吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

011 : かみさまの影絵 -4-

「かえった、ばかりの……」
 自然と言葉が、口から漏れた。そう、先程白衣の大人たちが確かにこう言っていた。
――幸い、孵ったばかりの赤子だ。
 弾かれたように棚から離れると、部屋の中央に置かれた大きな鉄の机に行き当たる。机がずれて錆っぽい音をたてたが、最早そんなものは、紫萌の耳に届いてなどいなかった。
 ぱり、と何かを踏みつけて、柔らかい物が砕ける感触に視線を落とす。足元に散らばったそれを見て、紫萌は顔を青くした。
 それは白銀の、卵の殻であった。棚に並べられた物と同じく人の頭ほどの大きさがあり、しかし今では破れている。棚から落ちて、割れたわけではないだろう。恐らく内側から破られたのだ。
――シホウみたいな人を、まってたんだ。
 頭の中へ直に囁いてくるような声に、紫萌ははっと視線を移す。すぐ脇には、紫萌をここまで導いた、あの少年が立っていた。しかし紫萌はそれを見て、思わず一度、目をそらす。
 真っ裸ではあまりにも、と、紫萌が始めに着せた上着。つい先程までは裾を引きずる程だったのに、今ではどうだ。踝が見える程にまでになっている。
「よびに、おおきく」
 たどたどしい口調で、少年がそう言った。先程までは一言も話そうとはしなかった、いや、話せる様子ではなかったのに、今ではそうする姿もいくらか自然に思えた。
 しかしどうやら、少年は初めて発した自分の言葉が気に入らなかったようだ。小さな手を一度自分の口元にあてると、その後は口を開こうとしなくなった。
――シホウを呼びに行くために、大きくなったの。ほら。ぼく、もうそんな小さなカラの中に入っていたようには、見えないでしょう?
 無邪気な言葉の中に、緊迫した何かがある。紫萌は堪えていた何かが溢れ出したかのように座り込み、ぐっと少年を抱き締めた。
 耐えられない。あの卵に触れた瞬間、全てが視えてしまった。
「ノクスは……ノクスはこの事、知っているの?」
――わからない。その人に会ったことはないもの。ぼくの魂は、その人の名前をおぼえていたけれど。
 少年が抱き締められたまま、恐る恐る紫萌の頬に触れる。紫萌は手を放さなかった。今放してしまったら、もう二度と届かないところへ行ってしまう。それを紫萌は、ずっと後悔し続けることになるだろう。そんな気がしてならなかったのだ。
(あの時と同じだわ)
 そう思うと、自然と瞳が涙に滲んだ。同じだ。あの時紫萌は抱き締める側ではなく、抱き締められる方であったけれど。思い出して、紫萌は強く目を瞑る。そう。紫萌も昔、こうして抱き締められた事があった。
(環黎様――)
 あの時、あの人は何を思って紫萌を抱きしめたのだろう。そんな思いがふとよぎる。目を閉じると今にもその温かみが、柔らかさが思い出されるのに、それが今の紫萌と同じ思いからの行動だったのかと考えると今ひとつ、確信が持てない。
――俺達のように力をもった人間を、利用する気もなしに育てる人間なんかいるもんか!
 紫萌はそっと首を横に振って、短く静かにこう言った。
「さっきの人達が、ここで……」
 喉が渇いて、うまく声が出ない。そういえばこの塔へ訪れた日に、ノクスデリアスから勧められて口にした、あの川の水は美味しかった。
「ここで、あなた達を造ったのね? ノクスの能力を利用して……!」
 全てが、視えてしまった。
 ここで何が行われていたのかも、何故ノクスデリアスが、ああまでもオルビタ達を嫌っていたのかも、今の紫萌には全てが視えていた。
 ぐっと奥歯を噛みしめる。
 助けてほしい、と、この目の前の子供は言った。当然だ。こんな事、いつまでも続けてはならないことだ。紫萌は一度大きく息を吸うと、抱きしめる手をそっとゆるめる。少年の目を見ると、紅の瞳は当然のように紫萌を見つめていた。
「教えて。私は何をしたら良い? 私はあなたに、何をしてあげることができる?」
 しかし言い終わるのを待たずに、少年がびくりと肩を震わせる。嫌な予感を感じ取った紫萌はすぐに少年から手を放し、完全に制止して聞き耳をたてた。かた、と紫萌が入って来たのとは反対方向にある、扉の奥から物音がする。
「様子を見てくる。他の卵まで孵っていたら、大事だ」
 聞いて紫萌は、迷わずさっと立ち上がった。手を引き、音をたてぬよう、しかし急ぎ足で二人は部屋を後にする。
 先程通った扉をくぐり、雨のにおいが充満する薄暗い階段の部屋へと躍り出た。しかし扉を閉じようとして、紫萌は思わずどきりとする。扉を閉じ終える直前に、キィと錆びた鉄の音が響いたのだ。
 そうしている間にも、向かい側の扉は開かんとしている。紫萌は覚悟を決めて手を止めると、扉を閉じきらぬまま物陰へと身を隠した。
 かつん、かつんと床を打つ音。足音が二つ、扉の向こうに響いている。わずかに開かれたままの扉はうっすらと隣室の明かりを漏らし、所在無さげに留まっていた。
「おい。この扉、鍵をかけていたはずじゃなかったか?」
 声がして、紫萌はぐっと胸をおさえた。今にも見つかるのではという緊張と恐怖に、視界が揺らぐ思いさえする。その様子を見たのだろう、少年がそっと紫萌の手を握り締めた。いざとなったら自分が守る、とでも言わんばかりのそのメッセージに、紫萌はいくらか口元を緩ませてみせる。
 そうしている間にも、キィと音をたてて、たった今くぐってきた扉が開かれた。紫萌の隠れた物陰からではよく見ることができなかったが、どうやら二人いるようだ。
 かちゃ、と小さく金属音。後に続いた聞き覚えのある声に、紫萌は思わずはっとした。
「錠前が落とされていますね」
(――セーマ!)
――大丈夫ですよ、紫萌殿のことは、我々がお守りしますから。
 紫萌が侵入者の話におびえているのだろうと勘違いして、そう微笑んだ気の良い警備兵の顔がすぐに浮かぶ。顔を見ることはできなくても、その声が紫萌にとってこの塔での、数少ない友人のものであることは確実だ。紫萌は深く息を吸い、早鐘のような鼓動の音をおさめると、再び耳を傾けた。
「内側にかけておいたはずですから、恐らく、錠前を破って外へ逃げたのでしょう」
「孵ったばかりの子供が、か? 馬鹿な。そんな知性があるなどとは確認されていないし、そもそも手が届かんだろう」
「しかしあの卵から孵る子供は皆、彼の――狭間の子供の力を継いでいるはずでしょう。ありえない話ではないかと」
 そう答える、声が堅い。近づいてくる足音を聞いて、紫萌は奥歯を噛み締める。止まるのではというほどに息を押し殺していると、余計に音が大きく聞こえた。
「しかし、なぜ扉が開いていたんだ。ここは、先程も見に来たはずだろう。半開きになっていたのでは、さすがに気づくはずだが」
「――それは、つまり」
「我々が見回りに来た後に、何者かがここを通ったのではないかということだ」
 紫萌と少年が、繋いだ手へ同時に手に力を込める。
 少しの間、セーマからの答はなかった。二人のどちらも動き出すような様子はなく、そのことが逆に紫萌の不安を煽っていく。
「では私が」
 居心地悪そうに、先に沈黙を破ったのはセーマだった。共にいるのは上司か何かなのだろうか。彼の踵を鳴らす音で、敬礼をしたのだと知れる。
「見回って参ります。カリス殿は先にお戻りください」
「ああ、頼んだぞ。例の赤子を見つけたら、直ちに連れ帰るように」
「承知致しました」
 片方の足音が、元の部屋へと戻っていく。取り残されたセーマが、小さく溜め息をついたのが聞こえた。
 明かりを採るためだろう、扉が更に開かれて行く。扇型の明かりが段々と、照らす角度を広げていくのが見えた。その光は今にも紫萌の爪先を照らしださんというところまで伸びて、しかし、そこで動きを止める。
 紫萌達二人が隠れているのは、古い書き机の下であった。
 この部屋には古くなり、使わなくなったのであろう机や椅子、物入れなどが乱雑に置かれている。部屋自体はそれ程広くもなく、階段に場所を取られていることもあって、ものによっては天井に届くのではというほどに積み重ねられていた。
 セーマの足音に耳を傾けながら、紫萌は何故反対側の机へ隠れなかったのだろうと後悔する。紫萌達の隠れた机は奥行きが狭く、扉があるのとは反対方向に椅子が詰まれているため、抜け出すためには一度、煌々と灯りのともる扉の方へと出なければならないのだ。隙を見て逃げることは、まず不可能だろう。
(どうかセーマが、気づかず通り過ぎてくれますように――)
 心の中でいくら懇願しても、それが相手に伝わるわけはなかった。かつん、かつんと音を立てながら、セーマがすぐ隣を歩いていく。彼の足音に驚いたのだろう。鼠がさっと、紫萌の目の前を通り抜けていくのが見えた。
 足音が近づき、遠のいていく。セーマの足音が階段の方へ向かっていったのに気づいて、紫萌は胸を撫で下ろした。
 しかし、その時だ。
「どちらに行かれるんですか? セーマ殿」
 聞いたことのない、男の声がする。
 同時にセーマのものとも似た足音が聞こえた事から察するに、恐らくは同じ軍服を着た警備兵だろう。鼻にかけた幾分高い声は、何もかもを見下すかのように高慢だ。
「これは……トリオール殿」
 対するセーマの声は堅く、どこか緊張すら感じられる。相手のために引き返したのだろう音を聞く限り、既にいくらか階段を上っていたようだ。
「貴殿は確か、オルビタ様の身辺警護を任されていたはず。何故このようなところに?」
「セーマ殿もお人が悪い。そんな風に、話をはぐらかせないでいただきたいですね。先に質問をしたのは私です。一体この雨の中を、どちらに行かれるんです?」
 トリオールと呼ばれた男の声は、冷ややかな笑いを含んでいる。ざり、と、埃っぽい床を踏みつける音が部屋に響いた。
「研究室の錠前が、内側から破られていたのです。何者が通ったのか、調査するために外へ……」
「何者か、ではなく、逃げた狭間の子がどこへ行ったのかを探しているのでしょう?」
「――既にご存じか」
「あれだけ派手に探し回っていれば、嫌でも目につきますよ。オルビタ様も存じていらっしゃる。もうじき研究室にいらっしゃるでしょう。私が申し上げたのは、そういうことではありません」
 トリオールの足音が、声と同じに高慢な音を含んで部屋に響き渡る。紫萌はそれがぴたりと止まったのを聞いて、声もなく息をのんだ。
「探し方が甘いと言っているのです。あなただってこんな雨の中、わざわざ傘もささずに歩きたくはないでしょう。――そういうわけです。出てきていただけませんかねえ」
 真っ先に視界に映ったのは、塔の人間の物とは違う、輝きを持った白銀の髪だった。
 底の見えない紫色の瞳。形だけは優しげに微笑む口元。この埃っぽく薄暗い部屋でしゃがみ込むだけの動作にも、奇妙な優雅さを感じさせる。
「ねえ、お客人」
 そう言って、作り物のように精巧な顔がにこりと笑う。
 また少し大きくなった少年が、紫萌の手をぎゅっと握りしめた。

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