吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

018 : 朱の境界線 -2-

 叫んだのと同時に、驚き慌てた鳥達が飛び立っていく。紫萌はその羽音を聞きながら鷏良を振り返り、目許に浮かんだ涙を乱暴に拭い去った。
 怒りはおさまらなくとも、今の紫萌には何にも先んじてしなくてはならないことがある。紫萌はネロの手当をしたときのことを必死に思い出しながら、まずは鷏良が羽織っていた上着を脱がせた。刃物で切り裂かれたかのような傷。背中へまっすぐに走るその傷は、紫萌の掌ほどの大きさだ。しかし紫萌に知れるのはまだ血が止まっていないということくらいで、それがどれ程の深さなのかはわからない。
(ネロの時は確か、始めに清潔な水で傷を洗ったはず)
 耳を澄ましてみると、水音があった。紫萌は見つけた川へ駆け寄って、スカートの裾を躊躇なく割く。それを水に浸していると、辺りを心配そうに飛び交う精霊達に気がついた。水の中に棲む者、風と共に駆けていく者――。彼らの表情は紫萌につられて、皆不安に曇っている。
 ここは一体どこなのだろう。明るい丘は生命力に満ち満ちて、全知の塔よりもずっと、いや藍天梁と比べても比較にならないほど沢山の精霊達が、そこかしこに舞っていた。こんなに精霊の存在が濃い場所を、紫萌は今まで見たことがない。
 しかし勿論、詳しい事を詮索している余裕はなかった。布を絞ると鷏良のところへ急ぎ戻る。鷏良を横たえた草原が、いつの間にやら赤黒く染まっていた。またこんなに血が出たのだと思うと、まるで自分自身も傷を負ってしまったかのように体のあちこちが痛かった。
 そっと布をあてると、それが途端に赤く染まっていく。どくんどくんと、脈打つ度にまた血がにじんだ。
「背中の止血なんて、一体どうしたらいいの」
 呟く声が、涙で掠れる。濡れた布で傷口を拭おうと試みてみるが、鷏良が辛そうに呻いたのを聞いて、やめた。
(もしここに、星蘭がいてくれたら)
 ネロの手当をした時に、随分手際がよかったのを思い出す。不思議に思った紫萌が尋ねると、故郷にいた頃、隣の家が薬房だったのだと彼女はこともなげに言っていた。
(ノクスだって難しい本をたくさん読んでいたから、どうすれば良いのか知っていたかも。環黎様は昔戦争があった時、宿営地をまわって人々の手当をしたって聞いたことがあるわ。でも私、私は――)
 なんて無力なのだろう。
 鷏良の隣にうずくまり、ただおろおろとするばかり。こんなことをしている場合ではないのに、他に何をするべきなのか、皆目見当がつかないのだ。
「私、一体どうしたら……」
――だから紫萌、そいつのことは紫萌に任せる。
 ノクスデリアスの言葉を思い出すと、尚もどかしさが募ってくる。向こうに残った彼は周りをトリオール達に囲まれたまま、味方は手負いのセーマだけなのだ。待機しているはずのセーマの仲間だって、どれほどいるものかわからない。それなのに彼は紫萌達のことを、こうして安全なところまで逃がしてくれた。
(だからこそ、紫萌はなんとしてでも鷏良を守らなくてはいけないのに。それなのに)
 自分自身にいきり立って辺りを見回すと、精霊達が驚いたように、飛び退く様子が感じ取れた。彼らは見知らぬ紫萌に好意的だったが、しかしけっして、一定以上に近づこうとはしてこない。
「ねえ! 教えて、私に一体何ができるの? この丘にはこんなにたくさんの精霊がいるじゃない。誰か知っていたって良いでしょう? お願い、誰か――私、鷏良を、ノクスを、死なせたくないの!」
 心から、叫ぶ。
 しばらくどこからも、音はなかった。精霊達は互いに首を傾げてみせるだけで、紫萌を慰めこそすれ、それ以上に語りかけてくる者は誰もいないのだ。ぽろぽろと落ちる涙の粒を拭っても、次から次に溢れてくるためにきりがない。
 時間がない。しかし、何をするべきかがわからない。
 そうして泣きじゃくる紫萌が、絶望に膝をつきかけたその時だ。
 不意に、肩を叩かれた。
 紫萌ははっとして辺りを見回したが、どこにも人影は見当たらない。気のせいだったのだろうかと奥歯を噛みしめると、少し遠くに、動くものがあった。
 手招きするように動く影。ふらふらとして実態がよくわからないのだが、どうやら目の錯覚ではないようだ。
 紫萌は一瞬鷏良を見ると、その影へついて行ってみることに決めた。
(すぐに、戻ってくるからね)
 心の中で約束する。紫萌は影をじっと見据えると、まっすぐ即座に駆け出した。
 どこかから再び、笛の音が聞こえてくる。ここへ始めてきたときに聞いたものと、全く同じ旋律だ。一体誰の笛だろう。この丘の精霊達のように明るく、しかし孤独な寂しい音色。
 影を追うにつれ、笛の音が近くに聞こえた。丘を抜け、木の茂る林を通り過ぎ、それから。
 さすがの紫萌も息があがってきた頃になって、ふと、影がその進む速度をゆるめた。紫萌は肩を上下させながら息を整え、額の汗を袖で拭う。影を見失ってはならない、とまたすぐ視線をあげると、一瞬、まぶしい光に目がくらんだ。
 太陽だ。皓々と照り輝くそれは、全知の塔に慣れてしまった紫萌にとってあまりに眩しすぎた。しかし目を細めて丘の先を見れば、そこに小さな人影がある。どうやら笛を吹いているのは、その人物らしかった。
(あなたが私を、ここへ呼んだの?)
 心の中で、問いかける。しかし相手は腰掛けていた切り株から立ち上がると、紫萌になど気づかず去って行ってしまう。
「待って」
 声をかけたが、無駄だった。紫萌は視界の端で影が動いたのを見て、再びそれを追うことにする。先程の少年のことは気になって仕方がなかったが、今は一刻もはやく鷏良の手当をしなくてはならなかった。
 そう、少年だ。逆光の中の人影を見ただけなのに、紫萌には先程の彼がノクスと同じ年頃の、少年だということが手に取るようにわかっていた。
 こっち、こっちと手招きするように、影が先へと進んで行く。紫萌が丘を中程まで下ると、そこに一軒の家があった。
 丘の中腹へこぢんまりと建てられた、どことなく寂しい家だった。家の隣に備え付けられた柵は開け放たれており、誰かが中にいる気配はない。辺りを見回しても、他に民家は見当たらなかった。
(みんな、出払っているのかしら)
 息を整えながら扉の前へ立ち、こんこん、とノックしてみる。しかし返答はない。窓から覗き込んでみても、誰かがいるようには見えなかった。
 ここで手当の道具を借りられるかもしれないと思ったのに。紫萌は肩を落として溜息をついたが、すぐにはっと息をのんだ。
――入っておいで。
 精霊達のそれとも似た声が聞こえて、きぃっと小さな音がする。誰も手をかけてなどいないのに、扉が自然と開かれたのだ。
「今の声……。私をここへ連れて来てくれた影は、あなたなの?」
 返事はなかった。紫萌はそっと家の中へ足を踏み入れ、辺りを見回してみる。
 きちんと灰をかき出してある、火の消えた暖炉。机の上には半分に切られたパンが置かれ、水瓶にはいっぱいまで水が張ってある。
(さっきの子の家なのかしら)
 そんなことを考えながらきょろきょろしていると、がたっと音を立て、小さな引き出しが開かれた。捜し物に不得手な紫萌を見かねて、先程の影が知らせてくれたのだろう。その中には清潔な包帯が並べてあり、隣の棚には煎じた薬が何種類も置かれていた。
 ここは薬師の家なのだろうか。それともこの地域では誰もが、それぞれの家庭で薬を調合するのだろうか。紫萌にそれを判じることはできなかったが、なんにせよ、こんなに道具が揃っていることは天佑だと、素直に喜ぶよりないだろう。
 紫萌は薬をいくつか見繕ってから、身につけていた花の形の頭飾りを棚へ置いた。以前環黎から賜った大切なものだが、今は薬の代償にできるものなど、それくらいしか持ってはいなかったのだ。
(勝手にお薬をいただくこと、お許しください)
 無事に鷏良の手当ができたら、そしてノクスデリアス達を助けることができたら、いつか必ず謝罪にこよう。紫萌は自分にそう言い聞かせ、薬と包帯とを抱えて扉を振り返る。するとまた一瞬、その視界に影が映った。
 紫萌をここまで導いた影。その影が一瞬揺らめいて、直後、そこに人の姿が現れる。紫萌は驚いて数歩後退ったが、相手は構う様子もない。
 一人の老婆がそこにいた。塔の人間とは違い赤みを帯びた健康的な肌をして、その目は黒く、しかし体自体は透き通っている。老婆をすかして向こうの壁が、紫萌の目にはしっかり見えた。
 彼女は感慨深げに椅子へ腰掛け、紫萌へにこりと微笑みかける。どう見ても職人拵えではない木製の椅子は、彼女のためだけに作られたかのようにぴったりだ。
「この家は、あなたの――?」
 紫萌が尋ねると、老婆は首を横へ振る。
 少なくとも、人間ではない。ならば精霊なのだろうか。そう考えてはみるものの、答など出ようはずもなかった。
(もしも精霊なら、こんなふうにはっきりと見えたのは初めて――)
 そうしているうちに再び、家の扉が開かれた。薬が手に入ったのなら、はやく鷏良の元へ戻れということのようだ。
「あの、私っ」
 紫萌が言うと、彼女はにこりと微笑んだ。愛しいものを見つめるかのような暖かいその微笑みは、ゆるゆると紫萌の警戒心を解いていく。紫萌はそれを見て、精一杯の笑顔で微笑み返した。いつものように無邪気に笑うことはできないが、先程まで止めどなかった涙はいつの間にか止まっている。
 紫萌は扉を出て、しかしすぐに家の方へと振り返ると、大きな声でこう言った。
「ありがとうございました。……御恩は忘れません!」
 老婆の姿は既にない。しかしその言葉へ答えるように、老婆の笑い声が聞こえた気がした。

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