吟詠旅譚
海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔
008 : かみさまの影絵 -1-
雨脚は幾分弱まったものの、辺りは未だ、曇天だ。
粛々と落ちる雨粒の中を、一人とぼとぼと歩いていく。先程ノクスデリアスの屋敷へ向かったときとは違い、ずいぶんと気が重い。紫萌はずいぶんと湿り気を帯びた裳裾を見て、少々顔を曇らせた。
(オルビタ様のところへ行く前に、着替えるべきかしら)
こんな格好で向かっては、無礼に思われるのではないだろうか。一瞬そんな思いが脳裏をよぎったが、結局紫萌は、そのまま向かうことにした。急ぎのようだと話も聞いたし、突然の事であるから、恐らく公式の用事ではないのだろうと思ったからだ。それにノクスデリアスには大人ぶってああ言ったが、正直なところ、今の紫萌には国の仕事などどうでも良いことのように思われた。
風のない全知の塔では、空から落ちる水滴がまっすぐに地面へ染みこんでいく。道の中心には煉瓦が敷かれていたが、地面を窒息させてしまうほどに敷き詰められたものでもない。紫萌は互いに混じり合い、笑い合う大地と雨の精霊を感じて静かに微笑んだ。人間のように明確な言葉を持たない、古くからの紫萌の友人達。今までに彼らの存在を認めてくれたのは環黎だけだったが、今ではもう違うのだ。
「私たちの、仲間……」
呟いた声が、期待に笑んでいる。くるりと指先で傘の柄を回すと、傘布にしがみついていた水滴が緩やかにはねた。
――ねえ紫萌、紫萌は秘密を守れる?
ノクスデリアスの言葉を思い出し、紫萌はあいた方の手を、そっと自分の口元に添える。このことは二人だけの秘密なのだ。誰にも言ってはならない。知られてもいけない。
(星蘭に話すくらいなら、良いかしら?)
恐らく、信じてはもらえないけれど。
弾む心を抑えながら、薄日の射す空を見上げる。天気雨というほどではないが、陽の光はうっすらと、紫萌の周りを照らしていた。
しばらく歩くと、噴水広場が見えてきた。建ち並ぶ家で囲まれた十字路の中心に、小柄な噴水がある、こぢんまりとした広場だ。噴水の水は雨が降り出した頃から止まっており、割と長い間、この広場には静かな昼間が訪れている。紫萌は噴水の脇を通り抜けようとして、ふと、足を止めた。
「お嬢さん」
小さな、かすれた声が聞こえてくる。紫萌が振り返ると、十字路の角に建った家の軒下に、一人の男が佇んでいた。
灰色のコートを着た、不思議な雰囲気のある男だ。声はしわがれているが背筋はぴしりとしているから、どうやら年寄りではないらしい。しかし鍔の広い帽子をかぶっているために、どんな顔をしているのかもわからない。
「私のこと?」
突然のことに少し驚いて、無防備なまま紫萌が言った。男は「ええ」と言葉を返すと、紫萌に向かって手招きする。
「傘に、入れていただけませんか」
「傘を持っていないの?」
「帽子一つでここまできました」
「雨は、もう一週間も前から降っているのに」
事実、男は少しも濡れた様子がない。怪訝な顔をして紫萌は言ったが、男は構わず手招きする。紫萌は少し迷ったが、結局、招かれるまま歩いていくことにした。不思議とこの男に、何か馴染みを感じたからだ。
(初めて会う人じゃないわ)
よく知る人物でもないが、一度、どこかで会っている。一体どこで会ったのだろう。紫萌が首を傾げながら近寄ると、すっと差し出された男の手が、紫萌の腕を優しく掴んだ。
ひんやりと冷えた指先が、紫萌の袖を引いていく。紫萌は驚いたが、しかし男の顔を仰ぎ見て息をのんだ。
「ネロ――!」
「お久しぶり、お姫さま」
にやりと笑ってそう言った声は、既に先程のしわがれたものとは違っていた。彼はあいた方の手で帽子の鍔をあげると、紫萌の頭をぽんぽんと撫でる。
「この前は、突然いなくなってごめんな。仕事の途中だったから急いでて――」
「そんなことより、怪我は? 熱は下がったのね? 星蘭も本当に心配していたわ。元気だったならどうして一月も経つまで、一度も顔を見せなかったの」
紫萌がそうまくし立てると、ネロは一瞬きょとんとした顔をして、「ごめんなー」と繰り返した。それから困ったように苦笑して、意味もなく帽子をかぶり直す。紫萌と星蘭はこの一ヶ月間、事あるごとに彼の行方を捜し、身を案じていたのだ。苦情を言ってやりたいのは山々だったが、彼の緊張感のない笑みを見ると、そんな気分も失せてしまった。
「だからこうして、会いに来たじゃないか」
「そうだけど、でも――!」
紫萌の口を手で塞いで、再びにやりと笑ってみせる。そうしてネロは辺りへ目配せして、紫萌と目線をあわせるように腰をかがめた。一方でその物腰の柔らかい仕草に、紫萌は思わず首を傾げる。
すぐ目の前に、ネロの顔がある。紫萌は口をへの字に結んで、ふと、以前星蘭に言われた言葉を思い出した。
――あれは、ネロじゃないわ。
ノクスデリアスの屋敷で鏡を見たあの日、屋根の上のネロを見て、星蘭はそう主張した。どう考えてもあの時の声はネロのものだったから、紫萌は半信半疑だったのだが、今になって急にその言葉を思い出したのだ。
――ネロは手にも足にもひどい怪我をして、熱まで出していたのよ。それが、あんなふうに動けるはずない。
「……。あなたは、本当にネロなの?」
強い口調でそう問うたが、彼は表情を崩さない。まるでその問いを、始めから予期していたかのようだ。紫萌が黙ったままでじっとネロを見ていると、彼は懐から何かを取り出し、それを紫萌に手渡した。
「これは、心配をかけたお詫びの印だ」
それは小さな笛だった。最低限にしか穴が開いていないためメロディを奏でることはできないが、先端に糸が通してあり、首から提げることができるようになっている。驚いた紫萌が眺めていると、ネロは一度渡したそれを取り上げ、紫萌の首にかけて笑った。なにやら満足そうな顔をしているが、紫萌には全く持って意味がわからない。それでも彼はにこにことして、それを服で隠すように促した。
「俺がネロでも、別人でも、関係ないさ。言っただろ? 俺達は絶対に、あんたの敵にはならない。恩だって返すよ。お姫さまがピンチの時には、必ず駆けつける」
「ピンチになったら、この笛を吹けっていうことなの? そんな事になるかしら」
「ご明察。念のためさ。深く気にすることはない」
金色の髪が、ふわりと揺れる。紫萌が黙って胸元の笛を見下ろしていると、ネロは顔を上げ、「さて」と小さく息をついた。
「もう行かなくちゃ」
「また『仕事』? ――ネロ。あなた一体、この全知の塔で何をしようとしているの?」
冷え切ったネロの手が、再び紫萌の頭を撫でる。紫萌はそうされると簡単になだめられてしまう自分を自覚しながら、再び口をへの字に曲げた。ネロだって十分子供じみた外見をしているのに、なんだかひどく大人のような、紫萌には手の届かない遠いところにいるような、そんな気分にされてしまうのだ。
「行くなら、約束をして」
「なんなりと」
調子の軽い声。紫萌はぐっとネロを見上げると、有無を言わさぬ様子でこう言いつのった。
「本物のネロに、怪我が完治するまで絶対安静にするようにと伝えて」
聞いて『ネロ』は瞬きし、その後すぐに吹き出した。「俺は偽物なんだ?」と笑いながら言うのを聞いて、紫萌は頬をふくらませ、視線を逸らした。
(本気で心配しているのに、そんなに大笑いしなくたって)
それとも本当に、今目の前にいる少年と始めに大怪我をしていた少年とは同一人物なのだろうか。確かに外見はうり二つだ。だがどうしても、精霊達が違和感を訴える。
「それより、急がなくて良いのか? オルビタの屋敷へ向かってるんだろ」
「どうして、そんなことを知っているの」
「さあねえ。勘ってやつかな」
まじめに答える気はないらしい。紫萌は笛を服の中へしまい込むと、傘を持ち直してネロへ背を向けた。数歩歩いてから振り返ると、苦笑しながら手を振っている少年の姿がある。
「また会おう、お姫さま」
「始めのネロは私のことを、『姫君』って呼んでいたわ」
紫萌は口をとがらせてそう言うと、軽く広場を駆けだした。それっきり、振り返らない。
始めに感じた違和感を、素直に口にしただけだ。人を食ったようなあの少年に、少しでも意趣返しができたと思えば紫萌も満足だ。ノクスデリアスといいネロといい、紫萌には秘密のことばかり。少しくらい仕返しをしたって、罰は当たらないだろう。
噴水広場を抜ければすぐに、ひときわ高い塀と大きな門が見えてくる。オルビタの屋敷へ来たのは始めの一度きりだったが、この塀さえ視界の端にとらえていれば、町のどこから来るのでも迷子になるはずはなかった。
挨拶をすると、門はすぐに開かれた。紫萌は案内の門番の後ろへつき、塀の中に造られた広い庭を静かに見回す。雨に濡れてはいるが、庭は一ヶ月前に環黎と別れた時から、少しも変わってはいなかった。
(全知の塔に四季がないというのは、本当だったのね)
藍天梁ならばこうはいかない。一ヶ月も経てば気候が変わり、この時期ならば紅葉した木の葉で庭が埋まっているはずだ。長雨が降る点では少し似ているかとも思っていたのだが、やはりここと紫萌の故郷は、遠く離れた別の場所なのだと再認識する。
案内の門番が広い庭を歩いていく。紫萌もそれに続きながら、ふと、庭に生えた大きな樹木を振り返った。
一瞬、そこで何かの影が動いたように思えたのだ。しかし目をこらしてみても、何かが動く気配はない。それらしい音も聞こえなかった。
(気のせいかしら)
真偽の程は、わからない。紫萌がそれを確認する間もなく、二人は屋敷の入り口までたどり着いてしまっていた。
重い扉が、静かに開いていく。そこには既にこの屋敷の主人が、愛想の良い笑みを浮かべて紫萌を待っていた。