吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

009 : かみさまの影絵 -2-

「突然、申し訳ない」
 苦笑しながらそう言って、先を歩くオルビタが振り返った。紫萌は慌てて首を横に振ると、彼の後に続いて、薄暗い廊下を歩いて行く。
 オルビタの屋敷は、ノクスデリアスの所と同じくらい深い静寂に包まれていた。城のように広い屋敷だというのに、廊下をすれ違う使用人一人いやしない。紫萌が環黎と共に訪れた時には人も多く、特に違和感を覚える事もなかったのだが。
「塔での生活には、慣れましたか」
「はい。最近は雨のせいで、町を見て回れないけれど……。お借りした屋敷はとても居心地がいいし、ノクスデリアスとも仲良くなれました。ただ」
 紫萌はそこで言葉を切って、少し、考えた。口に出してそれを言ってしまって、本当に良いのだろうかと不安になったからだ。
「ただ?」
 オルビタに聞き返されて、紫萌はそっと視線を上げる。少し躊躇われるが、ここしばらく、ずっと気になっていた事だ。思い切って聞いてみるのも、良いかもしれない。
「あの、これも雨のせいかもしれないのですけど。町を歩いても、めったに人に出会わないんです。人が住んでいそうなお屋敷は沢山あるのに、だから……」
 いつの間にか、立ち止まっていた。廊下の途中に立ちすくんでしまった紫萌を気遣うように、オルビタも再び振り返り、立ち止まる。紫萌が続く言葉を選んでいると、先んじてオルビタが口を開いた。
「アルビノ、という語をご存じか」
「アルビノ?」
「そう、生まれつき体の色素が薄い者達の事だ。白い髪、白い肌、血の色が浮き出た赤い瞳――。塔の者達は皆、その体質を持ってこの世に生を受ける。それが私達の矜持ではあるが、厄介なものでな。自然環境に弱く、地形に恵まれたこの全知の塔より出る事もままならない。塔の中なら普通に生活をしても大した害はないはずだが、少しでも太陽の光にあたらないようにと、大抵の者は家へ籠りがちなのだ」
――馬鹿だな、紫萌は。
 唐突に、別れ際にノクスデリアスから言われた言葉を思い出す。
(あの時は、いつもの憎まれ口かと思ったけど)
 恐らくそうではないのだろう。
 塔の人間が虚弱体質だという事は、藍天梁で環黎から聞いていたはずなのに。紫萌は恥ずかしさに頬が僅かばかり紅潮するのを感じながら、おずおずと俯いた。戻ったら、ノクスデリアスに謝らなくては。そんな考えが脳裏を過ぎる。
「――紫萌殿は」
 オルビタに言われて、紫萌ははっと顔を上げた。それを見て相手は苦い笑みを浮かべ、言いづらそうにこう尋ねる。
「紫萌殿は、この国をどう思われる」
 大の男の、それも全知の塔を統べるこのオルビタの、らしくない様子に紫萌は思わず目を瞬かせた。堂々として風格のある彼が、まさか子供である紫萌に対し、そんな様子を見せるとは思わなかったのだ。
「どう、思う……ですか?」
 混乱に、自然と声がうわずってしまう。オルビタは慌てる紫萌を見ながらいくらか風格を取り戻し、落ち着いた声でこう続けた。
「国民は皆、非力で他国から己を護る力も持たず――事が起こるのを恐れるばかりに、対外的に交流を持とうともせず孤立するばかり。財産は先祖から代々授かって来たこの土地だけだが、それとて豊かなものではない。今は我々の特異を畏れる者も多く、侵略とは無縁に過ごしているとはいえ、それすら永遠に保証されるものでもないだろう」
 嘆くような声では無かった。だがそこに権力者の力強さは無く、長い戦いに疲れ果て、今にも崩れ落ちんとする戦士のような印象さえ窺える。紫萌は胸の前で手を握り締め、困惑しながらオルビタの顔を仰ぎ見た。
「あの……」
 何か話さなくてはと思うが、続く言葉が見当たらない。オルビタの漠然とした不安を理解する事はできても、慰めの言葉でもかけるべきなのか、かけるとするならどう言えば良いのか、少しもわからなかったのだ。
 しかしオルビタの方にしても、紫萌にそんなものを期待しているわけではないようだった。
 彼の視線は紫萌を向いていたが、どこか遠くを眺めるように上の空だ。紫萌はそれに鳥肌が立って、そっと一歩、退いた。
 片側は屋敷、片側は庭に繋がる広い廊下。初めて来た時にノクスデリアスと歩いた廊下と同じ造りだが、今のこの場所には鬱屈とした影が立ち込めているかのように思えた。
 先程までと、何かが違う。
 外に降る雨は相変わらずで、さあさあと小さく音をたてている。薄暗いのだって、考えてみれば先程からそうだったはずだ。ここ一週間、雨が降り続いたおかげで、まともに太陽の光が射していないのだから。
 もう一歩、退く。そうする間に、呟くようなオルビタの言葉が聞こえた。
「ノクスデリアスが覚醒するまで、待つ事など……」
 自問自答する声に、昏い何かが潜んでいる。紫萌が握る手に力を込めたのと、オルビタが紫萌へ手を延べたのとはほぼ同時の事だった。紫萌は短く息を飲んで、その手から逃れるように身をよじる。
「お前の目には、どう視える」
 言われて紫萌はぎくりとした。オルビタの言わんとする事には思い当たったが、まさか環黎が、そんなことまで話しているとは思わなかったのだ。
 気持ちの悪い風が、辺りを包んでいく。
(全知の塔に、風は吹かないはずなのに)
 この気味の悪さが一体どこから来るものなのか、それは紫萌にもわからなかった。ただ一つ確かなのは、目の前に立ったオルビタの様子がまるで憑物にでも憑かれたかのように、一変したということだけだ。
 心が震え、嫌な汗が伝う。
「お前の持った先詠みの能力は、この国の未来をなんと告げている」
 少しずつ、距離をとる。紫萌が一歩、また一歩と退いていくのを追うように、オルビタも緩慢な動きで紫萌の方へと歩み寄ってきた。しかしその動きはまるで操り人形のように、心を伴わない随分とおかしなものに見える。
「その能力は……」
 怖々ながら口を開いて、強くオルビタの目を見据えた。相手の視線は暗晦として、その焦点がどこに向いているのかすら判じがたい。
「その能力を使う事は、私の唯一の主である環黎様に禁止されています!」
 紫萌は一息にそう言うと、身を翻して元来た道を駆け出した。ここにいてはいけない、そんな思いがよぎる。精霊が耳打ちした事なのか、それとも紫萌自身の本能なのか、今の紫萌には区別がつかなかった。
「……紫萌殿!」
 途中で誰かに呼び止められた気がしたが、立ち止まらない。右へ走り左に進み、飛び出すように屋敷を離れる。傘も取らずに庭へと出たが、門が視界に入るところまで来て始めて、紫萌は走る速度をゆるめた。門番達が先程よりも数を増して、門の内外を見張っているのが見えたからだ。
 振り返ってみても、オルビタが追いかけてくる様子はない。紫萌は屋根のある建物の陰へ隠れるように座り込み、そうして初めて自分が汗ばみ、肩で息をするほど全力で走っていたのだと気づいた。
(――どうしよう)
 夢中で逃げてしまったが、紫萌はオルビタに呼ばれてここへ来たのだ。このまま自分の屋敷へ戻るわけにはいかないし、かといって、オルビタの所へ戻るのには抵抗がある。
(さっきの、なんだったんだろう)
 思い出そうとすると、自然と肩が震えた。
 始めに出会った時とは明らかに違う、虚ろな目。あの目はどこか遠くを見ているかのようで、その実、昏い光を持って紫萌のことをじっと値踏みするかのようだった。
 影のような、何か恐ろしいもの。しかしどこか、懐かしい。
 どこかで見たことがある、と紫萌は思った。だがしかし、それがどこで、いつのことだったかは思い出せない。
 明確な記憶ではない、そんな気がした。
 心が覚えている、心がそうと知らせている、これはそういう類の記憶だ。
 呼吸を整えるため、音を立てないようにそっと深呼吸をする。その時だ。近くの茂みの陰から、小さな音が聞こえてきたのは。
 がさり、と草が揺れる音。紫萌はぎくりとして音の方を振り返ったが、どうやらオルビタが追って来たわけではないようだった。ただ近くの茂みが、どうにも不自然に揺れている。紫萌は恐る恐る身を乗り出して、声をかけた。
「誰か、いるの――?」
 問いかけても返事はない。しかし、音は鳴り止まない。紫萌が息をひそめてじっと目をこらしていると、がさっという大きな音と共に何かが飛び出して来た。
 それを見て紫萌は、驚きのあまりに瞬きする。そこに現れたのは、真っ裸の子供だったのだ。
 紫萌が最後に見た弟の姿と同じくらいだから、恐らくは二歳ほどだろうか。塔の人間らしい白髪は雨に降られてびしょ濡れで、産毛の生えた額へ張り付いてしまっている。男の子だ。確認してしまってから、紫萌は気まずく目をそらす。
 しかし少年は紫萌がいるのにも気づいていないかの様子で、目の前を通り過ぎていってしまった。まだ歩き始めたばかりといった感じの、危うげな歩き方だ。案の定、紫萌が見ている目の前で、ぽてりと効果音でもつきそうな具合に前へ転がる。
「あの……だ、大丈夫?」
 そう言って助け起こしても、紫萌の方へ視線を向けようとすらしない。困惑した紫萌がそれでも放さずにいると、少しむず痒そうに身震いして、それから小さくクシャミした。当然だろう。この雨の中を、裸で、しかもこんなにびしょ濡れになって歩いていたのでは、風邪をひかない方がおかしい。
「これを着て。あなた、一体どこから来たの?」
 そう言って脱いだ上着を羽織らせ、ふと気づく。少年の鼻の下に何か、黒い煤のようなものがこびりついていたのだ。
 くしゅん、と小さく、またくしゃみ。紫萌はその奇妙さに気づいて、はっと息をのんだ。
 少年はくしゃみをするときも棒立ちで、勿論、口元に手を当てることなどしはしない。だから余計に、その異質さが目についた。少年がくしゃみをする度、粘液の代わりに煤のような何かが鼻の辺りを舞い、それが雨に濡れて肌へ張り付いていたのだ。
 紫萌が唖然としてその様子を見ている前で、彼は逃げるように紫萌を離れ、またよちよちと去っていってしまう。
(追いかけなくちゃ)
 自然と、心がそう呟いた。
 どこへ向かっているのかは、わからない。それでも紫萌は一度唾を飲み込むと、彼の後へついて行くことを決めた。
(オルビタ様のことといい、この子といい――この屋敷は、何かおかしいわ)
 一瞬、なぜだか脳裏にノクスデリアスの顔がちらついた。既にびしょ濡れになった紫萌の上着を羽織り、雨の中を歩いていく少年と彼が、どこか似ていたからかもしれない。紫萌は意を決して屋根の下から飛び出ると、歩いていく幼い少年の後を追いかけた。

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