吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

005 : 冷たい足音 -1-

 紫萌は窓の外を見て、ふう、と小さく溜息をつく。
 もう昼時だ。ノクスデリアスはあの後どうしただろう。そう考えると思わず、溜息がこぼれるのだった。
 隣で布の擦れる音がする。紫萌が視線を落とすと、ネロが横になったまま、じっと紫萌のことを見ていた。
「ごめんなさい。大きなことを言ったのに、応急処置しかできなくて……。傷は、まだ痛む?」
「いや、随分楽になった。姫君と、あともう一人いただろう。あんたの友達かな? 二人には感謝してる。溜息つかせるようなことになって、ごめんな」
 言って、ネロが緊張感無くあくびする。紫萌は思わずくすくすと笑って、それから明るく、こう話した。
「あなたのための溜息じゃないわ。あなたのことは大丈夫。風が言っているもの。あなたは、風の精霊に好かれているわ」
「精霊……? 占い師の勉強でも?」
 ネロが首を傾げるのを見て、紫萌はにこりと微笑んだ。これ以上は答えられない。
 紫萌はネロを取り囲んでいる風の精霊達が笑うのを聞いて、立ち上がると、扉のノブに手をかけた。ちょうどノックの音が聞こえたので、開けてやる。立っていたのは、食事を持ってきた星蘭だった。
「お昼。紫萌と部屋で食べるからと言って、持ってきたわ。三人で分けましょ」
 
「私、やっぱりノクスデリアスのところへ行ってみる」
 紫萌がそう言うと、星蘭はにこりと笑って、頷いた。紫萌が環黎に引き取られ、しばらく身を置いていた学舎で出会って以来、星蘭は紫萌の無二の親友でもあり、姉のような存在でもある。どことなく大人っぽいその笑みに、紫萌はいつでも勇気づけられた。
(ネロの事も勿論あるけど、私、やっぱりあの人とも仲良くなりたいもの)
 昼過ぎの道は、いつのまにやら曇り始めていた。もしかすると、雨でも降るのだろうか。精霊達が耳打ちしたげに紫萌の周りを舞っていたが、紫萌は何も問わなかった。
 雨が降るとか、風が吹くとか、そういうことは、他の人々と同じように降った時、吹いた時にそうと知ればいい。環黎が昔、紫萌にそう教えたからだ。雨が降ったなら屋根を探し、それがなければ濡れて帰ればいいのだと。
 ノクスデリアスの屋敷へは、自由に出入りしてもいいことになっている。紫萌が門番に会釈をすると、「この時間は、書斎にいらっしゃるはずです」と教えてくれた。
 この屋敷の中は、いつも静寂に満ちている。紫萌は自分の足音がひたひたと鳴るのを聞きながら、一つの扉の前で足を止めた。
 重い木材で作られた、ノクスデリアスの書斎の扉。それはいかにも重厚で、訪れる者になにがしかの威圧感を与えている。紫萌は緊張する胸を抑えて、こんこんと軽くノックをした。しかし、返答はない。
 紫萌がこの部屋に入ったのは一度きり、それもノクスデリアスに連れられてのことだったが、場所は間違っていないはずだ。紫萌はもう一度、今度は少し力を込めてノックしてみる。やはり、中からの答えはなかった。
 紫萌は首を傾げて、そっと辺りを見回した。この屋敷には他にもたくさんの部屋があるが、食堂と寝室、そしてこの書斎以外はどれも使っていないと聞いている。しかし門番達が何も言わなかったことを考えれば、屋敷の中にはいるはずだ。
(それなら、……部屋で待っていれば、すぐに来るわよね)
 紫萌はノックしていた腕を下ろして、そっとドアノブへ手をかけた。紫萌が押すと、重厚な扉は音もなく、意外にあっさりと開いて行く。紫萌は部屋の中央に佇み、周りを見回してみた。
 彼の部屋だと言うわりには、落ち着きのある、静かな部屋。扉のある位置と、窓のある側面以外に巡らされた本棚には、隙間なく本が並べてある。そのどれもが紫萌の読んだこともないような、難しい内容のものばかりだ。中には古代語で書かれたものまであり、読もうと思ってもタイトルすらわからないものもあった。
 机の上を見ると、ノクスデリアスはつい先程までここにいたらしい事が知れた。机の上には数冊の本が開かれたまま置いてあるし、カップに入った珈琲も、まだ温かかいようだった。窓も開けっ放しだ。
 紫萌は窓寄りに置かれた机に手をやって、ふと、部屋の片隅に置かれた何かに気がついた。
 大きさと形から察するに、どうやら姿見のようだ。しかしそこには大きすぎる紺の布が無造作に被せられており、整頓された部屋の中ではどうにも違和感を呈している。加えて布があまりに適当にかけられているために、今にもずり落ちてきそうだ。
 かけ直そうかと紫萌が手を伸ばすと、唐突に空気が張り詰めた。精霊達が脅えたのだ。その気配に紫萌も驚き、思わず布を取り落とす。恐ろしく研ぎ澄まされた金属がぶつかり合うような高音が聞こえて、紫萌はとっさに鏡を振り返った。
 予想もしなかった光景に、息を呑む。
 紫萌の身長程もあるだろう姿見の表面が、まるで水面かのように歪み、波打っている。その波紋の中にも何かが揺らいで映っているが、少なくともそれは、紫萌の姿ではなかった。
――どうして!
 悲嘆にくれた叫び声がして、紫萌は思わずはっとした。疲労と乾きに掠れ、もはや男女の別もつかないようなその叫び声は、あまりに切実だ。紫萌は心臓を鷲掴みにされるような衝撃で棒立ちになる。
(誰なの)
 恐る恐る、問うてみる。答えはないのに、叫び声は止まらない。
 紫萌は一歩姿見に近づいて、もう一度、尋ねた。
「あなたは、誰なの?」
 はっきりとそう口にした、その瞬間のことだった。
 ばん、と破裂するような音がして、紫萌は何かに吹き飛ばされた。いや、どうやらそう感じただけのようだ。どこかに叩きつけられた様子もなければ、それによる痛みもない。
 しかし紫萌は恐る恐る目を開いて、そのまま茫然とする。
 何故って、今や紫萌の目の前にあるものはと言えば、ただ、ただ、ひたすらに続く荒涼とした大地だけだったのだ。
「大丈夫か?」
 背後からした声に、紫萌の表情が勝手にほころぶ。紫萌は内心ぞっとし、意志に関わらず立ち上がった自らの体に驚いて、生唾を飲み込んだ。
 長い手足。大人の体だ。どう考えても、紫萌のものではない。ならば、何故。
「大丈夫。少し疲れただけだから。……本当に、少しだけ」
 紫萌の口から出るはずのない声が答えた。あの叫び声と、同じ声だ。紫萌は脅えて、辺りを見回す。
 今の紫萌の目は、まるで話に聞く千里眼のようだった。ほんの少し首を回しただけで、遠い山の向こうも、その先の村も、まるでそこにいるかのように見て取ることができた。けれど大地はどこも疲れ果て、獣たちは飢えて森に横たわり、人々は嘆くことすら投げ出して、ただただ何かに恐れるように顔を隠して生きている。
(酷い……。ここは一体、どこなの?)
 心の中で呟いても、返事は無い。そうするうちにも、紫萌を包括した体が、一歩前へと足を踏み出す。すると間の空間を全て切り取ってしまったかのように、次の瞬間、紫萌は薄暗い洞の中にいた。
 冷たい、薄暗い洞。紫萌の体はそこに立つと、自然にあふれ出る涙を拭った。
「――ごめん」
 誰に対する謝罪なのだろう。わからない。洞の中はひんやりと冷たく、じわじわと体温を奪って行く。
 体温を奪って行くのは、洞の冷気だけではなかったかもしれない。実際紫萌は、この体の震えが何であるのかに気づいていた。
(怖い)
 いつも背後に感じているものがある。常にそれが、紫萌を脅かしているのだ。
 得体の知れない何かが、唸りを上げ、その牙を今にも突き立てようと目を光らせている――。
「嫌だ!」
 叫んだ。叫んで、走り出す。そうしている間に沢山の山を越え、海を渡り、町を通り抜けた。その間も声は叫び続け、体は走り続ける。あまりの辛さに、心身共にやせ衰えていく。しかしまるでそれを望んでいるかのように、体は叫び、走っていた。
(やめて、もうやめて! このままでは、あなたが死んでしまうわ!)
 紫萌が必死に呼びかけても、その言葉は届かないようだった。
 一体何だというのだろう。
 幾度も夜が来て、朝を迎えた。それでも心は満たされない。しかし段々と夜の時間が長くなっていくことに、紫萌は気づいていた。
 夜が段々長くなり、闇が少しずつ濃くなっていく。いずれは陽の光を飲み込んで、全てが闇に還るだろう。その様子が、今では手に取るようによくわかるのだ。
 何故だろう。
 目を閉じてしまったからだ。
 目を開くことが出来たら、
 きっとまた、あの日のような太陽を見ることが出来るだろうに――
 はっとして目を見開いて、紫萌はいつの間にか地平線まで続く草原に立っていたことに気づいた。
 周りには誰もいない。紫萌は手に武器を持ち、じっと虚空の一点を見つめていた。
――さあ。
 どこかから、楽しげな声が聞こえる。歓喜と憎悪にうち震えた声。おぞましい、けれど親しげな声。
――さあ。
 その声を聞くのが、たまらなく辛くて仕方ない。何故だろう。この声を聞く度に、紫萌の胸がこれ以上ない程に疼くのだ。
 腕が、小振りのナイフを握り締める。心が、相手に対する殺意で満たされる。
「この手を取れば、私は救われる」
 紫萌の意志とは関係無しに、その誰かが呟いた。
「この手を取れば、苦しまずに済む。だけどその代わり、沢山の人が苦しむだろう……」
 ざわめく。この体を動かしている、紫萌ではないもう一つの心が、今その迷いにざわめいている。
 答えのない迷い。不安、苛立ち。すがる思いと、裏切りを恐れる思い。様々な感情が混ざり合って、心が定まるのを妨げているのだ。
(やめて!)
 紫萌は叫んでいた。何故そう思ったのかはわからない。それでも紫萌は、懸命に叫んだ。
(やめて、やめて! こんなの、悲しすぎるわ……!)
 腕が上がる。ナイフが持ち上がり、それから、
 唐突に、心が晴れた。同時にその切っ先が、紫萌の胸を向いた。
 紫萌は驚いて息を呑む。紫萌の体はおかまいなしに、小さく笑ってこう呟いた。
「――生きて、いたかったな……」
(だめ……!)
 紫萌が有らん限りに叫んだ、その時だ。
――紫萌! 紫萌、どこにいるんだ!
 呼ぶ声に、紫萌はすがるように返事をした。今を逃せば、もう誰も来てはくれないだろう。その確信があったからだ。
(ここにいるわ! ここに! お願い、助けて!)
 どこかから差し伸べられた手を、紫萌は夢中で掴んだ。紫萌の心が、誰かの体から滑り出る。しかしその瞬間、今までには感じたこともないような痛みが襲いかかり、思わず腕の力が抜けた。
――駄目だ、振り返るな! 手をしっかり引いて。さあ!
 声に言われるまま、紫萌は奥歯を噛み締め、握力を失いかけた手に力を込める。
「助けて、ノクスデリアス!」

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