吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

007 : 昏い光に、映るもの

 ざあざあと、重い音をたてて雨が降る。ぬかるみにできた無数の水溜まりの上を跳ねるように、紫萌は服が濡れるのにも構わず駆けていた。
 浅葱色の傘が、紫萌の指先に操られてくるくる回る。全知の塔で手にした傘は藍天梁で一般的に使われるのとは違い、布が張られ、可愛らしいレースで縁取られていた。紫萌も始めにそれを見た時は小躍りするほど喜んだものだったが、こうも雨が続くのでは、その喜びも半減だ。
 ノクスデリアスの家で例の鏡を見た日から、既に一月が経過していた。一週間前に降り出した雨はとどまるところを知らず、重苦しい雲で空を覆ったまま、紫萌達を湿気の中に押し込めている。
 そんな中、紫萌は今、ノクスデリアスの家へと向かっていた。
 門番に軽く会釈をし、入り口に置かれた傘立てに、浅葱色の傘をそっと刺す。物音に気付いて顔を上げると、ノクスデリアスがホールから延びた階段の上で、紫萌の事を見下ろしていた。
「ノクス!」
 紫萌がぱっと笑顔を浮かべ、目の前にいる少年に向かって声をかける。しかしそれに反して、ノクスデリアスは不機嫌そうな表情になって、ふいと部屋へ帰っていってしまった。紫萌は慌てて階段を駆け上がり、彼の後に続きながらこう話す。
「待って! そんなに怒らなくたって」
「『ノクス』は嫌だって言ったのに。なんか、手抜きだ」
 口を尖らせて一瞬振り返ったのを見て、紫萌は呆れて溜息をつく。紫萌より年上のはずのこの友人は、相変わらずこういう事を言っては困らせるのだ。しかし紫萌も手慣れたもので、濡れた服の端をつまみ上げると、何ということもなしにこう答えた。
「いいじゃない。愛称って、大体そういうものよ?」
「大体そういうもの、なんて、やっぱり手抜きだ。適当だ」
 いじけたように言い募る言葉を、片耳で適当に聞き流す。彼の癇癪に一々取り合っていては、きりがないことを今の紫萌は知っている。濡れた服の裾を摘まみ、ひらひら動かすと、水滴がいくらか床へと落ちた。
「屋敷の中まで、水浸しにして」
「水浸しって程じゃないでしょ。あなたが突然伝書鳩なんて遣わすから、私、急いできたのよ」
 紫萌が憤然と言い返せば、渋々ながら、ノクスデリアスも口をとじる。紫萌にしてみてもそうまでして言い負かしたいわけではないのだが、一度黙ってもらわなくては、いつまでも本題に入ることができないのだ。この一カ月で彼の扱い方を心得ていた紫萌は、とりあえずそこまで言ってからにこりと笑って、先程伝書鳩が運んできたメモを取り出した。
『見せてあげる。早く来て』
 メモを見ただけでは、何のことだかさっぱりである。だがノクスデリアスが伝書鳩を遣わすなんて、何か急ぎの用かもしれない。そう思って、雨の中をここまで走ってきたのだ。ただの悪戯である可能性もあるにはあったが、どちらにせよ長く待たせると、また余計にぐずりかねない。そうなったノクスデリアスの相手をするのは、正直なところ、面倒だ。
「そうか、外は雨が降っているのか」
「もう一週間も降ってるわ。ノクスったら、カーテンを閉めたまま屋敷から一歩も出ないんだもの。一体、何をしてるの?」
「ノクスは嫌だって言ってるのに」
「話をはぐらかさないで。そうやって、すぐに勿体ぶるんだから」
 紫萌が言うと、ノクスデリアスは悪戯っぽくにやっと笑った。幼い子供のようでいて、彼はけっして馬鹿ではない。始めはそのギャップに戸惑ったものだが、慣れてしまえば、彼の心を読むのもそう難しいことではなかった。
 古びた本ならではの匂いを充満させたノクスデリアスの書斎に入ると、置かれたソファへふわりと座る。どうせ待っていてもノクスデリアスから椅子を勧めてくれることなどなかったから、紫萌はいつでも、この部屋では好きなように振る舞うことにしていた。
「勿体ぶりたくもなるよ。ねえ紫萌、紫萌は秘密を守れる? 絶対に他人には……特に大人達には、知られちゃならない秘密なんだ。それを、今から見せてあげる。けど、その事は誰にも話しちゃだめだ」
 彼にしては珍しく、少年らしい無邪気な様子でまくし立てて、紫萌に同意を求めてくる。紫萌が「なんだかよくわからないけど、秘密だって事はわかったわ」と真剣な面持ちで頷くと、ノクスデリアスもいたく満足した様子で頷いた。
「それじゃ、見せよう。紫萌、この前の鏡のことは覚えてる?」
「忘れるはずないわ。過去の記憶を映し出すっていう、あの姿見でしょ?」
 ノクスデリアスが仰々しく頷いて、書斎から隣の部屋へと続く扉を開けてみせる。紫萌もそれに続いたが、部屋の中は薄暗く、そこに件の姿見があるのかどうかはよくわからない。カーテンが閉まっているのは書斎と同じだが、こちらには明かりを点してもいないのだ。昼間とはいえこの雨では、カーテンの隙間から漏れ入る陽の光もわずかなものである。
 紫萌はきょろきょろと明かりを探したが、ノクスデリアスは構う様子もない。さっさと部屋の中を進み、中央にあった山からさっと布を引いた。
 キラ、と一瞬、ほのかな閃光が瞳を貫いたかのように感じて、紫萌は思わず目を閉じる。しかしその奇妙な輝きは、紫萌に覚えがあるものだった。
(あの時の、鏡……!)
 窓から漏れるわずかな光を受けて、あんな風に瞬いたのだろう。紫萌が恐る恐る目を開くと、先日のままの姿見が、暗闇の中に昏い光を浮かべて立っていた。
「これで、何をするの? 誰かの過去を覗きに行くの?」
 平常心を装ってそう尋ねはしたが、無意識のうちに鼓動の音がはやくなる。またあの時のように叫び声が聞こえてくる気がして、紫萌はそっと、手を手で握りしめた。
「いいや。過去は過去だからね。知識を得るためには必要だけど、変化しない物に大した価値などないよ」
「それなら今度は、未来とか?」
 紫萌が言うと、ノクスデリアスは楽しそうににやりとする。その様子を見て紫萌はどきりとしたが、ノクスデリアスは笑顔のまま、首を横に振った。
「未来はさすがに見えないな。今後、俺の力が成長すれば、そういうことも可能かもしれないけど。――今この鏡にできるのは『限りなく現在に近い瞬間』を連続して投影することだけさ。例えば、ほら。もっと近くで見てご覧よ」
 手招きされて、紫萌は渋々姿見の方へと歩み寄った。本当はもうあれっきり、この姿見のことは忘れ去ってしまいたかったのだが、どうにもそういうわけにはいかないようだ。
 紫萌が姿見に触れられるほど近くまで行くと、ノクスデリアスはしたり顔で、その縁へと手をかける。途端、姿見の表面が水面のように揺らいだのを見て、紫萌は思わず退いた。
「大丈夫だよ。この前みたいに無防備に触れなきゃ、なんでもないさ」
「けど、怖いんだもの。今にもまた飲み込まれそうで」
「平気だって。覗いてみなよ。この風景に、見覚えはない?」
 姿見に近寄るのは躊躇われたが、それでも紫萌は顔を上げて、遠目に姿見を覗き込んだ。
 鏡の中に、部屋がある。まるで天井から見下ろしているかのような具合に、一つの部屋が映し出されていた。
 紅色のカーテンに、蜂蜜色の細かい模様が描かれた壁紙。窓際の小机には、名前のわからない黄色い花が生けてある。そしてその部屋に今、一人の少女が入ってきた。
「星蘭だわ――! これ、私たちが借りているお屋敷の部屋ね?」
 紫萌が再び姿見の方へ歩み寄りながらそう言うと、ノクスデリアスは得意げに「そうさ」とだけ答えてみせる。
 いったいどういう仕組みなのかと紫萌は更に近寄って姿見を覗き込んだが、ノクスデリアスが縁から手を離すと、部屋の様子は幻のように消えてしまう。代わりに映った自分の顔を見て、紫萌は思わず照れ笑いした。薄暗がりの中で姿見を覗き込む自分自身の姿が、先ほどまでの警戒心をすっかり忘れ去ったかのようだったのだ。
「見えた? 紫萌の屋敷のたった今だよ。まだ完全じゃないけど、もう少し操れるようになれば、ずっと遠くの様子だって見ることができる。世界中を自由自在に覗いてまわれるんだ」
「世界中? それって、すごいわ! ねえ、今のがノクスの力なの? 私にもできないかな」
「練習すれば、多分できるよ。この前だって、過去を覗けたのはこの鏡に触れたのが紫萌だったからだ。力を持たない一般人にとっては、こんなのただの鏡だけど」
 嬉しそうに話すノクスデリアスを見て、紫萌も思わず微笑んだ。しかしふと頭をもたげた疑問に首を傾げると、もう一度姿見へ視線を戻しながら問うてみる。
「だけど、ノクスは一体何を見たくて、こんな力の使い方を考えたの? あなたが力を使ってまで見ようとするものだから、余程のことがあるんでしょ?」
「気づいたの? 早かったね」
「だって今まで、誰かに聞かれちゃいけないから、なんて言って一言も力のことは話してくれなかったじゃない。急にこんなものを見せてくれるなんて、不自然だもの」
 紫萌が漫然と言い返すと、ノクスデリアスは一瞬きょとんとした顔をして、それから不意に笑い出した。紫萌の側はわけがわからず首を傾げたが、ノクスデリアスは「そうだね、確かに」と言ったきり、また笑っている。
 最近では他愛のない会話の端々でも、こうして笑ってくれることが多くなった。紫萌には今ひとつ、彼の笑いのつぼが判じかねたが、それでも大人ぶったすまし顔よりずっと似合っているとは思う。
「ご明察。実はこの鏡を使って、俺たちみたいな力を持った他の奴らを探そうと思ってるんだ」
「私たちみたいに……? まだ、他にもたくさんいるの?」
「たくさんはいないと思うけど……。でも、まだいるよ。この世界のどこかにね」
 聞いて、紫萌は気持ちが昂ぶるのを感じていた。自分のような力を持った人間が、他に何人もいるという。そう思うと、自然と心が湧いたのだ。ノクスデリアスは、彼らのことをどこまで知っているのだろう。もう既に、見つけた仲間はいるのだろうか。
 聞きたいことはいくらもあった。だがしかし、紫萌がそれを口に出す前に、書斎の方から扉をノックする音が聞こえてくる。
 二人はとっさに顔を見合わせ、鏡へ布をかけ直すと、そそくさと書斎へ駆け戻った。応接間の椅子に座り込むのと同時に、ノクスデリアスは何でもないかのように取り繕って、扉の方へと声をかける。
「お話中のところ、失礼いたします」
 入ってきたのは、この屋敷の女中だった。ふくよかな外見とは裏腹に、表情や愛想に乏しい女で、紫萌はまだ彼女の性格を掴みきれずにいる。時たま屋敷の中で鉢合わせることがあっても、口をつくのは事務的な用件ばかりで、まるで人形のようなのだ。
 今日もご多分に漏れず、何か用件を伝えるためだけに扉をノックしたのに違いない。その証拠に彼女はにこりともせず紫萌を一瞥すると、文書を読み上げるかのようにこう言った。
「紫萌様、オルビタ様がお呼びです。お急ぎのようで、お夕飯までにはお時間をいただきたいとのことでした」
 オルビタといえばこの全知の塔の最高権力者だが、初めてこの全知の塔へ訪問した日、環黎とともに目通りをして以来、一度も顔を合わせることのなかった人間である。紫萌が思わずきょとんとしていると、そのすぐ隣で、ノクスデリアスが怪訝そうに眉根を寄せた。
「オルビタが? 紫萌に、いったい何の用があるって?」
「そこまでは存じ上げません。ただ、紫萌様をお呼びするようにと」
 目を伏せるでもなく、感情の読み取れない声がただそう答える。紫萌は女中とノクスデリアスとを見比べて、困惑しながらも「ありがとう、わかったわ。すぐに向かいます」と伝えた。
 ノクスデリアスが面倒そうに手を払うと、女中は形だけの会釈をして、扉を閉めて行ってしまう。紫萌はその様子を見ながら、溜息混じりにこう言った。
「今日は、あちこちからよくお呼ばれをする日だわ」
「オルビタのところへ行くつもり?」
「それは、そうよ。紫萌は国使だもの。オルビタ様が何かご用があるとおっしゃるなら、行ってお話を聞かないと」
「きっと、ろくな用件じゃない」
「もしそうだとしても、行かなくちゃ。それが紫萌のお仕事なの」
 そう口にしてから、紫萌はもう一度溜息をつく。わざわざ目で見て確認するまでもなく、隣に立った少年が不機嫌そうに口をとがらせ、いじけているのだろうと思いこんでいたからだ。残念に思っているのは、紫萌も同じ事なのに。
 しかし、事実はそうではなかった。振り向いたそこに立つノクスデリアスは大まじめな顔をして、あごに手を当て、それらしいポーズで何事かを考え込んでいる。
「どうしたの?」
「なんでもないよ。紫萌が約束を守ってくれるなら、今はまだ、オルビタのところへ行っても問題ないはずだ」
「もっと後だと、何かあるっていうの?」
「なんでもないよ」
 そうは言っても、説得力に欠けることは確かだ。紫萌が頬をふくらませていると、ノクスデリアスは無愛想に「さっさと行ったら」と言い捨てる。
(ついさっきまで、あんなに機嫌良く話していたくせに)
 文句を言いたいのは山々だが、それは何とか飲み込んだ。どうせ苦情など聞き入れられるはずもないのだし、おそらく明日になれば、また何事もなかったかのように話しかけてくるのだろうから。
(それより、急ぎの用だって言ってたわ)
 紫萌が書斎の扉に手をかけると、「ねえ」とノクスデリアスが話しかけてきた。振り返ると彼は行儀悪くソファに寝ころんで、天井を見上げたまま、こんなことを言う。
「仲間が見つかったら、一番に紫萌に教えるよ。だから――そうなったら俺の代わりに、紫萌が会いに行ってくれない?」
 聞いて、紫萌は目を瞬かせた。まさかそんなことを言われるとは、思ってもみなかったのだ。
「二人で行ったらいいじゃない」
「馬鹿だな、紫萌は」
「また、すぐそういうことを言うんだから……」
 紫萌はそういってノクスデリアスを睨め付けたが、彼の側には既に取り合う気など無いようだ。見かねて紫萌は扉をくぐると、オルビタの屋敷へと向かうことにした。

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