肩をたたこうとする。しかし。
 その瞬間、紫萌の視界は大きく揺らめいた。
 自分の手が少年の体をすり抜けたのを見て、予期せぬ事にバランスを崩す。たたらを踏んだがなんとか転ばず体勢を立て直し、紫萌は言葉をのんだ。
 見れば目に映る全てが、石を投げ込んだ水面のように大きく、揺らめいていたのだ。
 紫萌は手にした横笛を握りしめ、息を殺して辺りの様子を窺った。どくん、と小さく、鼓動の打つような音。たった今まで少年の立っていた方を見てみると、既に人影も、羊たちの姿もない。
 どくん、と再び低い音。紫萌は嫌な予感に生唾を飲み込むと、今来た道をとって返した。
 音は、鷏良を寝かせた場所の方から聞こえてきている。息を切らせながら全力疾走すると、次第に川が見えてきた。
 そうして川の向こうへ視線をやって、紫萌は奥歯を噛みしめる。川の向こう側――鷏良がいるはずのそこに、得体の知れない白い霧が立ちこめていた。
「鷏良! ――返事をして、鷏良!」
 霧に向かって声をあげるが、その呼びかけに応えはない。紫萌は躊躇いなく霧へ飛び込んだが、何の手応えもなく反対側からはじき出されてしまった。
 興奮した精霊達が、けたけた笑いながら辺りを飛び交っている。その様子に、覚えがあった。
「ノクス、まさか……」
 呟く。
 酔った人間のように舞い狂う精霊達。それに、霧。あの時と同じだ。思い出すと、紫萌はぞっとして自分の腕を抱いた。
――大丈夫。もう、大丈夫よ。
 唱えるようにそう呟いたあの人を、あの日のことを、紫萌は今でも鮮明に覚えていた。空に漂う雲の形も、紫萌を抱きしめた腕の暖かさも、そして怯えた目をして地面へへばりついた、人買いの表情も。
「あの時の私と同じ……。能力が、暴走してる」
 弱りきっていた鷏良が、突然暴走を始めたと考えるのには些か無理がある。ならば、この霧の原因は。
 紫萌は一度生唾を飲み込むと、覚悟を決めた。
「鷏良。すぐに、戻ってくるからね」
 穏やかな声で呼びかける。応えはやはりなかったが、紫萌は握りしめたままでいた笛を見下ろし、一度頷いた。
 赤い髪の少年が置いていった笛。精霊達の溢れるこの丘で、旋律を奏でてきた笛。紫萌には笛の扱いなど知るところではなかったが、それを構えると、自然と何をすればいいのかがわかるようだった。
 指が動き、旋律を紡ぎ出していく。
 場にそぐわない、柔らかなメロディ。しかしその音に気づいた精霊達が、いくらか紫萌に視線を向けた。
(ノクスのところへ帰りたいの。それから……そう、私たちには助けが必要だわ)
 そう考えて、紫萌は穏やかに微笑んだ。
 良かった。この笛はしっかりと、音を発してくれている。
 
 思った瞬間、紫萌は湿った、薄暗い牢の中にいた。
 笛から唇を放し、辺りを見回す。視線をおろすと、座り込んだまま唖然としているセーマと目があった。
「セーマ、ただいま。今、塔はどうなっているの? ノクスは? 何故、一緒にいないの?」
 矢継ぎ早に質問したが、セーマは瞬きもせずに紫萌を見て、信じられないというように首を振った。それもそのはず、無理もないだろう。一見してみる限り、この牢は一部に鉄格子がおりている以外全ての壁が石で覆われ、明かりとりの窓すらない。そんな中に突然紫萌が現れたのだから、それは驚くはずである。
 しかし事態は一刻を争うのだ。その事はセーマも肌で感じ取ったらしく、いまだ狐につままれたような顔をしながらも、姿勢を正してこう言った。
「紫萌殿が池に落ちられてから、既に一夜が明けました。あの後駆けつけた仲間共々ノクスデリアス殿をお守りしようとしたのですが、多勢に無勢、それもかなわず……。私は藍天梁からのお客人、つまり紫萌殿を誘拐し、謀反を企てた首謀者としてここへ。ノクスデリアス殿は、オルビタ様の屋敷へ連れて行かれました。――面目ない」
 そう言って項垂れる顔色が、普段よりいくらか青白い。右腕を押さえているところを見ると、戦闘で負傷した箇所を手当てされていないのだろう。
「セーマ、腕を出して。骨が折れているのなら、あまり効き目はないかも知れないけど……この薬、多少の痛め止めにはなると思うの」
「まさか、お手を煩わせるわけには」
「そんなことを言っている場合じゃないでしょう! それに私たち、助けが来たらすぐにノクスを探しに行かなきゃならないんだから」
 紫萌が憤った口調でそう言うと、セーマは尚更面食らったようだった。「しかし紫萌殿、助けなど」と狼狽えながら言う言葉を聞き流し、紫萌は辺りを見回した。包帯もわずかながら残っているから、何か太い枝でもあれば添え木になると思ったのだが、このじめじめとした牢屋の中にはそれだけの物すらないようだ。
 そうしているとそのうち、鉄格子の向こう側から足音が聞こえてきた。どうにかして紫萌を隠そうとするセーマをやんわりと押しとどめて、この弱冠十歳の少女は、気丈にこう声をかけた。
「ネロ。あなた何か、添え木になるような物を持っていない?」

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