吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

012 : かみさまの影絵 -5-

 まるで、人形のようだと思った。
 風が吹けばその通りになびくだろう、細く柔らかな銀の髪も、丸くくりぬいた紫水晶をはめ込んだような瞳も、色の良い唇も、雅やかな振る舞いも、嘘のように張り付いたその微笑みも。
 全てが作り物のように完成されていて、だからこそ、これ以上なく気味が悪い。それがトリオールに対して、紫萌が下した評価だった。
「お、お話しする事なんてありません! はやく屋敷へ戻してください!」
 震える声でそう話す紫萌の腕をようやく放し、トリオールが屈託なくにこりと笑う。表情だけならば好意的としか思えないその笑みを見て、紫萌はぐっと言葉をのんだ。そうして目の前に置かれた古いソファへ、促されるまま腰を下ろす。周りを取り囲んでいた兵の一人が紫萌と少年を引き離そうと手を伸ばしたが、繋いだ手を握りしめ、それだけは頑なに拒んでみせた。
 紫萌はそっと少年を見て、それからトリオールへと視線を移す。
 今二人の周りを、トリオールを筆頭とした七人の警備兵が取り囲んでいた。
 警備兵達は皆一様に無表情で、一言も言葉を発しようとはしない。そんな様子を見ていると、ふと、ノクスデリアスの屋敷にいたふくよかな女中の事が思い出された。
(トリオールと呼ばれていたあの人だけじゃない。――この国には、違う意味でも、人形のような人が沢山いる)
 そうではないと思っていたセーマさえ、上官へ報告しにでも行ったのだろうか、さっさと姿を消してしまった。それも紫萌に一言も声をかけずに、だ。
「我々としても、大切な藍天梁国からのお客人をこのような部屋へお通しするのは心苦しいのですが……。なにせ、主であられるオルビタ様からのご命令ですので、ご容赦いただきたく存じます」
 隣に座る少年が、ぐっとトリオールを睨み付けたのがわかった。紫萌は押しとどめるようにその手を軽く引いて、立ち上がる。
「私はただ、雨宿りを――」
「雨宿り、ですか?」
 すかさず、トリオールが聞き返す。紫萌は一瞬言葉を躊躇ったが、それでもしかし、負けじと続けた。
「雨宿りする場所を、探していただけです。私たちがびしょ濡れなの、おわかりでしょう? もう屋敷へ戻してください。このままでは、風邪をひいてしまいます」
 そう言うのが精一杯だ。たいして話したわけでもないのに、緊張で息が荒くなる。しかし紫萌がやっとの思いで言ったのを聞いて、トリオールの口角がまた不気味につり上がったのがわかった。
 何か言わなくては。この男よりも先に、会話の流れを変えなくては。何か相手を言い負かすことのできる、うまい言葉はないか。思うが、そう考えた時点で勝ち目がないのは確実だった。
「それは失礼いたしました」
 トリオールがそう言って何か合図をすると、脇に控えていた兵士が即座に、持っていたブランケットを手渡した。彼はそれを優しげに紫萌へ羽織らせて、他の兵士達に向かい、短く「はずせ」と声をかける。どうやら「席を外せ」という意味だったようで、兵士達はぞろぞろと、言葉もなく部屋を後にした。最後の一人が扉を閉めようとするのを見て、紫萌は思わず「待って」と声をかける。
 その声が、相手に届いたかどうかはわからない。兵士は人形のような顔をしたまま、かちゃりと律儀な音をたてて扉を閉じ、去っていく。
 その無機質な音が、余計に不安をたきつけた。紫萌はぎゅっと口元を結び、せめて俯かないようにと自分自身を叱咤する。
 先程ノクスデリアスの屋敷を後にした時には、こんなことになるなんて微塵も思いはしなかったのに。そう考えると、今にも涙が零れてきそうだ。つい先程までは、昨日と変わらない平穏な日に違いなかった。朝食をとり、ノクスデリアスの屋敷を訪ね、そう、それから――
 それから、雨の中でネロと再会した。その時のことを思い出して、紫萌は小さく息をのむ。
――お姫さまがピンチの時には、必ず駆けつける。
(そうだ、ネロから笛をもらったんだ!)
 あの時はそんなものが必要になるだなんて思いもしなかったのだが、笛は今でも、首から提げて服の下へしまってある。あの笛さえ吹くことができれば、きっとネロが助けに来てくれるはずだ。
「怯えないでいただきたい。貴女とはずっとお話がしたいと思っていたんですよ、紫萌殿」
 紫萌の心中を知ってか知らずか、頭上からまた声がする。
 言われて紫萌はぎくりとした。下手に、希望を得たような顔をしてはいけない。今この笛を奪われたら、それこそ一巻の終わりなのだ。自分自身に言い聞かせ、紫萌は一歩退いた。
 それを見た少年が素早く立ち上がり、紫萌とトリオールの間へ割ってはいる。紫萌を守ろうと考えたのだろう。その姿勢には幼いながらに勇ましさがあったが、どうやら相手に威嚇として受け取られはしなかったようだ。トリオールは相変わらずの空々しい笑みを浮かべたまま、ただ「いつの間にか、すっかり仲良しになられて」と呟くように言った。
「私……私は、あなたとお話しするようなことはありません」
「おや、随分とつれないのですね」
「気分を悪くされたなら、申しわけありません。だけど」
 長身のトリオールを見上げると、実力の差を見せつけられているような錯覚に、視界がふらつく思いまでする。底冷えのする紫水晶の目は、兵士達がいたときよりもいくらか高圧的だ。
「今すぐ屋敷へ戻りたい、と仰いますか。それは無理な注文だ」
「なぜ」
「それは、貴女が一番よくご存知のはずでしょう」
 そう言って、トリオールが絞り出すような声で笑う。その次に続く言葉が容易に想像されて、紫萌は思わず身構えた。
 塔の人間は知っているのだ。何故あんなに貧しい村の村娘でしかなかった紫萌が、今の地位にいられるのか。紫萌に豊かな生活を与えたその能力が、どのような力であるのかを。
「貴女のその能力は、真実をどこまで視せたのですか」
 やはり、という思いにぞっとする。子供をあやすような甘ったるい声は、その奥に明確な狂気を孕んでいた。
――紫萌にそれ以上、近づくな!
 少年の叫ぶような『声』を聞いて初めて、相手が一歩ずつ歩みよっていたことに気づく。しかし気づいたからといって、紫萌に何ができるというわけでもなかった。
 トリオールはもともと切れ長の目を更に細めると、まるで障害物をどかせるだけだとでも言うように無感情に、少年のことを突き飛ばす。それほど強い力ではなかったようだが、大きくなったとはいえまだ七歳ほどの身の丈しかない少年は、強かに尻餅をついたようだった。
「酷いわ、何をするの!」
「酷いのは貴女の方だ。先程から、私の目をずっと避けておいででしょう。気づかれていないとお思いか」
「そんなこと……」
 見上げて、はっとなる。紫水晶の目はまるで餌を待ちかまえていた獣のようにしっかりと、紫萌の目を捕らえてはなさない。慌てて視線をそらそうとしても、もはや、遅すぎた。
「言ったでしょう、貴女と話がしたいのです。――いえ、単刀直入に言いましょう。貴女の能力がどこまで目覚めているのか、それをぜひともお聞きしたい」
「わ、……私の能力は」
 言いよどむ。
 トリオールの目から、視線を逸らすことができなかった。
 嘘を言って、通じる相手ではない。しかし紫萌が全て知ってしまったのだと聞けば、この男はどうするだろう。
 男の瞳が、「さあ」と促す。紫萌はぼうっとしていく視界を彷徨いながら、それでもなんとかこう言った。
「私の能力は――未来を薄ぼんやりと視せるだけです。それ以上のものは視えないし、この国に来てからは一度だって……」
「夢か現かもわからない、薄ぼんやりと見える幻影のような物。そう、始めはそんなものだったはずですね。けれど今は違うでしょう」
「そう、今は……いいえ。違うわ。あなたがどう思っていらっしゃるのか、紫萌にはわからないけれど、それは今でも変わらない」
 思考がかき乱される。頭の中がぐるぐると回るようで、段々と気分が悪くなった。しかしどうしても、この紫水晶の瞳から逃れることができないのだ。
「強情な人だ。はやく心を開いてしまえば良いのに。その方がずっと楽だ。それともこうして耐えていられるこの状況こそが、貴女の能力がその程度には目覚めているというあかしなのだと受け取れば良いのでしょうかねえ」
 真面目なふりをして呟く言葉が、得体の知れない喜びに笑んでいる。そうとわかっているのに、紫萌は微動だにすることさえ出来なかった。このままではいけない。いつか素直に、この目の問うこと全てへ答えるようになってしまう。そうは思っても、今や自分の意志では指の先すら動かせないのだ。
(そのうち息すら、出来なくなってしまいそう――)
 朦朧としながら、そんなことを思う。しかし、その時だ。
――シホウから、離れろ!
 頭の中へ直に聞こえて来た怒鳴り声に、紫萌は目を白黒させた。トリオールの側は聞こえていないのか、それとも完全に無視を決め込んでいるのか、足元で小さな拳を殴りつける少年になど見向きもしない。
 それを見て、紫萌はふと気づく。紫萌は今無意識に、トリオールの足元にいる少年を見ていた。
(視線が逸れた!)
 思うや否や態勢をかがめ、少年をトリオールから引きはがす。その間一度もトリオールの方を見ようとはしなかったが、彼が若干残念そうな声で「おや」と呟いた声だけは、紫萌の耳にも届いていた。
――シホウ。シホウ、だいじょうぶ?
「大丈夫。大丈夫よ。ありがとうね」
 自分自身へ言い聞かせるようにそう答えて、紫萌はぐっと目をつぶる。いつの間にやら紫萌の肩程にまで届く背丈になった少年の手をぎゅっと握り締めると、紫萌は目を瞑ったまま勇ましく、トリオールへ向き直った。
(あんな風に聞くということは、私の能力のこと、あまり知らないっていうことだもの。こうして言わないでいれば、きっと諦めてくれるはずよ)
 こんな些細な抵抗に、一体何の意味があるだろう。子供の浅知恵だとは思ったが、この場さえ切り抜けることができれば、ネロの助けを待つことができるのだ。
 トリオールが溜め息をつく声が聞こえてきた。やはりあの目さえ見なければ、先程のように惑わされることもないようだ。紫萌は殊更堅く目を瞑って、小さく唾を飲み込んだ。
「参りましたね。嫌われてしまったようだ。私はお近づきになりたかっただけなのですが」
 いけしゃあしゃあと、よく言ったものだ。それでも紫萌が黙ったままでいると、彼が苦笑するように息を吐いて、回れ右する足音が聞こえてきた。
「そろそろ、オルビタ様を迎えに行かなくては。続きはまた後程、ゆっくりと聞かせていただきましょう」

:: Thor All Rights Reserved. ::