吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

004 : 非日常との遭遇

 散らかった飼葉の跡を見て、紫萌は顔を青くした。いくらか気分が落ち着いて、ノクスデリアスの屋敷から戻る途中のことだ。
 先程あの少年と別れた、小さな袋小路。紫萌がかけた飼葉は散らかっていて、少年の姿は見えなかった。紫萌は混乱する頭を抱えて辺りを見てまわり、ふと、地面にこぼれた血の滴を見つける。
 あの少年のものだろう、まだ乾ききってはおらず、新しいものであると見て取れる。その血痕へ近寄ると、すぐに次のものが見つかった。
 紫萌は靴の裏でその跡を踏み消しながら、途切れ途切れに続く跡を追う。途中で血の跡は消えてしまったが、そのころには紫萌も、彼の向かった場所がわかっていた。
 裏道を使っての遠回り。けれどこの道が向かっている先は、確実に紫萌の屋敷だ。
 屋敷が見えるところまできて、紫萌は辺りを探しまわる。それでもしかし、少年の姿は見つからなかった。
 もしや、警備の兵に見つかってしまったのでは――。
(紫萌が、赤ん坊のようにいつまでも泣いていたからだわ)
 やっとのことで止まっていた涙が、再度まぶたのすぐ裏側にまで迫ってくる。しかしその時にふと、草木の鳴る音が聞こえた。
「姫君、こっち」
 先程聞いた声がして、紫萌はすぐに、振り返る。屋敷の裏門の、すぐ近くの植え込みだ。紫萌が慌てて駆け寄ると、少年が目を細めて指を口の前に置き、にやりと笑ってこう言った。
「すまない。お言葉に甘えることにした」
 表情は疲れ切っていたが、人懐っこそうなその顔が、今ではまっすぐに紫萌を向いている。紫萌は表情をゆるめかけたが、すぐに引き締め、少年に向かってこう言った。
「良かった。警備の兵が、あなたをさがしているのよ」
「俺を?」
 少年は驚いたように口笛を吹き、瞬きした。しかし自分自身の身振りに傷が痛んだのか、すぐに苦い顔をする。
 こんな時に、口笛なんて。紫萌は辺りを見回して人がいないことを確認すると、少年に手を差し伸べた。
「ともかく、来て! 手当をしなきゃ。肩を貸すわ。歩ける?」
「人目を忍んでここまで這って来たことを考えれば、お安い御用さ」
 少年は静かに笑って、「ネロといいます」と加えた。
「姫君、世の中物騒なんだ。名前も知らないやつを、自分の屋敷に招いちゃいけませんね」
 余裕ぶった口調とは打って変わって、額に浮かぶ大粒の汗はあまりに痛々しい。紫萌はどう見ても自分より長く生きているだろう少年の頭を小突いて、憤然とした態度でこう話した。
「環黎様ならこう言うわ。目の前の怪我人一人助けられないのでは、相手の名前を聞くどころか、己の名を名乗ることも恥と思いなさい、って」
 
「――紫萌、やっぱり無茶よ」
 星蘭が困り切った顔で部屋から出てきたのを見て、紫萌もついに眉尻を下げた。
 ネロを星蘭の部屋に寝かせ、簡単にだが一通りは応急処置をした後のことだ。
 ネロの事については、星蘭にだけ話をして手伝ってもらった。藍天梁から来ている他の人間にも話をしようか迷ったが、追われる身の上の人間を匿ったのだ。事の次第を知る人間は、少ない方が良いだろう。そう考えての判断だ。
「私達二人の秘密にするなんて……。大人にも、言っておいた方が良いんじゃないかしら。何かの拍子に知られてしまったら、大変なことになるもの。それも、警備兵に追われているだなんて」
「だけど、星蘭も怪我を見たでしょ? 私、あの人に助けると約束したの。塔の人に知れたら、きっと連れていかれちゃう。だから、どうにかして誰にも気づかれないようにしなくちゃ」
 紫萌が今にも泣き出しそうなのを見て、星蘭は困ったようにだが、笑った。
「わかってる。藍天梁の人間は、必ず約束を守るんだもの。環黎様がここにいらしても、きっとお許しになるわ。――だけど紫萌。それでも私達には味方が必要よ。できれば全知の塔の人がいい。その方が、警備兵の動きがわかるから」
「味方? 全知の塔の人って言っても……」
 紫萌は星蘭の目を見て、はっとした。星蘭が誰のことを言っているのかに、気づいたからだ。
「ノクスデリアスのこと? 無理よ。あの人、意地悪ばかりなんだもの」
 今日も喧嘩したばかりだ、と言いかけて、口をつむぐ。その時のことを思い出すと、急に苦い思いが込み上げてきたからだ。
――俺達のように力をもった人間を、利用する気もなしに育てる人間なんかいるもんか!
 そう言い放って、駆けていってしまった彼のことが思い出される。紫萌だって確かに傷ついたのに、あの時のノクスデリアスの表情を思い出すと、悪いことをしたのではという気にさえなるのだ。
(だけど、環黎様は本当にそんな方じゃないもの)
 それを、ノクスデリアスにもわかって欲しかっただけなのに。
 ネロのための洗濯物を抱えて、星蘭が階段を降りて行く。紫萌は星蘭の部屋へ入り、寝息をたてて眠っている、ネロの顔をそっと覗き込んだ。
 やはり傷が痛むのか、苦い顔をして深く目を閉じている。左足に二カ所、右腕に一カ所、刃物で切られたような切り傷があった。星蘭と手伝って着替えはさせたが、巻いた包帯には、既に血がにじみはじめている。少し熱もあるようで、額には冷やしたタオルを乗せていた。
 上着と武器は、少し離れた机の上に置いた。
 細身の剣と、鍔の無い短刀が数本、ひとつかみの薬草に、旅道具。忍び込む時に使ったのだろうか、先に重りのついたロープもある。それらの全てが、どこで作られたものであるか知らせないようにと工夫されていた。
 もうあどけない子供ではないけれど、大人にもなりきれない幼さのある顔立ち。どこか他国の密偵なのだろうが、人を傷つけるような人間には見えなかった。
(私は、ネロを助けるわ。環黎様が、何も知らなかった私を助けてくださったように)
 
 天女と別れ、村に戻った幼い紫萌が見たものは、荷車に積まれた食料、衣服、そして村の人間たちの喜び溢れる表情だった。
 村人たちは涙を流して、環黎様、環黎様と地面に頭をすりつけている。
 あの貧しい村が、こんなに沸き立って。紫萌は家へ帰りかけた足を止め、村の中央にある広場へと急いだ。
 広場とは言っても、それほどの面積があるわけでも無いただの空き地だ。村人たちが普段そこへ集まって集会をするものだから、広場、と呼んでいるだけの場所である。紫萌がその端に立つと、荷車に群がる大人たちの隙間から、広場の中心に立つ女性の姿が見えた。見覚えがある。やはり、あの人だ。
(環黎さま――あの人が、この国の女帝さま……)
 天女のように思えたその人がこの藍天梁国の女王であることを知り、紫萌はやけに納得した。
 悲しげな微笑みを浮かべ、佇む天女。その視線は常に村人たちを向き、どこか申し訳なさそうに目を細めている。
「環黎様、ありがとうございます」
「これで、この冬を越すことができる」
「ありがとうございます、本当に……」
 天女はどうやら、紫萌の言うことを信じてくれたようだ。牛車が倒れた形跡も無ければ、環黎が怪我をしたような様子は見られない。
 紫萌は天女に歩み寄ろうとして、やめた。一つには大人たちをかき分けて進むのが困難だろうからというのがあったし、もう一つには、歩み寄ったところで何がしたいわけでもなかったからだ。
 少し離れたところから、眺めていられるだけでいい。自分とあの人の間には、大きな隔たりがあるのだから。
 日も落ち始め、荷車の上のものが段々少なくなってくると、広場に群がる人々の数も減ってくる。紫萌はそれまでただぼうっと立ちすくんでいたが、ふと、いつまでもここにいても仕方がないことを思い出した。あまり遅く帰ると、夕飯をもらえなくなってしまう。
 紫萌が広場を立ち去りかけると、ちりん、と涼やかな音がした。天女の衣服についていた、鈴の音だ。
 しかし紫萌は振り返らずに、家へと急いだ。家の中では紫萌の弟が大声で泣きわめき、母親が忙しそうに、手にいれた食料をしまい込んでいた。
 どこかで酒でも飲んだのだろうか。赤ら顔をした父親が帰ってきて、何よりも先に紫萌を叱りつけた。何故、何ももらってこなかったのかと言うのだ。聞けば他の子供達は、環黎様から直々に菓子や飾り物などをもらってきたのだという。紫萌が後で行ってみると言うと、一行はもうとっくに村を発ってしまったと言ってまた叱られた。
 いつもよりいくらか豪勢な夕食を食べ終えると、紫萌は弟を寝かせつけ、自分も薄い布団にくるまり、眠った。両親が紫萌の枕元で、何事かを話し合っている。けれどその中身がわかる前に、紫萌は夢の中へと落ちていった。
 ――その翌朝のことだ。水を汲みに行くため早起きをして、紫萌は父親の持ち帰ってきた荷物の中に、桃色の可愛らしい服があるのを見て驚いた。
 紫萌は生まれてこの方、父親から何かをもらったことが無かった。身につけている服ですら、母親が近隣の家からもらってきたものばかりであることも知っている。紫萌の家には、布を買うような余裕も無かったからだ。
(……でもどうせ、これだって売るために持って帰ってきたんだろうな)
 紫萌のためとは思えない。それでも、紫萌は水汲みのための桶を置いて、服を手に取り、自分にあててみた。
 上と下で、一枚ずつ。シャツは襟元がしまってぴしりとしており、スカートは丈が長く、幾重にもひだができている。
 紫萌はにこりと笑って一度だけくるりと回ってみると、すぐに着物をきれいに畳んで、元通りの場所へと置いた。水汲みが遅れては、また叱られる。もう行かなくては。
しかし桶を手に取るのと同時に背後から物音がして、紫萌は思わず息を呑む。
「そういう服を、着たいか?」
 父親の声だ。紫萌は慌てて振り返ると、ぎゅっと桶を持ち直し、真一文字に口を結ぶ。それが逆に、彼の怒りを煽ったようだった。
「着たいかって、聞いてんだ!」
 怒鳴りつけられて、紫萌は恐る恐る頷いた。殴られる。そう思って、ぎゅっと目をつぶる。
 しかししばらく経っても、何も起こらなかった。紫萌はそっと目を開き、前傾姿勢で柱にもたれたまま立ちすくんでいる、父親の顔を覗き込んだ。
 笑っている。虚ろな目をして、低い声で。
「ちょっとあんた、なにやってんだい」
 怒鳴り声に目を覚ました母親が言うと、彼はようやく目が覚めたかのように笑うのをやめ、「とっとと水を汲んで来い!」とまた怒鳴り散らした。
 紫萌は弾かれるように井戸へと駆けて、水を汲む。ふと誰かの声が聞こえた気がして、冷たくなった手を止めた。
 逃げた方がいいよ。
 誰かが紫萌にそう言った。誰の声かはわからない。けれど、よく知った声。姿無き、紫萌の友人の声だ。
「逃げる? ……どうして?」
 答えは無い。水滴が桶を伝って、井戸の水面で涼やかな音をたてる。それはまるで天女の服についていた、鈴の音のようだと、紫萌は思った。
 ――その十日後のことだった。紫萌の村に、人買いがやってきたのは。

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