吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

015 : 届くはず

 腕を引かれ、それに従い走りだす。瞼の裏に皓々と輝いていた光がある程度おさまったのを確認し、恐る恐る目を開けると、紫萌の右腕をしっかりとノクスデリアスが掴んでいた。振り返ってみれば、既にトリオールの姿は見られない。鷏良とセーマだけが、紫萌のすぐ後を追ってきている。
「今のって……」
「閃光弾」
 事もなげに短く言ったノクスデリアスに、紫萌は走りながらも驚いて、目を真ん丸くした。
 てっきり、ノクスデリアスが能力を使って光を起こしたのだと思っていた。閃光弾など、そこらにある物ではないだろう。
「どうしてそんなものを持っていたの? それに、どうして私がここにいるとわかったの」
「紫萌の居場所は、鏡で。弾はここへ来る途中で、通りすがりの変な男にもらったんだ」
 紫萌にだけ聞こえるような小さな声で、先を走るノクスデリアスが即答する。「変な、……って」と紫萌は口ごもったが、それ以上は言わずにおいた。その「変な男」に、心当たりがあったからだ。
(きっと、ネロだわ。普通の通りすがりの人が、そんなものを手渡すわけがないもの。――だけどそれなら私にも、ああいう物をくれたらよかったのに)
 紫萌が女の子だから、ああいう武器めいた物は渡さなかったということなのだろうか。それにしたって、鳴らない笛よりはどれだけ良かっただろうと独りごちる。
 そうこうしているうちに、ノクスデリアスの走る速度が落ちて来た。肩でぜえぜえと息をして、足ももつれてきているようだ。正直なところ紫萌にはまだまだ余裕があったのだが、鷏良も巻き付けたブランケットがはだけてきているし、このまま走るのは得策ではないだろう。四人は紫萌達が始めに通ってきたような薄暗く、雑多に物が置かれた部屋へ飛び込むと、音を立てずに身を隠す。
「このまま真っすぐ行けば、いずれ旧通路に行き当たります。そこを通りましょう」
 しんがりを走っていたセーマが注意深く辺りを見回し、三人を隠すように、物で影を作ってみせた。その際、退路を確保するのも忘れない。
 そんな様子を流石だと思いながら、紫萌は安堵のため息をつく。しかしノクスデリアスにはそれが気に食わなかったようで、彼は自分の膝の間に顔をうずめ、息を整えながら苛立たしげに舌打ちした。
「それくらい、わかってる。俺に指図するな」
 怒りに満ちた、否、相手を心底憎むような強い口調。セーマは困ったように顔を伏し、その一方では鷏良が、まるで自分自身が叱られたかのように項垂れる。紫萌は少し迷ってから、今でも自分の腕を掴んでいるノクスデリアスの手を、空いている方の手でそっと握った。
「ノクス、そんなふうに言わないで。セーマは私達のこと、助けてくれたんだから」
「これだから、このお人よしは……。聞けよ、紫萌。元々こいつが紫萌を連れ出したこと自体余計だったんだ。天井裏から抜け出るなんて、あんな無茶な方法で連れ出したりしなければ、きっと大事にはならなかったのに。もっとも、始めから紫萌を攫うつもりだったからこそ、この機会を逃すまいとしたんだろうけど」
 聞いて、紫萌はぎょっとした。刺のあるその言葉を、頭の中で反芻する。
 それでも意味がわからない。攫う? 一体、誰のことを。紫萌は反論しようとしないセーマに振り返ると、恐る恐る呟いた。
「私のこと、環黎様から頼まれた、って……」
「そりゃ、そうだ」
 あの言葉は嘘だったのだろうか。そう考えて尋ねた紫萌に、事もなげに、ノクスデリアスが言い捨てる。頭の中が余計に混乱した。紫萌は戸惑ってノクスデリアスとセーマとを見比べたが、そんなことで答えが見つかるはずもない。そうしていると観念したようにセーマが息をついて、腰をかがめ、紫萌の視線の高さに合わせて話し始めた。
「ノクスデリアス殿のおっしゃる通りです。私達は隙を見て、あなたをこの全知の塔から送り出す手筈になっていました。――けれど、環黎様からのご指示であると言った言葉も、けっして嘘ではありません」
 雪のように白い髪が、さらりと揺れる。今では見慣れたその白髪をじっと見つめて、紫萌は唇をぐっと一文字に結んだ。
「いざという時、紫萌殿を守ること。また折りを見て、この全知の塔から藍天梁へと秘密裏にお連れすること。いずれも私が、環黎様から申し渡されていた事です。公の指示ではありませんでした。紫萌殿。あなたがこの全知の塔で、『突然姿をくらませた』という形をとる必要があったからです」
 身を隠したこの場所は、湿気がこもってじめじめとする。ただでさえ地下にあるせいで空気がこもっているというのに、どうやら雨漏りまでしているようだ。どこか部屋の端の方で、ぴしゃん、ぴしゃんとテンポよく、水滴の垂れる音がした。
「姿をくらませる……? どうして、そんなこと。私がいなくなったりしたら、騒ぎになるでしょう?」
「紫萌の大好きな環黎サマは、その騒ぎをこそ起こしたかったのさ。能力を持つ人間みんなを、自分の手元に揃えたいばかりにね」
 セーマの説明を待たず、ノクスデリアスがそう言った。紫萌は余計に頭の中がこんがらかっていくのを感じながら首を傾げただけだったが、それを聞いたセーマが、短く息を呑んだことには気づいていた。
 一体どこでそれを知ったのかと、緊張の混じった声でセーマが問う。しかしノクスデリアスに答える気などは無いようで、その問いには鼻で笑ってみせただけだ。
(多分その事も、あの鏡を使って盗み聞いたに違いないわ。でも、だけど――)
 その事には思い当たっても、一体何がどうなっているのか、紫萌には見当をつけることすらできなかった。
 ぴしゃん、ぴしゃんと水音が、絶えることなく続いている。紫萌はその音に耳を傾けながら、続くノクスデリアスの言葉を待った。
「騒ぎが必要だったのさ、紫萌。――塔で紫萌がいなくなれば、当然この全知の塔は、藍天梁に対して、環黎に対して、その責任をとらなきゃならなくなる。そうなったら上手いこと言って、紫萌と同じに能力を持つ、俺を藍天梁へ連れて行こうとしたんだろう。『塔が紫萌を隠したんだ』って罪を被せるか、紫萌が見つかるまでの人質にするか……。どっちにしろ、紫萌は公にされていないとは言え能力を持った子供だし、女帝環黎ただ一人の養子だ。同等の価値がある駒は、この俺しかいない。その事は両国十分承知の上だ。紫萌が塔へ置き去りにされたのには、そういう裏があったのさ」
 水音が続く。同時に胸が、緊張に高鳴っていくのがわかった。
「けど……」
 紫萌が言いよどむのを聞いて、ノクスデリアスは畳み掛けるようになおも言う。
「どうせなら直接俺を攫った方がはやそうだけど、これが実はそうでもない。塔の人間の自然日光を浴びられない体質は扱いが面倒だし、第一俺に抵抗されることを考えたら、紫萌の方が従順で扱いやすい。そういうことだろう?」
 得意げにそう言いきって、ノクスデリアスがそんぶりかえる。
 しかしその得意げな笑顔が、内面的な痛みに歪んでいた。
(どうして、そんな風に言うの)
 言葉だけを聞いたなら、まるで他人事のような説明だ。感情のない、まるでボードゲームの駒を動かす算段をつけるような、理屈だけを組み合わせた温度のない言葉の羅列。彼はそうとわかっていながらあえて、そう聞こえるように話したのだろう。
 それがノクスデリアスにできた、唯一の抵抗だったから。
 ぴしゃん、ぴしゃんと、水音が響く。
(自分がどんな顔をして話しているか、あなたはまだ気づいていないの?)
 自分自身のことを、彼は駒だと言い切った。ふと、以前の言葉を思い出す。
――俺達のように力をもった人間を、利用する気もなしに育てる人間なんかいるもんか!
(ノクスにとっては、その思いが全てなんだわ)
 だからこそ彼は、こうして紫萌に訴え続けているのだ。
 自分達は、大人の駒なのだ。力を持って生まれたばかりに、こうして翻弄されるしかないのだと。
 哀れな運命の下に生まれた、可愛そうな子供達なのだと。
 唐突に目元へ涙が溢れて、紫萌は大きく息を吸った。
 悲しいと思ったわけではない。零れた涙は頬を濡らしたが、一度袖で拭ってしまえば、それで終わりだ。紫萌の心は穏やかだった。
 だからこそ紫萌は静かな声音で、低く、短く、こう呟く。
「ノクスデリアスは、大馬鹿者ね」
 鷏良とセーマがぎょっとしたように紫萌を見たのがわかったが、そんなことにはお構いなしだ。驚きに思わず、といった感じで手を離したノクスデリアスを見ながら、紫萌はすっと立ち上がる。
 ぴしゃん、と一度大きな水音がして、急にその場が静まりかえった。
 口調は強いものだったが、別段、怒ってなどはいなかった。そんな事よりも先んじて、言いたいことがいくらもあったのだ。紫萌はその中から慎重に一つを選び出して、まず、問うた。
「それは、例の鏡で聞いたのね? 誰が言っていたの、環黎様?」
「紫萌、鏡の話は」
「誰が言ったの、ノクス」
 抗議の声を無言で制し、同じ問いを再度重ねる。睨むような紫萌の視線に気づいたのか、ノクスデリアスは一度、言葉を詰まらせてから言った。
「稜幕とかっていう、文官と話しているのを聞いたんだ」
「ええ。その方は確かに、環黎様が最も信頼をおく秘書官よ。その方と話していたのを聞いたのなら、きっとその言葉に嘘はないでしょう。それで? 環黎様は、それ以外に何かおっしゃっていた?」
「それ以外って……途中まで聞けば大体の企みはわかったから、最後まで聞いたわけじゃ」
 ややたじろいで、ノクスデリアスが言う。言い終えて、すぐのことだ。
 紫萌の右手がさっと動き、躊躇無く、ノクスデリアスの頬を張った。
 ぱしんと強い音がする。唖然とした表情で紫萌を見上げる、ノクスデリアスと目があった。「どうして」と目が問うている。答えようとは思わなかった。「自分で考えなさい」と叱りたいのを、すんでの所で思いとどまる。
 身を隠しているのだから、大声を出してはならない。本当なら、今ここでこんな事をしている余裕など無いのだという事もわかっていた。わかっていても、止められない。
「そうなの。そう。――やっぱりあなたは馬鹿ね。ノクスの、大馬鹿!」
 声を張り上げることはしなかったが、その剣幕だけでも十分な効果はあったようだ。鷏良とセーマは呆気にとられた様子のまま紫萌を見ているし、ノクスデリアスに至っては何か言い返そうとしたらしいまま、言葉を出せずに口元だけをわなわなと震わせている。
 反撃する隙など与えなかった。ノクスデリアスに一歩歩み寄ると、紫萌は更に言い募る。
「どうせ視るなら、どうして最後まで視なかったの! あなたはそうやって自分を可愛そうに思える言葉だけを聞き取って、自分自身を哀れもうとしているだけなんだわ。環黎様のことを悪く言うのだって、結局はあなたの思い描く悪者像に、環黎様を当てはめたいだけじゃない!」
 ノクスデリアスの白い頬が、紫萌にたたかれたこととは別に、いくらか赤く染まったのがわかる。ノクスデリアスが食ってかかるように立ち上がったのを見て、紫萌は足を突っ張った。
 言い返したい事があるなら、好きに言ってくればいい。手足が出る喧嘩になったとしても、紫萌には受けて立つ心積もりがある。
(そうじゃなきゃ、張り合いがないわ)
 そう考えて、紫萌は少し、身構えた。そうする間もノクスデリアスの目は、じっと紫萌を睨み返している。
「そうやって、……紫萌はいつも、環黎サマの味方ばかりする。なんでそこまで無条件に、他人のことを信じられるんだか。俺にはわからないな」
 怒りのためか、それとも他に理由があるのか、ノクスデリアスの声が震えていた。しかしそれは、紫萌も同じだ。できる限り声のトーンを落としながら、それでもはっきりとした口調で返す。
「私にだってわからないわ! あなたこそ、どうしてそんなにひねてるの。どうしてそうやって、誰も彼もを疑うの!」
「紫萌になんか、わかってもらえなくたっていいさ! ああ、そうだよ。馬鹿だよ、俺は。同じ力を持ってるだけで、紫萌のことを仲間だなんて思っていた俺が馬鹿だった。紫萌は良いよな。環黎サマみたいないい人に拾われて、俺みたいにひねずに済んで、……」
「私、そういう事を言っているんじゃないわ!」
「じゃあ何が言いたいんだ! 俺みたいな、馬鹿にもわかるように言ってくれよ。同じ力を持ってたって、紫萌はそれを利用されることも、その力でこんな」
 ノクスデリアスの視線が、ぐっと鷏良に向けられる。鷏良が短く息を呑んで、紫萌の袖をそっと握った。
「こんな人形を見せつけられることだって、無かったんだろう!」
 紫萌の袖を掴む、鷏良の腕がびくりと震える。
 紫萌は言い返さなかった。ただノクスデリアスを強く見据えて、一方で鷏良の手を、そっと優しく離させる。
「そうね」
 一歩前へと進み出ると、逆にノクスデリアスが退いた。それでも構わずもう一歩、彼の方へと歩み寄る。
「だけど私、私だって」
 言いたいことは、いくらもある。
 それはこの塔に来たときから、ノクスデリアスが紫萌と同じように力を持った子供なのだと知ったときから、密かに思っていた事だった。けれど一度その言葉が口をついたら、後から後から弱気な言葉が溢れ出て、今の紫萌を飲み込んでしまう。そんな気がしてならなかった。だから今まで、口を閉ざしていたけれど。
「私だって」
 押し殺した、吐息混じりの声で呟く。再び涙が零れそうになったのを、紫萌は必死で食い止めた。ここで泣いてしまったら、また何も伝えられずに終わってしまう。
(そんなのは駄目)
 強く思う。しかし、それと同時に。
 紫萌達が身を隠した部屋のすぐ前を、幾人かの人物が駆け抜けていく音を聞いた。
 何かを探して、走る音。セーマが作ってくれていた壁のおかげで事なきを得たが、数人が一瞬足を止め、紫萌達のいるこの部屋を覗き込んでいった事は、音を聞くだけでも明らかだ。
「――進みましょう」
 堅い声でセーマが言い、部屋の奥にある排気口を指し示す。
「どうやら時間をとりすぎたようです。廊下を進むのは得策ではありませんから、向こうから」
「つくづく、天井裏が好きなんだ?」
 ノクスデリアスがそう言って、さっさと紫萌に背を向けた。先程の話はもう終わりだとでも言うように頑なに、紫萌と目を合わせようともしない。更には鷏良のことなど、視界にすら入れたくないのだとその背中が語っていた。
「行こう」
 そう言って紫萌が手を引くと、鷏良も「うん」と小さく頷く。しかし視線は俯いたまま、彼もまた、顔を上げようとはしなかった。
 セーマに手を貸してもらい、暗い排気口の中を通っていく。誰も、口を開かない。
(ここを出て、ゆっくりと話せる場所まで行ったら)
 できる限り埃を吸わないよう、浅く小さく息をする。
(そうしたら、一度ちゃんと話さなくちゃ。私の事も、ノクスの事も、話せばきっとわかりあえる。鷏良の事だって――)
 心の中で、独りごちる。
 一度ゆっくり、話し合う事さえできたなら。
 そう紫萌は考えていた。
 そうする時間は十分に、あるだろうと思ったからだ。

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