吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

017 :朱の境界線 -1-

「鷏良!」
 小さな体を包む、ブランケットが赤に染まっていく。ぐったりとした体が小刻みに震えて、呆然とした紅の瞳が紫萌を見上げた。
「し、ほう……」
 思いもしなかったか細い声を聞いて、紫萌は思わず息を呑む。
 一瞬のことだった。
 かまいたちのようなあの黒い影が、鷏良の背を裂いたのだ。そうと頭で理解することはできても、とっさに行動が伴わない。じわじわと広がり、自分の手を染めていく血を見ながら、紫萌はへたりと座り込んだ。
 その膝に、鷏良の頭がもたれかかる。おぼつかない指先で血の気の引いていく頬を撫でると、すぐ隣で、じゃりっと砂を踏む音がした。先程の声の主――トリオールがこちらへ歩み寄ってきているのだ、と紫萌の心の中で誰かが、おそらくは必死に冷静さを保とうとしている紫萌自身が囁いたが、その声も右の耳から左の耳へと流れていく。
 ぱくぱくと、鷏良の小さな口が動いた。何かを伝えようとしているらしいのだが、どうにも声にならないのである。紫萌は茫然自失のままそれを見て、口の形から必死に、その言葉を読み取ろうとした。
 け、か、は。
「待って。鷏良、私……」
――紫萌は怪我、しなかった?
 頭へ直接、言葉が響いた。
 その言葉に、目の前が真っ白になる。
 キン、と金属のぶつかり合う激しい音がして、紫萌は反射的に顔を上げた。いつの間にかセーマがトリオールへ詰めよって、構えていた刃を突きつけている。しかしトリオールの側は慌てる様子もなく、腰に下げていたレイピアでそれを受け流し、にやりと不敵に笑って見せた。
「あんな子供に、よくも――!」
 上段から振り下ろした剣が、トリオールの高い帽子を掠めることもなく空を切る。一歩退いたトリオールは右へ踏み込むと、躊躇なくセーマの右面へ、細い切っ先を突きつけた。
 力のあるセーマの剣とは裏腹に、トリオールの立ち居には舞を舞うかのような軽やかさがある。退いては攻め、攻めては跳び、セーマを翻弄するかのように右へ左へと動き回るのに、息を切らす様子は微塵もない。
「子供とはいえ、我々が作ったサンプルではありませんか。こうまで事が大きくなってしまったのでは、処分するより他にない。貴殿も十分承知のはずでしょう、セーマ殿」
 くすくすと、感情無く笑う声。紫萌はそれを二の句が継げないままぼうっと見て、震える鷏良の頬へそっと手をあてた。
 汗ばんでいる。しかしそれでもまだ、息があった。
 セーマの剣が更に空を薙ぎ、トリオールがその細腕に似合わぬ剣戟の響きを轟かせる。
「それを、本気で言っているのか!」
「当然ですよ。他の誰を取り逃がしたとしても、あのサンプルだけは、なんとしてでも他国に見られるわけにはいかない。藍の魔女が治める国になど以ての外です。もっとも――」
 視線を感じて、顔を上げる。紫水晶のようなその瞳が、じっと紫萌を見つめていた。
「もっとも、誰ひとりとして取り逃がすつもりなどありませんでしたが」
 何かの折れる、鈍い音。トリオールが剣の柄で、セーマの腕を打ったのだとすぐに知れた。
 セーマが短く低く呻いて、構えていた剣を取り落とす。トリオールは落ちた剣を踏み付けて、優雅な素振りで手を動かした。左手を腰の後ろに添え、右手を大きく広く、回す。まるでこれから見世物でも始まるかのような、道化じみた仕草であった。
 それにつられるように辺りを見回して、紫萌は奥歯を噛み締める。木々の間に、無数の人影があった。いつの間にやら囲まれてしまったのだ。
「紫萌」
 すぐ後ろから掠れた声がして、紫萌ははっと振り返る。視線の先ではノクスデリアスが、青い顔をして這うように、紫萌のそばまで寄ってきていた。
「ノクス! 顔が真っ青――まさかあなたも、大きな怪我を」
「違う。俺はさっきの怪我しか……」
 言うが、とてもそうは見えない。ただでさえ色白の顔からは血の気が失せ、体は少し動くのもやっとといった感じに震えているのだ。そしてその言葉を聞いて、人影の中の誰かが低く笑ったのがわかった。
「魂の連結……。精霊騎士の法則は、この場合でも当てはまるということか」
 聞き覚えのある声だ。愕然とする思いで声へ振り返ると、木々の影から一人、こちらへと向かってくる人物が見えたる。――オルビタだ。
「オルビタ、様――」
「ええ。オルビタ様の仰る通りのようですね。これでまた、研究がいくらかはかどりましょう」
 乾いた声で名を呼ぶ紫萌の言葉を遮るように、トリオールがにこりと笑ってそう言った。紫萌はぞっとしない思いで二人を交互に見、片手を鷏良の頬に添えたまま、もう片方の手でノクスデリアスの手を握る。
 どくん、と心臓の高鳴る音。それが紫萌のものなのか、ノクスデリアスの鼓動が伝わってきたのかはわからない。
「オルビタ様。どうして、こんな」
 呟くようにそう問うと、オルビタがすっと、足下に座り込んだ紫萌へ視線をおろした。
 視点のあわない目。表情のない顔。そして廊下で話をしたときと同じ、鬱屈とした影をはらんだ独特の存在感。
(ああ――この人も、この全知の塔の人形なんだ)
 心の中で、独りごちる。その声が聞こえたのか、オルビタはその表情に、貼り付けたような笑顔を浮かべた。
「紫萌殿には、恐ろしい思いをさせてしまい申し訳ないことをした」
 紫萌は首を横へ振って、まっすぐにオルビタの目を見上げる。
「オルビタ様、……お答えください。何故こんな事をされたのですか」
「さぞ不安に思われたことでしょう。お許しいただきたい。とりあえずは、私の屋敷まで戻りましょう」
「あなた達のやってきたことは、ノクスへの……いいえ、この塔の誰へもの、生きる者全てへの冒涜です」
「紫萌殿」
 オルビタの語気が強くなる。紫萌はぐっと相手を睨みつけ、ノクスデリアスの手を握り締めた。
 その手が強く、握り返される。
「魂の連結に、精霊騎士ね……。興味深い話が聞けそうだな」
 挑みかかるような、ノクスデリアスの声。紫萌が驚き振り返ると、彼は紫萌の手を離し、ゆらりと静かに立ち上がる。その頬には玉のような汗が浮かび、血の気の引いた肌は一層青白く曇り空の下にくすんでいたが、そこには手負いの弱々しさなど、見て取ることはできなかった。その紅の目が爛々と、狩りをする獣かのように輝いていたからだ。
「この期に及んで、何をするつもりだ。無駄な抵抗をすればするほど、怪我が増えるだけだというのがわからないのか」
「ノクスデリアス殿。大人しく従ってさえいただければ、あなたに危害は加えません。こちらに戻っていただければ、そんな辛い思いをする必要もないのですよ」
 オルビタとトリオールとが交互に言ったが、ノクスデリアスの側に彼らの言葉を聞く気は更々ないようだった。彼はおかしな方向へ曲がった腕を抱えるセーマを見、倒れ喘ぐ鷏良を見、それから最後に紫萌を見て、そっと手を差し伸べた。
 ほんの一瞬だけにこりと笑って、それから、一言。
「喧嘩の続きは、後でしよう」
 むっとした様子でそう言った。
 思いもしなかった言葉に紫萌は唖然としたが、すぐに鷏良を抱き直すと、差し伸べられた手を握り締めて立ち上がる。鷏良が辛そうにだが紫萌にもたれ掛かって、よたよたと足を踏ん張ったのを見て、紫萌はもう一度ノクスデリアスへ目を向けた。
「そんな事、今言う必要は無いじゃない」
「人のことをひっぱたいておいて、そんな事扱いか。それより、聞いた? 魂の連結っていうらしい。どうも俺まで体が痛いのは、そいつと何かが繋がっているせいみたいだ」
「だから、悠長に喋っている場合じゃ……」
「そう。つまりそいつが死んだら、俺も死ぬかもしれないって事だよな、紫萌」
 まるで他人事かのようにそう言って、ノクスデリアスがにやりと笑う。紫萌が面食らって押し黙ると、彼は更にこう続けた。
「俺と同じ顔して、紫萌に甘えたりする嫌な奴だと思ったけど……このままにはしておけないって事だ。かといってこうなった以上、オルビタ達のところへ戻る気はない。だから紫萌、そいつのことは紫萌に任せる。安全なところへ行っててくれ」
「ノクス? 一体、何をする気?」
 ノクスデリアスの頬から垂れた汗が、一滴紫萌の手に落ちた。紫萌はじりじりと後退するノクスデリアスについて進み、紫萌達を捕らえるのも時間の問題だとばかりに笑みを浮かべるトリオール達へ視線をやった。安全なところと言っても、この状況から一体どうやって逃れろと言うのだろう。紫萌がそんなことを考えているうちに、三人はあっと言う間に、池のほとりまで追い詰められてしまった。
「もうやめろ、ノクスデリアス。そのままでは本当におまえまで死ぬ。そのサンプルと、心中でもするつもりか」
 威厳に満ちた声でオルビタが言ったが、当人は話を聞くどころか見向きもする様子がない。紫萌はノクスデリアスの視線の先を目で追って、曇り空を映す傍らの池を見ると、思わず瞬きした。
(水面に景色が映って、――まるで、鏡みたい)
 自然とノクスデリアスの屋敷で見た、あの姿見の事が思い出された。過去を、そして限りなく現実に近い瞬間を映し出す鏡。初めてあの鏡に触れたときのことを思い出せば、自ずと先が見えてくる。
 彼が、ノクスデリアスがやろうとしていることは。
 水面にぽつりと朱い液が墜ちると、水面に波紋が広がった。しかしそれがノクスデリアスの血だったのか、鷏良の血だったのかはわからない。それを確認するより前に、紫萌の体はノクスデリアスによって突き飛ばされていたからだ。
「ノクス待って、私……!」
 反射的に伸ばした手は、虚しく空を掴んだだけだ。紫萌は池へ向かって落ちて行くのを感じながら、鷏良を支える手に力を込めた。
「紫萌。これはどうやら、俺にとってもチャンスになりそうなんだ」
 声が、場にそぐわない笑みを湛えているのがわかる。その声の向こうに一瞬、また黒く、不吉な影の姿を見たように感じて、紫萌は目を細めた。
(待って! 私、守ってもらうだけなんて嫌)
 池に落ちたはずなのに、水音は少しも聞こえなかった。代わりにノクスデリアスの言葉がやけに頭に響いて、紫萌は拳を握り締める。
(ノクスだって、あんなに顔を青くして……なのに、どうして私たちだけ)
 目に見える景色が変化していく。塔とは違った青々とした木々が生い茂り、野には花が咲いていた。耳を澄ませば、どこかから軽やかな笛の音まで聞こえている。しかし。
 叫びたい言葉は、一つだけだ。紫萌はすっと息を吸うと、辺りの丘には目もくれず、はち切れんばかりの声でこう叫んだ。
「ノクスの、大馬鹿――!」

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