吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

016 : 灯りとまどろみ

 墨を零したかのような、深い、深い、闇の中。
 環黎の養子になったばかりの頃の紫萌は、毎晩のようにそんな暗闇の中を歩いていた。
 冷たい廊下の壁に手を沿わせながら、既に灯の消えた宮殿の廊下を這うように歩く。月明かりに照らされた通路からでも目的地には辿り着けたのだが、あえて暗闇を通るのが、幼い紫萌の常だった。月明かりの入る通路には障子が巡らされており、そこへ映る様々なものの影が、紫萌の目には怪物のように映ったからだ。
(恐ろしいものなんて見たくない)
 忍び寄る不安に目を背けながら、一歩、また一歩、静かな廊下を歩いていく。
――もう少し。
――もう少しだよ。
 姿無き友人の声が聞こえると、わずかながら心が安らいだ。
 もう少し。きっとあの人は今晩も、灯りを点して机に向かっていることだろう。目の前に広がった難解な書簡など、何でもないかのような涼しい顔で一つずつを確認し、民の暮らしに思いを馳せているはずだ。
 そんなことを考えていると、ほっと、暖かな息が漏れた。紫萌はそれに気がついて、思わずそっと、わずかに微笑む。
(大丈夫。もう、一人じゃないんだから)
 しばらく歩くと唐突に、暗闇の中へ灯りが点った。曲がり角から、誰かがこちらへ向かってきたのだ。
「そろそろ、来ると思っていましたよ」
 強さを持った、優しい声。紫萌はぱっと顔を上げ、飛びつきたいのを必死に堪えた。あまり幼稚なことをして、困らせてはいけないと思ったからだ。
(天女様)
 心の中で、呼びかける。暗闇の中に浮かび上がったその人物、藍天梁が女帝環黎は、初めて出会ったときのように悪戯っぽく笑ってみせた。
「こんな暗闇の中を手探りで。その様子だと今日はまだ、恐ろしい夢を見たというわけでもないのだろうに」
「なぜわかるの?」
「御髪が整えられたままでしょう」
「すごい! それだけでわかるなんて」
 言って紫萌が、にこりと笑う。
「今日は、悪い夢があたしのところへ来る前に来たの。またおそばにいて、いい?」
 ちりん、と静かな鈴の音。環黎が腰をかがめると、身につけた装身具が涼やかな音を奏でる。紫萌はその音が好きだった。祭の時に聞いた錫杖の音に似て、きんとした鋭さを伴わないその金属音は、紫萌の心をやけに和ませたのだ。
 「いつの間に、こんな甘えん坊になったのだろうね」そう言いながら肩をすくめはしても、多忙を究めているはずのこの女帝が、紫萌のことを追い返したことは一度もなかった。紫萌に限ったことではない。この藍天梁という国に住む誰にも、いや、助けを求めるおよそどんな人間に対しても、必ず手をさしのべる。その為にはどんな苦労も厭わない。この女帝はそういう人間だった。
 だから、安心しきっていたのだ。今になって、紫萌はそんな事を思う。頼りきっていた。いつの間にか彼女の創り出したぬるま湯の中で、まどろんでいるのが当たり前のようになっていたのだ。
(環黎様に、会いたい)
 暗闇の中、記憶の中の環黎に思いを馳せながら、紫萌は拳を握り締める。
 会いたい。そして聞きたい。それは強い思いだった。
(紫萌が子供だから、何も話してくれなかったの? それとも環黎様、環黎様には他にも何か、お考えがあったというの……)
 聞きたい。
 誰かから聞かされるのではなく、環黎その人に、本人の口から。
(藍天梁に、戻らなくちゃ)
 誰かの思惑で連れられるのではなく。
 自分の足で。
 自分の意志で。
 
「この近くにある小屋で、一度仲間と落ち合う約束になっています。ティラが先に来ているはずですから、そろそろ迎えに来ると思いますが……」
 窺うようにそう説明したセーマに、紫萌は素直に頷いた。オルビタの屋敷から少し離れた、色の少ない、暗い森でのことだ。
 四季と風の無い全知の塔には、色鮮やかな花など滅多に咲かないのだという。紫萌もこの一カ月で、その不思議に随分と慣れてはいたのだが、どうにも気が張って仕方が無い。こうして息をひそめながら歩くと、先ほどのように――幼い頃に闇の中を進んだ様子が、何故だか自然と思い出された。
 鷏良と手をつなぎ、セーマの後を黙々と歩く。しかし時折耳を傾け、精霊達の声を聞くのも忘れない。彼らの声はどこか遠のいて聞こえたが、あの不気味な地下のように、気配が全く感じられなくなるということは無かった。
 曇ってはいたが、雨は既に止んでいる。
 なんだかやけに、心が不安を訴えた。紫萌は進むにつれて緊張が高まるのを感じながら、それでも、必死に歩いていた。
 今は進まなくては。
 進まなくては。一刻もはやく。
 歩いていると、ふと、足下で乾いた音がした。どうやら木の枝を踏んでしまったらしい。その音につられたのか、一羽のカラスが羽音をたてて飛び立っていく。いつの間にやら足下に広がっていた小さな池へ、その影が映っていた。
 ちらりと振り返ったノクスデリアスと目があったが、すぐに視線を逸らされてしまった。紫萌はそんな様子を見て、そっと、目を伏せる。
 地上に出、オルビタの屋敷から抜け出した後、紫萌に与えられた選択肢は二つあった。
 まず前提として、地下へ入り込み、それをトリオール達に知られてしまった以上、これ以上紫萌が塔にとどまることはけっして得策とは言えなかった。ならば一体どのようにして塔を出、藍天梁へと帰るのか。そう考えたときに検討し得る選択肢が、その二つだったのである。
 一つめ。これは何事も無かったかのように、紫萌の屋敷へ戻るという選択肢だ。屋敷へ戻れば、紫萌と同じく藍天梁からやってきた人間がいくらかいる。早々に彼らの前へ顔を出し、正式な帰国の手筈さえ整えてしまえば、紫萌は安全に国へ帰ることができるはずだ。正規のルートで戻るのだから、これが一番安全な方法であることは誰が考えても明らかである。
「だけどそれじゃ、環黎様のやろうとなさっていた事は……」
 セーマからその案を聞かされたとき、紫萌は始めにそう言った。ここで紫萌が合法に帰国してしまえば、環黎が紫萌をこの塔へ残した、そもそもの思惑がはずれてしまうのではないか。そう思い当たったからだ。
 けれどそれを聞いて、セーマは静かに、首を横へ振った。
「有事の際には紫萌殿の安全を最優先、と言いつかっていますから」
 その笑顔は嘘偽りを一切感じさせない、優しいものだった。この警備兵と環黎がどのようにして知り合ったのかは紫萌の知るところではなかったが、もしかすると、環黎は彼のこの笑顔を見て、紫萌の護衛に据えたのかもしれない。そう思えるほど、その笑顔は紫萌になにがしかの安心感を与えてくれた。
 しかし、選択肢自体には問題があった。鷏良のことだ。まだ幼くはあるが、既に彼がノクスデリアスと瓜二つであることは隠しようが無いほどになっている。彼の生い立ちが誰かに知れれば、藍天梁の人間は勿論、何も知らない全知の塔の人間に大きな混乱を招くだろう事は確実だ。
 その上、この方法で塔を出られるのは紫萌達、藍天梁の人間だけである。そう考えたとき紫萌は、手を繋いだ少年と、それから無言で先を歩くもう一人とを見て、小さく首を横に振った。地下でのことを視てしまった以上、鷏良はもちろんのこと、このきかん気な少年を全知の塔へ置いていこうとは思えない。
 できることなら彼らと一緒に、藍天梁の土を踏みたい。紫萌はそう考えていた。ノクスデリアスがそれを簡単に良しとしないだろうことは想像がついたが、紫萌の意志は堅かった。
 だから紫萌は、迷わずもう一つの選択をした。それはセーマについて、彼らの当初の予定通りにこっそりと、この全知の塔から抜け出すという選択だ――。
 水面に映ったカラスを目で追って、紫萌ははっと息を呑む。何かが一瞬、紫萌の視界を横切ったように思えたのだ。それがなんだかわからぬまま、紫萌は短く声をかける。
「待って」
 カラスの羽音が遠のくと、途端に辺りは静寂に包まれた。そんな中で紫萌は耳を澄まし、眉をひそめる。今の影は、一体なんだろう。精霊達に問いかけてみようかとも一瞬考えたが、やめた。
 そんな余裕はなかったからだ。
「いきなり、なんだよ。急ぐんじゃなかったの」
 苛立たしげな、ノクスデリアスの声。その後ろにちらりと、また何かの影が瞬く。
「ノクス、伏せて!」
 叫ぶようにそう言って、紫萌は鷏良の手を離した。突然のことに戸惑いを隠せずにいるノクスデリアスへ体当たりすると、その直後、たった今まで彼のいた空間へ黒い影が過ぎっていく。セーマが直ちに腰に帯びていた剣を抜いたが、黒い影は木々の間へ潜っていったまま戻ってこない。
「今のは、一体――?」
 問いかけるセーマの言葉をよそに、紫萌は静かに耳をたてた。精霊達が、怯えている。焦りを含んだその声は、得体の知れない影を警戒し、しかし拒絶することなく、鬱々と辺りを飛び回っていた。
「っ――」
 短く声をあげたノクスデリアスへ振り返ると、先程の影に掠ったのだろう、頬に傷ができていた。鋭利なナイフで斬りつけられたかのようなその傷は、彼の白い肌へ一筋の、赤い直線を引いている。
「ノクス、血が」
 ポケットからハンカチを取り出し、傷へあてると、ノクスデリアスは不機嫌そうにそっぽを向いてしまった。彼がハンカチを奪うようにして立ち上がったのを見て、紫萌も仕方なく、それに倣うことにした。
 辺りを見回し、不安げに自分の腕を抱く。
「今の黒い影、一体……」
「黒い、影?」
「そう。見えたでしょう? ほんの一瞬だったけど……」
 当然のようにそう言ってから、紫萌は思わず瞬きした。ノクスデリアスとセーマが揃って、怪訝そうな顔で紫萌を見ていたからだ。
「紫萌」
 先程からずっと沈黙を保っていた鷏良が、ぎゅっと紫萌の袖を掴みながら、言った。
「僕たち、何も見えなかったよ」
「!」
 あんなにはっきりと、目の前を過ぎっていったのに。そう言葉にしようとして、紫萌はしかし、口をつぐんだ。一瞬のことだった。誰も見ていないだなんて、それなら紫萌の見間違いだったのだろうか。そう自問してみるが、それに答える声はない。
 否、見間違いだとは思えなかった。あの影を見たつかの間、紫萌は確かに思ったのだ。どこかで目にした覚えがある。それは、紫萌にとって身近な何かであるのだと。
 しかしその事を伝えようとして、紫萌は背筋を凍らせる。
「おや、あれが視えたのですか」
 背後から聞こえてきたのは、変わらぬあの飄々とした声であった。
「未来を薄ぼんやり視せるだけだと、確かにそう言っていたのに。紫萌殿、先程はやはり嘘をついていらしたのですね」
 何の感慨も無い、冷たい声だ。セーマが抜き身の刃を構え、ノクスデリアスがはっとした顔で紫萌に手を伸ばす。紫萌は声へ振り返ろうとして、
 それを、見た。
 黒い影が紫萌の目の前を過ぎる。本能的に目を閉じかけたが、それがあまりに一瞬のことだったために、閉じきるまでには至らない。鈍い音。そしてそれと同時に、たった今まで自分の袖を掴んでいた小さな手が、ゆっくりと放されていくのがわかった。
 紫萌にもたれかかるように、鷏良の体がぐらりと倒れた。紫萌はとっさにそれを支えて、触れた感触に息を呑む。
 紫萌の指先を染めたのは、見間違えようのない鮮血だった。

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