吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

010 : かみさまの影絵 -3-

 精霊達がまるで紫萌から、紫萌の進む道から逃れるように去っていく。そんな様子を肌に感じながらも、紫萌は少年の後を追うのをやめようとはしなかった。
 雨脚は幾分おさまったとはいえ、絹糸のように細い雨は確実に紫萌の服を濡らし、少しずつ体温を奪っていく。紫萌は両手で自分を抱くようにし、肩を丸めて歩き続けた。その一方で少年はよちよちと危うげに、しかし何かを探すように、確実に歩みを進めている。そうしながら時たま、後をつける紫萌の耳にまで届く、高い声のくしゃみをした。
(このままじゃ、あの子、そのうち熱でも出すかもしれない)
 今すぐにでも捕まえて、暖かいところで体を拭ってやるべきだ。自分の屋敷へも、オルビタのところへも戻りにくいのは確かだが、こうしてただ後をついて行くだけでいることは、いい加減に限界だった。
(あの子を追っていけば、何かわかるかもと思ったけど――。もう、やめにしよう)
 第一この屋敷の違和感の理由を知ったところで、一体何ができるというのだろう。しかしそう結論づけた紫萌が、少年の腕に手を伸ばした瞬間のことだ。
「いたか?」
 少し離れたところから、なにやら声が聞こえてきた。紫萌は反射的に少年を抱え込み、手近な物陰に身を隠す。
 冷えきった、少年のひやりとした肌に触れる胸が、緊張にいくらか高鳴った。少年が紫萌から逃れようと足をばたつかせたが、そんなものはお構いなしだ。紫萌はしっかりと彼を抱き締めたまま、息を潜めて様子をうかがうことにする。
「急げ。こんな失態が知れたら、まずいことになる」
「しかし一体どこから抜け出したのか、皆目見当がつかないのです。これでは、捜すも何も」
「わかっている。だが今は、捜すしかなかろう! ……幸い、かえったばかりの赤子だ。そう遠くまでは行けぬはず」
 聞こえてきたその言葉に、紫萌ははっと息を呑んだ。始めは自分の事を捜しているのだろうかと身を潜めたのだが、どうやらそうではないらしい。紫萌が問うように少年を見下ろすと、ちょうど相手と目が合った。
 瞬きの少ない、まんまるで無垢な紅の瞳。視線は紫萌を向いているが、その焦点が定まっているのかは甚だ疑問である。
(あの人達が捜しているのは、あなたの事?)
 心の中で、そう問いかける。答えは勿論なかったが、少年はここへきて初めて紫萌の存在に気付いたとでもいうように、じっと紫萌を見つめていた。
 その目にはあどけなさ以外、不安も何も映ってはいない。紫萌はもう一度少年を抱き締める腕に力を込めて、物陰からそっと顔を覗かせた。
 先ほどの声の主だろう、数人の人影が、落ち着きなくあちこちを見回しながら何かを言い合っている。しかしどうやら話がまとまったようで、程なくあちこちへ散っていった。
(この子の親には、見えないわ)
 この少年の親にしては、皆いくらか歳をとりすぎている。その上彼らは制服のような、揃いの白い上着を身に着けていた。まるで薬師のような出で立ちだが、一体どういう人間なのかはわからない。ただ白髪の下に羽織った純白の衣服は、雨に濡れてもなお神秘めいて見えた。
 人々の姿が見えなくなったのを確認してから、紫萌は静かに立ち上がる。始めのうちは少年を抱いたままでいたが、すぐ腕に限界がきて、地面へ下ろすことにした。手を繋ぐと少年の側も、今度は素直に紫萌の手を握り返してくる。
(この子を連れて、屋敷へ戻ろう)
 そうでなければノクスデリアスの所でも良い。あのひねくれた友人は、何だかんだと言いながらもきっと力を貸してくれるだろう。この少年が一体何者で、どういった経緯でこの雨の中を歩いていたのかはわからない。しかし事情が何一つわからない今、この不穏な屋敷へ置き去りにすることはできなかった。
 たった今人々が後にした場所を通れば、その向こうに裏門があったはずだ。オルビタの屋敷の堅牢な塀を越えることは不可能だし、こうなれば人の少ない裏門から、どうにか抜け出るしかないだろう。
「一緒に行こう。もう少し、頑張れるよね?」
 紫萌が尋ねても、少年は何の反応も示さない。それでも紫萌は歩き始めた。建物に沿って辺りを見回し、ともすれば再び転びそうになる少年を支えながら。
 雨はいまだに降り続いていた。さらさらと涼やかな音をたてながら、細く、しかし確実に。
 裏門へ近づくにつれ、辺りに茂る草が濃くなって来た。裏門へと続く舗装された道もあるのだが、紫萌はあえてそこから逸れた。茂みを離れてしまえば身を隠すものもなく、人目につき過ぎる。その点こちらは姿を隠すのには打ってつけだったのだが、しかし足下がよく見えないため、進むのにも一苦労が要った。そうして道なき道を歩きながら、紫萌は思わず首を傾げる。
 茂みに足を取られるのは確かだが、足場はけっして悪くない。むしろ長年人に踏み固められて来たかのような、安定した感触がある。
 見下ろすと、少年がじっと紫萌のことを見上げていた。少年は先程から高い茂みが顔にかかるのにも構わずに、相変わらずの瞬きすら少ない静かな様子で、おとなしく紫萌についてきている。
 紫萌は繋いだ手に力を込めて、奇妙な道を歩き続けた。奇妙といえばこの少年の事もそうだったが、不思議と気味の悪さは感じない。紫萌がにこりと微笑みかけると、少年も、紫萌の手を握る力を強めた。
 その時だ。
 かつんという今までとは違う足音に驚いて、紫萌は思わず足を止めた。
 堅い音。自分自身の足音だ。草や土を踏んで鳴る音ではないから、何か落ちていたものを踏んだのだろうか。そう思いながらもう一歩踏み出して、紫萌は短く悲鳴を上げた。想定した場所に紫萌の求める足場がなく、危うくバランスを崩しかけたのだ。
 反射的に、握る手に力を込め過ぎてしまったのだろう。少年が一度怯えたように、体を震わせたのがわかった。
「ごめんね、びっくりして……」
 そう言いながら腰を折り、手探りで地面を探ってみる。そうしてみて、驚いた。
 地面に穴が空いている。
 それも、ただの穴ではなかった。草に隠れてその全貌は見えなかったが、穴は何やら鉄らしい金属で囲われており、矩形に切り開かれている。
(これ、階段だわ……!)
 間違いない。紫萌は思わず少年と顔を見合わせて、もう一度穴へと手を伸ばす。
 地下へと続く、暗い階段。入り口はそれほど広いものではないが、それでも、大人一人くらいは潜っていけるだろう十分な大きさがあった。鉄は些か錆びており、触れた右手にざらざらとした感触を与えている。草が生い茂っていることから見ると、今では使われなくなった入り口なのだろうか。
「こんな所に、隠すように……」
 一段足を降ろしてみると、すぐそこにひんやりとした空気を感じる。そのためなのか、それとも他にも理由があるのだろうか、紫萌は総気立つのを感じた。
 昏い、昏い闇へと続く古びた階段。それが紫萌の旺盛な好奇心をくすぐらないわけはなかったが、とてもではないが、好奇心だけで降りて行く気になるようなものではなかった。紫萌は一度降ろした足を戻して、身震いする。
 この昏さに、覚えがあった。
(オルビタ様を取り囲んでいた、あの闇と同じ色)
 誰がいるわけでもないのに、音を殺して生唾を飲み込む。紫萌がそうする隣で、少年は立ちすくんだままじっと紫萌を見つめていた。
 ふと、少年の目が他へ向く。紫萌もそれを追って視線を移し、はっと息をのんだ。
 誰かが、こちらへ向かって歩いてきている。声はなく、姿もまだ見えないが、草をかき分ける音だけは確実に近づいていた。どうしよう、と、言葉が口の中でから回る。この階段を見つけてしまったと、塔の人間に知られてはいけない。本能的にそう確信していた紫萌は、ぎゅっと拳を握りしめた。
(だって、これは)
 あの時と同じ闇。鬱屈とした影をはらんだ、あの時の闇の色なのだ――。
――こっち。
 耳打ちするような、声がした。恐らくは精霊の声だろう。先程までは紫萌を遠巻きにして離れていたのに、またいつの間に戻っていたのだろうか。そう思いながら辺りを見回して、紫萌は思わず首を傾げる。精霊らしき声は確かに聞こえたのに、近くにその気配は感じない。
――行こう。
 もう一度、声がする。紫萌は手をひかれる感触に気づいて、思わず目を瞬いた。
 例の少年が紫萌の手を引き、階段の方を指さしている。紫萌が戸惑っていると、急かすようになおも紫萌の手を引っ張った。
 そうこうしている間にも、足音は徐々に近づいてくる。さく、さくと草をかき分け、一歩一歩を踏みしめて歩く静かな音。それを聞くにつれ、紫萌の鼓動は高鳴った。取るべき行動は限られている。それでも、しかし――
 闇を見下ろし、誰にするでもなく小さく頷く。少年もその行動の意味を理解したというように紫萌を見つめ、握る手の力を緩めてみせた。
 唾を飲み込み、覚悟を決めると、紫萌は少年を抱えて闇へと続く階段を駆け下り始めた。階段自体はどうやら石で作られているようで、雨に濡れた紫萌の靴にも滑らない、確かな足場を与えてくれている。少年を抱える腕は重みにだんだんと力を奪われていったが、それでも紫萌は下り続けた。階段の長さがそれ程でもなく、開きっぱなしの入り口から外の灯りが漏れ入っているため、視界が真っ暗でなかったことは随分大きな助けになった。
 下りきり、息をつく間もなく、紫萌は辺りを見回した。先程の足音の主が今にも後を下ってくるかもしれない。そう思ったからだ。
 暗闇の中に壁のくぼみを見つけ、迷わずそこへ身を隠す。少年を抱きしめ、息を殺していると、頭上の方から物音が聞こえてきた。焦りや迷いのない、静かな足音だ。そのテンポや様子から、どうやら先程と同じものらしいと知れる。
 足音は階段を下りきったらしいところで、一度止まった。紫萌はびくりとして少年を抱きしめる手に力を込め、どくどくと高鳴る鼓動の音から逃れるように目をつむる。再び、音の主が歩き始めた。石造りの床に、こつん、こつんと音がする。それが心なしか近寄ってくるように感じられて、紫萌は体をこわばらせた。
 息を止め、歯を食いしばる。
 しかし紫萌がそうするすぐ隣で、足音の主が鉄の扉を開けた。扉の向こうからこぼれた光に紫萌の姿も一瞬影から浮かび上がったはずだったが、相手は足下で小さくうずくまる少女になど気づかぬまま、光に照らされた部屋へ去っていく。
 扉が完全に閉まりきって少ししてから、紫萌は大きく、安堵の溜息をついた。
 どうにか、この場はやり過ごすことができた。そう思うと、自然と肩の力が抜けていく。それを見て、今までされるがままになっていた少年も落ちつきなく身じろぎし始めた。紫萌が腕の力を弱めると、一人で立って伝い歩きする。とはいえ紫萌から離れる気はないようなので、紫萌もしたいようにさせておくことにした。それより息を整えて、ばくばくいう胸の鼓動を少しでもはやくおさめたかったのだ。
「ノクス。環黎様……」
 呟いた自分の声があまりに情けなくて、紫萌は再び溜息をつく。目元にやった手は、いつの間にやらにじみ出ていた涙に湿った。泣き出すつもりは毛頭無かったが、不安なことはこの上ない。
 そんなことを考えていると、少年がそっと、座り込んだままでいる紫萌の頬に触れてきた。雨に濡れた手は乾ききっていなかったが、先程とは違い、そこには小さなぬくもりがある。
「慰めてくれているの?」
 尋ねるが、少年は答えるそぶりすら見せない。しかしその一方で、先程と同じ不思議な声がした。
――助けて。
 精霊達とは違う、しかしそれと似通った声。紫萌がはっとして背後の壁を振り返ったのと、少年の小さな手がその壁を押したのとは同時だった。
 かすかに、錆びた鉄のこすれ会う音がする。少しずつ広がっていく目の前の光を見て、紫萌はようやく、自分の背後にあった壁も一つの扉であったのだと気づいた。
 先程の人影が去っていったのとは、反対方向へと続く扉。紫萌は光に包まれたその部屋を見て、唖然とする。
 白っぽい材質の石で囲われた部屋は広く、ノクスデリアスの書斎が三つは入りそうな大きさがある。部屋の中心部分には鉄で作られた机が整然と並べられており、壁という壁には、奥行きの狭い棚が何段も組まれていた。
 紫萌はふらりと立ち上がって、棚の上へ無数に並べられたそれを見、小さく息をのむ。
 自分の身体が芯から冷えていく、そんな錯覚がした。少年に手を握られて、思わず肩を震わせてしまう。
「まさか、そんな……」
 紫萌の目には今、その部屋で行われてきた全ての事柄が視えていた。
 がくがくと自然に笑い出す膝を懸命に押さえ、一歩、また一歩と部屋へ足を踏み入れていく。そうして紫萌は、棚の上の物へと手を伸ばした。
 まるく、すべすべとした表面は、見る者を惹き付けるような風趣に富んでいる。しかしそれも、上辺だけを見るならば、という話だ。
――助けて。
 声が聞こえる。紫萌は恐る恐るそれに触れてみて、愕然とした。
――助けて、僕たちを。
 声を追うように、足下に佇む少年へと視線をおろす。深い紅の瞳は、相変わらずまっすぐに紫萌のことを見つめている。
 棚の上へ無数に並べられたもの。それは人の頭ほどの大きさをした、白銀の卵だった。

:: Thor All Rights Reserved. ::