吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

006 : 冷たい足音-2-

 目の前が眩むのを感じて、紫萌はその場へかがみ込んだ。見覚えのある、ノクスデリアスの書斎でのことである。得体の知れない寒気が、いつまで経っても抜けてくれない。紫萌が両手をこすり合わせていると、その隣で鏡に布を掛け直しながら、ノクスデリアスがこう言った。
「紫萌は、気づくといつも泣いてるな」
 あいかわらずのつっけんどんな言い方ではあったが、その口調はどこか優しい。紫萌がしゃくり上げながらノクスデリアスを見上げると、彼も額に玉のような汗を浮かべて紫萌を見ていた。
「驚いた? 人の物を勝手に触るから、こういうことに……」
「今の人は誰? 私、もしかして大変なことをしてしまった? あの人ね、自分の胸にナイフを刺したの。はやく助けなきゃ、死んじゃうわ――!」
 紫萌がまくし立てるのを聞いて、ノクスデリアスは驚いたように息を飲む。彼はしばらくそうして立ちすくんでいたが、そのうちようやく紫萌の言葉を聞き取り終えたかのように、目をぱちぱちと瞬かせた。それからふと、笑い出す。目に涙をためた紫萌の目の前で、大笑いする。
 それは今までのような、悪戯っぽい笑みではなかった。表面だけの笑みでもなかった。
 しかしその表情は、笑っているにもかかわらず、今にも泣きだしそうだ。
「あの、ごめんなさい。私何か……」
「大丈夫。紫萌、君が鏡の中で見たものは記憶だよ。どこの誰の記憶を見たのかは知らないけど、鏡の中で起こることは全て、過去のことだ。もし紫萌が見た記憶の持ち主が、自分の手で……自分を殺したとしても、それは紫萌のせいじゃない」
「だけど、それじゃあ……あの人のことは、もう助けられないっていうこと?」
「まだそんなこと言ってるの?」
 馬鹿馬鹿しそうに、ノクスデリアスが言う。きっとまた、「過去を変えられるわけないじゃないか」などとこき下ろされるに違いない。紫萌がそっと俯くと、驚いたことにノクスデリアスまで床へ座り込み、くしゃくしゃと紫萌の頭を撫でた。その仕草は随分大人びていて、まるでいつもの彼ではないようだ。
「どうしてそんなに助けたがるの? その人と重なって、自分の事のように錯覚したから?」
「違うわ。……ううん、それもあるかもしれないけど。その人は何か、とても辛いことがあって……一人じゃ抱えきることが出来なくて、本当に苦しんでいた。独りぼっちで。そんなの、嫌よ。悲しいのは嫌なの。紫萌はただ、助けたかったの」
「どうして」
 そう言ってノクスデリアスが、まっすぐに紫萌の目を見つめた。全てを見透かすような深い紅の瞳に、今、紫萌が映っている。
(応えたい)
 その目に映った心の声が、聞こえてくるかのようだ。紫萌はその目をまっすぐに見つめ返して、はっきりと言った。
「環黎様が、紫萌を助けてくれたから。あなたがどうしてか、環黎様を嫌ってるのは知ってるわ。だけど本当だから、私はそう答えるしかない。でもね、きっかけはそうだったけど、今は私自身が誰かを助けたいの。自分が受けたものを、誰かに返したいの。だから紫萌は……」
 今でも見慣れない、紅の瞳。その目はいつだって自信に満ちあふれているかのようで、実は常に何かを恐れていたのだと、今の紫萌にはよくわかった。
 彼も、鏡の中の人と同じ種類の思いを抱いている。あの泣きそうな表情が、彼の本当の顔なのだ。
「紫萌は、あなたのことも、助けたい」
 言ってから、紫萌は思わず頬を赤らめた。たった今助けられたのは、自分自身だったことを思い出したからだ。
 目の前に座るノクスデリアスは驚いたように口を開けて、しかし、すぐに微笑んだ。それはいつもの悪戯っぽい笑みだったが、その彼らしさの中に、これ以上ないほどの喜びが隠れているのに紫萌は気づいていた。
「それじゃあ、始めにさ」
 ノクスデリアスが言った。
「俺に、名前をくれない?」
「名前? あなたには、ノクスデリアスっていう名前があるじゃない」
「そうなんだけど、他に。アルトみたいに呼びやすい名前がほしいんだ」
 聞き覚えのない名前に紫萌は首を傾げたが、続いたノクスデリアスの言葉に吹き出して、不思議に思ったことは忘れてしまった。恐らくはノクスデリアスの友人なのだろうと、たいして気に止めなかったのも一つにはある。
「だって、紫萌はピンチの時にしか名前を呼んでくれないんだから」
「ええ? そんなつもりは、なかったんだけど……」
「でも、そうじゃないか」
 ノクスデリアスが頬を膨らませたのを見て、紫萌が笑う。「じゃあ、考えてみる」というと、つられたノクスデリアスまでもが年相応に笑い出した。
 普段なら静寂に包まれているのだろう書斎に、今、二つの笑い声が響いていた。二人は直に床へ座り込んで、笑った。互いに身につけた高貴な服も、ここにこうしている自分たちの立場も、傍らに立ち続ける布を被った姿見も、今は少しも関係なかった。
「そうだ、うっかりしてた」
 笑いやみ、しかしそれでも以前よりは随分明るい表情で、ノクスデリアスが言った。
「紫萌、何か用事があってきたんだろう?」
「そうだわ。あなたの部屋があんまり不思議なものを見せるから、うっかりしてた」
 紫萌はそう言ってからふと気づいて、「ノクスデリアスの部屋が、」と言い直す。
 その時ふと窓の方へと視線が行って、紫萌は思わず瞬きした。窓枠の辺りに、一瞬影が映ったように思えたのだ。
「紫萌?」
 ノクスデリアスが怪訝そうに言うのを聞きながら、紫萌は窓へと駆け寄った。同時に窓に映った影が身動きして、かた、と小さく音がする。
 ほんの一瞬視界に映った色に、紫萌は思わず息を飲んだ。しかしその間に、事態をおおかた把握したらしいノクスデリアスが窓を開ける。紫萌は窓から身を乗り出すと、言った。
「――ネロ! ネロなの?」
 辺りを見回すが、既に姿は見当たらない。
 一瞬視界の端で捕らえた色は、紛れも無い、紫萌に見慣れない金色の髪だった。紫萌が窓から手を放し、出口へ向かおうとすると、何も聞かないままノクスデリアスが後に続く。
「そうよ。元々ね、このことをあなたに相談しようと思って来たの」
 紫萌が走りながらそういうと、ノクスデリアスが呆れたように鼻で笑う。しかしその笑い方は、今までよりはいくらか友好的だ。呆れながらも、紫萌の行動を承知した、そう言った感じの笑い方だった。
「つまり、今朝方警備兵たちが言っていた侵入者っていうのを、君が匿っていたわけだ」
「凄いわ! 私、まだ何も言っていないのに」
「だって、君は誰でも助けるんだろ? 人を疑うって事を知らないみたいだし。いかにも、やっていそうじゃないか。それよりまずいぞ。鏡を見られたかもしれない」
 二人が向かったのは紫萌の屋敷であった。途中で何人か、塔の人間にすれ違う。紫萌は走りながらも軽く会釈をし、ノクスデリアスは見向きもしないでただ走った。
 屋敷の階段を駆け上がると、ちょうど廊下の窓を拭いていた星蘭が、驚いた顔で何事かを尋ねてくる。紫萌があやふやな返事をすると、そこから何かを察したようだ。何も聞かずについてきた。三人は星蘭の部屋へと急ぎ、音をたてて扉を開く。
 開けっ放しのその窓辺で、カーテンが涼しげに揺れている。ネロの持ち物をおいていた机の上には何もなく、同じように、ベッドの中はもぬけの殻だ。
「紫萌。これ、一体どういうことなの?」
「紫萌にもわからないの。ねえ星蘭、最後にネロに会ったのは、いつだった?」
「ついさっきよ。私、水差しを換えに来たの。その時はまだ、ここにいたわ」
 星蘭が答えた、その時だ。
「やあ、お二人さん。ありがとな」
 窓の外から声がする。ノクスデリアスが目配せしたので、紫萌も頷いて、すぐに窓へと駆け寄った。
「手当、助かったよ。この恩は、いつか必ず返す」
 屋根の上からだ。紫萌が窓から身を乗り出すと、そこへ堂々と立った人影が見える。逆光のために、顔はよくわからない。しかし光に透けたその髪の色は金色で、声は確かにネロの声だ。
「あんまり世話になるのも悪いし、俺はもう行くよ。けど、これだけは覚えておいて。俺達は、絶対にあんたの敵にはならない。約束する。……それじゃ、さよなら。お姫さま」
 人影は言うことだけ言って、早々に身を翻し、屋根を伝って立ち去って行く。紫萌が唖然としてその様子を見ていると、いつの間にか隣へ来ていた星蘭が、訝しげに首を傾げた。
「今のがその、ネロって奴か?」
 ノクスデリアスの問いに紫萌は頷いたが、星蘭は首を横に振る。紫萌が驚いていると、彼女はこう話した。
「そんなわけないわ。ネロは手にも足にもひどい怪我をして、熱まで出していたのよ。それが、あんなふうに動けるはずない」
 言われてみれば、確かにその通りだ。ノクスデリアスは神妙な顔をして、何事か考えたあとでこう言った。
「仲間が迎えに来たのかもしれないな。その辺りを探してみよう。何者なのか、手掛かりくらいは見つかるといいんだけど」
 ノクスデリアスの言葉に頷いて、三人は屋敷の周りをあれこれ調べることにした。
 しかし実際には、日が落ちるまで探してもネロの姿は見つからなかった。勿論その仲間の姿もだ。
「また、明日探してみない?」
 紫萌が言うと、ノクスデリアスも素直に同意する。紫萌はその様子を見て、ふんわりと微笑んだ。

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