吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

014 : 暗闇の中の白 -2-

 声にはせず、心の中でそう叫ぶ。どうやら他の面々も声の主が誰であるかに気づいたようで、いつの間にやら動きを止め、階下へ耳を傾けていた。
「しかしこの先へ、オルビタ様の許可無しにお通しすることは」
「今までは散々、大した説明もなしに呼び付けたくせに。俺が望んで来た時だけは、無下に追い返すってわけか? それとも紫萌の歓迎に手一杯で、俺の為に割く時間は無いとでも?」
 聞こえて来た自分の名前に、紫萌ははっと息をのむ。
(探しに来てくれたんだわ。こんなに、血相を変えて――)
 声は出さず、ただ唇を噛みしめた。
 感謝の気持ちでいっぱいになる。あの卵の部屋で視た記憶を思い出す限り、ノクスデリアスにとってこの場所は、けっして自ら望んで来たいと思うような所ではないはずなのに。
 せせら笑うようなノクスデリアスの声は、募ってきた苛立ちを隠そうともしない。籠もった怒気を感じ取り、紫萌は焦れる思いに、強く両手を握りしめた。
(私、あなたのすぐそばにいるわ)
 そう伝えようと思っても、その声が届くことはない。せめてこの辺りに精霊達がいれば、どうにかして思いを伝えることができただろうに。そう思うと、余計にこの場がもどかしく思えてくる。
 地下へ降りてきてからというもの、奇妙なほどに彼ら――姿無き、紫萌の友人達の気配を感じないのだ。事実その事もまた、紫萌の不安を煽るのに十分な役目を果たしていた。精霊とは即ち、この大地を構成する者。恵みをもたらし、魂を潤す者なのだと環黎が話していたことを、紫萌はよく覚えている。
 そう。精霊とは世界を構成する者。この世界そのものなのだ。
 ならばここは、精霊の存在しないこの場所は、一体なんだというのだろう。
 そうこうする間にも、ノクスデリアスがあれこれ言い募る声が絶えず聞こえている。どうにか彼に、無事を伝えることはできないだろうか。考えあぐねた紫萌が顔を上げると、同時に下からもう一つ、聞き覚えのある声がした。
「おや、ノクスデリアス殿。自らお出でいただけるなど、珍しいこともあるものですね」
 薄暗がりの中でもはっきりと、セーマが表情を険しいものに変えたと知れた。
(トリオール……!)
 声は穏やかで聞き取りづらいが、人をおちょくるような馬鹿丁寧な言葉遣いは、確かに彼で違いない。紫萌は早鐘のように打つ鼓動の音を聞きながら、大きく一度、深呼吸した。手を胸に置き、静かに、呼吸を整える。何故あの男の声を聞くだけで、これほどまでに不安な思いをするのだろう。何故こんなにも、嫌な予感がするのだろう。自分自身に問いかけても、答えはついぞ、見つからない。
「トリオール! おまえ、また塔へ戻っていたのか」
「おや、お気づきではありませんでしたか。次からは戻る度に、ご挨拶に伺った方がよろしいでしょうかね」
 ノクスデリアスの言葉には明らかな敵意が込められていたが、言われた当人は一向におかまい無しだ。飄々と言い切ったその態度には、ノクスデリアスとは違い余裕が窺える。そんな様子へ余計に反感を持ったのだろう。ノクスデリアスの語気が、更に荒ぶったのがわかった。
「単刀直入に聞く。紫萌を一体、どこへやった?」
「さあ……。こちらへいらしたのは確かなのですが、応接間へお通しした所、いつの間にかお出掛けになったようでして。私共も、お捜ししているところです」
 言葉に笑みが、含まれている。
 セーマとティラが、そっと顔を見合わせるのがわかった。既に、脱走したことが知られているのだ。捜索が行われているのなら、この先の道程は確実に厳しいものになるだろう。
 しかし、それよりも。
 紫萌は足元の板を見下ろして、ぐっと奥歯を噛み締めた。探しに来てくれたノクスデリアスに、今すぐ無事を伝えたい。しかし、一体どうしたらいいのだろう。
(その人に、取り合ってはだめ)
 トリオールのあの目のことを、ノクスデリアスは知っているだろうか。今すぐ彼に背を向けて、この場を立ち去ってほしい。あの男は、トリオールは、危険であると紫萌の中の何かが警鐘を鳴らしているのだ。
 しかしその心の叫びの、なんて無力なことだろう。紫萌は臍を噛んで、それから。
 思わず、身を凍らせた。
「紫萌?」
 小さな声で、鷏良が言う。唐突にぴくりとも動かなくなった紫萌のことを、案じてくれているのだろう。「大丈夫よ」そう言って微笑もうとして、紫萌は小さく息をのむ。
 声が出ない。
 足元の板を見下ろした姿勢のまま、体を動かすこともままならない。気持ちの悪い冷や汗が、そっと頬を伝っていく。
(まただ)
 ほんの一瞬のことだ。しかし。
(今また、あの人の目が見えた)
「出掛けたって……どういうことだ。もしも紫萌にまで、何かするつもりなら……!」
 有無を言わさぬ、あの強い目。人を従属させるあの目に、天井板を貫いて睨み付けられているように思えて、ならなかった。ノクスデリアスの声が聞こえる。彼はまだ、この目に捕まらずにいるのだろうか。
 それならば、助けてほしい。つい先程までノクスデリアスの身を案じていたはずなのに、思わずそう叫んでしまいそうになる。
「そうお怒りにならないでください。そもそも紫萌殿は自ら地下へいらしたのですし、失踪されたのには私達も手を焼いているのですから。もっとも、どうしても信じられないとおっしゃるのなら――」
 ああ、いけない。紫萌の中の、何かが叫んだ。
 このままではいけない。
 守らなくては。
 守らなくては。
 自分を? それとも――
(危ない!)
 思うが早いか、紫萌は鷏良を抱き締めていた。
 セーマ達の、短く叫ぶ声が聞こえる。今まで紫萌の体を支えていた、何かが急に消えさった。天井板が破れたのだと気づくまでに、そう時間は要さない。
「紫萌殿!」
 セーマが伸ばした手へ辛うじて掴まって、天井裏からぶら下がる。しかし片手に鷏良を抱いたままの紫萌が、いつまでもそのままでいられるはずも無かった。すぐに手の力が緩み、なんとか掴み直そうとした所を、下から誰かに支えられる。
 「助かった」とはこれっぽっちも思わなかった。下から二人を支えたその人が、誰であるのかすぐに知れたからだ。
 紫萌を支えるその指先は、棒のように細く、それでいて冷たい。紫萌の脳裏にふと、いつか見た気味の悪い絵画の事が思い出された。
 それは肉のそげ落ちた指で大鎌を持ち、不気味に笑いかける死神の画だ――。
「そうです、ノクスデリアス殿。私の言葉が信じられないのなら、ご本人に聞かれてはいかがです」
 トリオールがそう言って、抱えた腕をそっと降ろした。地面へ降り立った紫萌の目の前に、目を見開いたノクスデリアスが立ちすくんでいる。彼は紫萌へ歩み寄ろうとして、しかし、すぐにそれをやめた。その視線は問うように、紫萌の隣に立つ鷏良へと向けられている。
「紫萌。……そこに、いるのは」
 愕然とした表情で、ノクスデリアスが口ごもる。観念したらしいセーマが降りて来て、紫萌の隣に控えたが、ティラの姿は天井の穴にも見当たらなかった。もしかすると何か策があるのかもしれないが、セーマ達にしても、こんな風に見つかるなどとは考えてもいなかっただろう。期待はあまり、しない方が良さそうだ。
「紫萌殿もセーマ殿も、おいたわしい。埃だらけではありませんか。そんななりで、一体どちらへ行かれるのです」
 台本を棒読みしたかのように、ただ綴られる言葉の羅列。
(いけない)
 このままでは、また囚われてしまう。あの目の力に、圧し負けてしまう。
「駄目よ!」
 誰にともなく、短く叫ぶ。それを聞いた鷏良が、はっとしたように瞬きしたのがわかった。言葉を失ったまま立ちすくむノクスデリアスへと駆け寄ると、間をおかず、強くその腕を引く。
 驚いて目を見開いたノクスデリアスと、視線があった。
(ノクス、今はここから逃げましょう)
 瞳に強く、訴えかける。ノクスデリアスがたじろぎながらも浅く頷いたのを見て、紫萌は自分の陰へ隠すように鷏良を抱き締め、トリオールに背を向けた。これ以上、あの男の術中にはまってはならない。今は一刻もはやく、この場を逃れなくては。
 しかし、一体どうすればいいのだろう。考えても、紫萌の思いつく策などたかがしれていた。それでも考えなくては。どうにかこの場を切り抜けなくては。そんな紫萌の肩を、ぽんと優しく、誰かがたたく。温かい手。それが誰のものであるのかなど、目で見て確認するまでもない。
「くそ。世の中みんな、馬鹿ばっかりだ」
 憎々しげに呟く、ノクスデリアスの声が耳元に聞こえてくる。そして同時に、心の中へ囁きかける鷏良の言葉も。
――紫萌。紫萌、目をつむって。
 その声にはっとなって、紫萌は鷏良へ視線をおろす。抱きかかえられた小さな体は、懸命に紫萌を支え、まっすぐに顔を上げていた。
――つむって。ノクスがそう言ってる。
 そんな指示は聞こえなかった。紫萌が聞き逃した訳ではなく、どんなに耳をすませていても同じだったに違いない。しかし紫萌は頷いて、無言のままセーマへ目配せする。鷏良はノクスデリアスの力で創られたのだ。紫萌には聞こえない彼の声も、聞き取ることができたのかもしれない。
 トリオールからは見えないよう、ぐっと強く、目を瞑る。
 直後。目を瞑っていてもわかる程の閃光が、強く辺りを貫いた。

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