吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

013 : 暗闇の中の白 -1-

 扉の開く音の後に、足音がひとつ、遠のいていく。紫萌はそれでもしばらく目を閉じていたが、少年に肩を叩かれたのに気づいて恐る恐る、瞼を上げた。
「もう行ってしまった……わよね?」
「大丈夫。もういないよ」
 先程までとはまた違った、しっかりとした優しい声。紫萌が見下ろすと、もう大分顔の位置も近づいた少年が心配そうに見上げていた。塔の人間独特の白髪に、血の巡る紅の瞳は変わらない。けれど背丈と共に肩まで伸びた髪を見て、紫萌は思わずこう呟く。
「……そうしていると、ノクスに似てる」
 初めて出会った時から、どこか面影があるとは思っていたのだが。それを聞いて少年は、にこりと笑って「僕は彼の能力で生まれたんだもの」と短く答えた。
 その事は、今では紫萌も知っていた。
 卵に触れた瞬間、紫萌には全てが視えていた。詳しい仕組はわからないが、塔の人間は検査だと言ってノクスデリアスをここへ呼び出しては、彼自身の能力と彼を守る精霊達とを利用して、あの卵を育てていたのだ。
 その目的はわからない。けれど。
(環黎様はこの事を、ご存知なのかしら)
 そう思うと、寒気がする。命を玩ぶ、こんな所業を知っていて、紫萌のことをこの国へ置き去りにしたのだとしたら――。
「紫萌?」
 少年の声が聞こえて、紫萌ははっとした。それから自分自身の考えを否定するように首を横へ振ると、胸元へ手をいれネロから渡された笛を取り出してみせる。トリオールがいつ戻ってくるかはわからない。ネロに助けを求めるのなら、急がなくてはならなかった。
「それ、なあに?」
「笛よ。ある人がピンチになったらこれを吹いてって、私にくれたの。きっと助けに来てくれるわ」
「……僕のことも、助けてくれるかな?」
「大丈夫。あなたの事も――」
 言いかけて、ふと言葉を途切れさせる。
「呼び名がないと、不便ね」
 紫萌がそう言って少年を見ると、相手はきょとんとして口をつぐむ。そうしてすぐ困ったような顔になると、「だけど、僕は」と呟いた。
「僕、名前がないんだもの」
 思った通りの言葉に頷き、紫萌は少し、考えこんだ。
 確かにそれは、そうだろう。今はこんななりをしていても、彼は本当なら、生まれたばかりの赤ん坊なのだ。そうでなくてもこんな地下で親もなく生まれたこの少年に、名前をつける者などいなかったのではあるまいか。紫萌はじっと少年を見て、彼と視線を合わせるようにわずかながら膝を折った。
「それなら、鷏良(しんら)はどうかしら」
「鷏良……。僕の、名前?」
「そう。元は私の、弟の名前なの。もう何年も会っていないけど、きっと今のあなたと同じくらいの歳になっているはずよ」
 紫萌がそう言って微笑むと、少年――鷏良も嬉しそうに顔を輝かせた。
「名前! 生まれて初めてもらった、贈り物だ」
 そう言ってそわそわと部屋を歩き回り、きょろきょろしてから輝くような笑顔で紫萌を振り返る。「塔の人間らしくない名前かもしれないけど」と続けた紫萌の言葉など、耳に届いていないかのようだ。
(他の人へ、先に名前をあげただなんて言ったら……。ノクス、きっとへそを曲げるわね)
 「名前が欲しいって先に言ったのが誰だったのか、紫萌はすっかり忘れてるんだ」そう言ってそっぽを向くノクスデリアスの顔が脳裏をよぎって、紫萌は少し、吹き出した。そんなことを思っていると、先程まであんなに不安な思いをしていたのが、今では違う世界のことのようだ。
 しかしその時、かた、と外から音がしたのを聞いて、二人ははっと身構えた。恐らくは扉の向こうに、見張りの兵士か何かが控えているのだろう。音はそれきりなかったが、紫萌は改めて自分たちの置かれた状況を思い出し、鷏良と互いに顔を見合わせた。
「喜ぶ続きは、後にするよ」
「その方が良さそうね」
 頷きあって、紫萌は手の中の笛を握り締める。「吹くね」と言って生唾を飲み込むと、鷏良がもう一度、大きく頷いてみせた。
 目一杯に、息を吸い込む。一度吹けば、笛の音は外の兵士にも聞こえてしまうだろう。部屋へ入ってきて、紫萌から笛を取り上げるかも知れない。ならばこの一度きりでネロの耳にまで届くよう、祈りながら吹くしかなかった。
 恐る恐る、全力で、小さな笛へ息を注ぎ込む。しかしそうしてみて、紫萌は愕然とした。音が、出ないのだ。
 鷏良と再び顔を見合わせ、もう一度思いっきり吹いてみる。それでもやはり、音が出ない。空気の抜けるか弱い音だけが耳を掠めるが、それだけだ。困り果てて肩を落とした紫萌の隣で、不可解そうに鷏良が言った。
「不思議な音がするね」
「音が出ていないのよ! 普通の笛は、もっと大きな音がするの」
「そうなの? 笛ってそういうもの?」
 恐らく鷏良は、笛がどんなものであるのかを知らないのだろう。そう結論づけて、紫萌は意味もなく辺りを見回した。そうしたところで事態が好転するはずもないのだが、呆然と立ち尽くしたままでいることはできなかったのだ。こうしている間にも確実に、オルビタ達がこちらへ向かってきているはずなのだから。
 トリオールも部屋を去った、今が唯一のチャンスだと思ったのに。紫萌は手に持ったままの笛を見て、今にも泣き出しそうなのを必死にこらえた。「ネロの嘘つき」と心の中で罵倒するが、それが相手に伝わるはずもない。
 しかし、その時だ。
 天井裏から何やら物音がして、紫萌ははっと頭上を見上げた。鷏良もそれに気づいたようで、そのまま引っ繰り返るのではというほど背を反らせ、天井をふり仰いでいる。成長した彼はいつの間にやら、先程のブランケットを体に巻き付け、紫萌が渡した上着を上手く組み合わせた装いをしていた。
「そこに誰か、いるの……?」
 扉の向こうの警備兵に聞こえないよう、小声で呟くように問うてみる。しばらく待っても返事はなかったが、その間も、天井裏ではごそごそと物音が続いていた。
 鼠にしては、どうにもおかしい。音が遠のく様子は一向になく、それどころか、手探りで何かを探しているかのようなのだ。
「鷏良」
 短く呼んで、手を繋ぐ。二人がそうして見上げていると、唐突に、ばこっと小さな音がした。
 音と共に、天井裏から埃が舞う。どうやら天井板の一部が持ち上げられたようだとすぐに気づいたが、二人は降ってくる埃から逃げるように、慌てて部屋の端へと移動した。それから再度、恐る恐る天井を仰ぎ見てみる。
 腕が一本、生えていた。
 舞い散る埃の中に、天井の穴から一本の手が生えている。紫萌は思わずぽかんとしてそれを見ていたが、鷏良に袖をひかれてはっとした。天井から生えた腕が、紫萌達を手招きしていたのだ。
 元は恐らく黒だったのだろう、埃まみれになったシャツを身につけた腕。紫萌は鷏良と顔を見合わせて、そっと穴の方へ歩み寄った。覗き込んでみると当然のことだが、穴の中に人影がある。
 その人影が一瞬灯りを持ち上げたのを見て、紫萌はぱっと表情を明るくした。
「セーマ!」
 小さな声で呼びかけると、相手はそれでも人差し指を口の前にたて、「しぃっ」と短く声をかけてくる。紫萌は思わず片手で自分の口を塞ぎ、もう片方の手で鷏良の口を塞いだが、弟同然と思っていた少年にはすぐ逃げられてしまった。
「でも、どうして?」
 囁くようにそう問うと、セーマが無言のままロープを垂らし、掴まるようにと促した。どうやら、天井裏へ上がれということらしい。紫萌は素直にロープを握りかけ、すぐにやめた。心細そうにその様子を見る、鷏良の視線に気づいたからだ。
――僕のことも、助けてくれるかな?
 そう尋ねた鷏良の顔は不安げで、今にも泣き出すのではないかというほど弱々しかった。そんなことを思い出しながら、紫萌はちらりとセーマを見上げる。
 置き去りにされる不安なら、紫萌もよく知っていた。鷏良にまでそんな思いをさせようだなんて、これっぽっちも思わない。
「鷏良。あなたが先に上がって」
「でも、紫萌。僕……一緒には行かない方が良いかもしれない。逃げるのに、きっと邪魔になるよ」
「そんなことないわ! 大丈夫。二人ともちゃんと逃げられる。ね、そうよね」
 紫萌が見上げてそう言うと、屋根裏の人物は困ったように苦笑した。しかしロープを鷏良の方へ移動させたところを見ると、どうやら了承してくれたのだろう。
 鷏良がロープで引き上げられるのを見ていると、もう一本、別のロープが垂れてきた。どうやら天井裏には、セーマ以外にもう一人いるようだ。紫萌がロープを掴み、上がって行くと、どこかで見た顔がある。
 セーマと同じに埃まみれで、顔は煤で真っ黒だ。しかし紫萌にはその人物が、いつかセーマと一所にいた塔の女兵士だとすぐに知れた。
「梁の上を歩いてください。じゃないと、天井が抜ける場所もありますから。私が先導します。ティラがしんがりを」
 セーマがそう言って、屋根の穴を綺麗に塞ぐ。すると途端に辺りは真っ暗闇になり、セーマが持つ灯りの他には何も見えなくなってしまった。それでもティラと呼ばれた兵士が「よろしく」とだけ短く言って、既に進み始めたセーマの方を指さしたのはわかる。後に続けということだろう。鷏良を先に行かせると、紫萌もすぐ後に進み始めた。
「どうして来てくれたの? ネロの笛は壊れていて、私、助けを呼べなかったのに」
 天井裏は狭い。横への広がりという意味では邪魔な柱があるくらいでいつまでも果てが見えないのだが、高さにあまり幅がないのだ。這って進むより他になく、時折背の高いセーマ達が、頭を打つ音が聞こえてくる。そんな音を聞きながら、紫萌はふと、そう問うた。
「ネロ?」
 セーマとティラ、二人から同時に聞き返されて、紫萌は慌てて言葉を呑む。ネロと彼らが別口ならば、迂闊なことを言ってしまったと思ったのだ。
 しかし紫萌が思うほど、二人はネロという名前を気にとめることはしなかったようだ。それもそうだろう。彼らはその人物が塔に紛れ込んだ、怪しいよそ者であることなど知らないのだから。
 その証拠にティラが、頓着する様子も見せずにこんなことを言った。
「紫萌殿のことは、環黎様から頼まれていたんです。いざという時には、何よりも優先してお守りするようにと」
 聞いて、紫萌は思わず歩みを止めた。それに気づいたのだろうセーマが振り返ったので、自然と灯りが紫萌を向く。紫萌はセーマが片手に下げたランタンを見ながら、小さく言った。
「環黎様が、そうおっしゃったの?」
 自然と心が明るく灯る。セーマは少し驚いたようだったが、それでもにこりと微笑んで、言った。
「はい。ある縁で環黎様と直にお話しする機会があり……、万一の時には紫萌様をお助けするようにと、ご下命いただいていたんです。本当なら、その『万一』が起こらないようにこそするべきだったのですが」
 そう言ってセーマは申し訳無さそうに項垂れたが、紫萌は慌てて、そして明るく、首を横へ振ってみせた。
(環黎様はやっぱり、紫萌をただ置き去りにしたわけじゃなかったんだわ)
 つい先ほど、少しでも疑いを持った自分に腹が立つ。紫萌はにこりと笑うと、「進みましょう」と真っすぐに言った。しかし鷏良に腕を捕まれて、反射的に動きを止める。
「声がする」
 鷏良が呟いたその言葉を聞いて、他の二人も口を閉ざした。聞き耳を立ててみると確かに、すぐ下から誰かの怒鳴る声がする。紫萌はその聞き慣れた声に驚いて、短く息を呑んだ。
「ここへ来たのはわかってるんだ。さあ、はやく通せ!」
 いつもの冷めた態度からでは、想像もつかない怒りの声。しかしだからといって、聞き間違えるはずもない。紫萌は口の中で小さく、怒鳴り散らすその人物の名を呼んだ。
「――ノクス!」

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