吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

003 : 不自然な来訪者

 紫萌は顔を真っ赤にして、黙ったままで歩いていた。すぐ前には違う意味で顔を赤くしたノクスデリアスが、どうしてなのか楽しそうに先へ進んでいる。
 ノクスデリアスの頬は、紫萌の掌の形に赤く腫れていた。
「あの、……あの、ごめんなさい。つい」
 気恥ずかしさに俯いた紫萌がそう言うと、ノクスデリアスはにぃっと、底意地の悪い笑みを浮かべて振り返る。最高の玩具を見つけたというような、そういう顔だ。
「痛いなあ」
「ごめんなさい……」
「これ、跡になるかな。すごく綺麗に手の形だけど」
 引っぱたかれたくらいで、跡が残るはずないじゃない。そう言いかけて、紫萌は辛うじて口をつぐんだ。ノクスデリアスの肌はとても白く、赤い腫れがあまりに痛々しく浮かび上がっていたからだ。
 大したことはない。食事に誘いに来たノクスデリアスが、紫萌の手にミミズを乗せた。それで、驚いた紫萌は咄嗟にミミズを放り投げ、返す手で彼を叩いてしまったのだ。
 里で男の子たちと一緒になって、喧嘩をしていた時のことが思い出される。あの頃の紫萌は、負け知らずだった――。
(だってあんまり真面目な顔をして、プレゼントだなんていうんだもの。まさかミミズだなんて思わなかったのに……)
 心の中で呟くと、ノクスデリアスはそれが聞こえたかのように笑った。
「今日の朝食は、藍天梁風のスープだってさ。紫萌が元気になるように」
 ここへ来てからいつも、朝晩の食事はノクスデリアスの屋敷まで行ってとることになっている。年の近いものがいた方が、はやく『塔』に馴染めるだろうという少々見当違いな配慮からのことだったが、紫萌は従うことにした。ノクスデリアスに、『力』を持つと自称するこの少年に、いくらも聞きたいことがあったからだ。
 しかし、実際はどうだ。紫萌は前を歩く少年を見て、小さく溜め息をつく。
「俺はあんまり好きじゃないんだよなあ、藍天梁の料理って。味が薄くて、食べた気がしないし」
 少々カチンとはきたが、紫萌はなんとか心を落ち着け、平静を装った。
(紫萌は、藍天梁の国使なんだから)
 自分自身に、言い聞かせる。先ほどのようなことは、もうないようにしなくては。
(だけどこれじゃあ本当に、口が悪いただの男の子だわ)
 こんな調子で同じ力を持っているなどと言われても、説得力などありはしない。大体彼は、誰かが聞いているかもしれないから、と言ってなかなかその話をしようとしないのだ。
 ノクスデリアスが話そうとしない内容には、もう一つある。紫萌が初めて全知の塔へやってきた時の、環黎についての話の続きだ。
――藍の魔女は、君に不幸をもたらしかねないからね。
 あの時は唖然として聞き返すこともできなかったが、その後に何度尋ねても、彼は「ともかく、事実なんだから」としか答えないのだ。
 そもそも始めに唖然とした理由の大半が、怒りゆえであった紫萌のことだ。これは大いに気分を害する話だった。
 紫萌にとって環黎は、恩人であり、支えであり、心から尊敬し、信頼するただ一人の人物なのだ。それを、しっかりした根拠もなしに『不幸をもたらす』だなんて。
(だめよ、紫萌は国使なんだから)
 ノクスデリアスが味付けのことをどうのと続けながら、どんどん先へ行ってしまう。紫萌は溜め息をついたが、ふと、道の脇からした物音に足を止めた。
「どうかした?」
 ノクスデリアスも、それに合わせて立ち止まる。紫萌は驚いて息を呑んだが、すぐに首を横に振った。そうしながら紫萌は懸命に耳をたて、ノクスデリアスに対しては、一息にこう答える。
「たいしたことじゃ、ないわ。あの、あのね。星蘭にお願いしようと思っていたことを、言い忘れていたって思い出したの。すぐに行くから、先に行っていて」
 ノクスデリアスは不審そうに顔をしかめたが、問い詰めるようなことはしなかった。紫萌は目を逸らすように彼に背を向け、小走りにその場を離れていく。
 声が聞こえたからだ。
 精霊が紫萌に語りかけるのだ。それに混じって、誰かの小さな叫び声が聞こえる。苦しんでいる。その声に、紫萌は胸が潰れる思いだった。
(誰なの? 私に助けを求めるのは)
――行っておあげ、助けておあげ。
――それはいずれ、おまえの力となるだろうから。
 珍しいこともあるものだ。こんなふうに、精霊達が自らコンタクトをとってくるだなんて。
 紫萌はノクスデリアスが立ち去ったのを確認して、そっと道を逸れた。音は、脇の小道の方から聞こえていた。
 標高の高い全知の塔では、熱を失った太陽の光が強く降りかかる。まだ朝だというのに、その光は紫萌の足下へ、黒々とした影を映し出していた。
 紫萌が恐る恐る進んで行くと、そのうち小さな袋小路に行きあたる。屋敷の構造上、仕方なくできてしまった感じのある袋小路だ。そこに這うようにして、何か微かに動くものが見える。
 小さな呻き声。それが先ほどの叫びの発信者であると、紫萌にはすぐに知れた。
(人間だわ)
 うずくまっているのは、紫萌には馴染みのない、金色の髪の少年だ。紫萌よりはいくらも年上に見えるが、その表情はあまりに弱々しい。足に怪我をしているのだろうか、ズボンが赤く染まっている。気づいた途端、紫萌は人影に駆け寄った。
 少年が驚いた顔で目を細め、紫萌の顔をじっと見る。その目が警戒心に満ちていることはすぐにわかったが、紫萌は構わず駆け寄って、少年の脇へと膝をついた。
「ひどい怪我――! 待ってね、今、人を呼ぶわ……」
 駆け出そうとした紫萌の服の裾を、少年が掴む。紫萌が振り返ると、彼は辛そうな顔で首を横に振った。どうやら怪我は足だけではないようで、それだけの仕草にさえ痛々しさが見て取れる。
「でも」
「その黒い髪――。あんた、この塔の住人じゃない、な」
「そうよ。あなた、ひどい怪我をしてる。手当をしなきゃ」
 少年がもう一度、首を横へ振る。その必死の様子に、紫萌は胸が痛むのを感じていた。一体彼は、何者なのだろう。この反応からして、彼が全知の塔の住人ではないこと、そして恐らくは、塔にとって招かれざる客であるだろう事は見て取れる。
(だけど、悪い人には見えないわ。……精霊達も、彼を好いてる)
 紫萌は辺りを見回すと、少年の手を払って走りだした。とは言え、もと来た道へ戻ったわけではない。その逆へ、走ったのだ。馬小屋の中へ飛び込むと、抱えられるだけの飼葉を抱えて戻り少年の上へとまき散らす。三往復もすると、彼がすっかり隠れられるくらいにはなった。
「ごめんなさい。私もあまり遅れると、何をしていたのかと聞かれてしまうから……。だけど、少しだけここで待っていてね。私、屋敷を預かっているの。あなたを匿ってあげられるわ」
 少年は抵抗する気力もなかったのか、されるがままに飼葉をかぶっていた。それでもこの時になってようやく一度顔を出し、紫萌へにやりと笑ってみせる。
「助かるよ、どこかの姫君……。けど、立ち去る前に、……ご自分の服を払って行った方が、良さそうだ」
 言われて紫萌は、自分の服が飼葉にまみれていることをようやく自覚した。顔を赤らめて服を払い始めると、少年も手だけを動かし手伝って、そのうち再び、飼葉の中に埋もれていく。
「私は紫萌よ。藍天梁が女帝、環黎の養女。必ず迎えにくるから、ここで待っていてね」
 小さく、返事が聞こえた気がした。紫萌は一度頷いて、ノクスデリアスの屋敷の方へと走って行く。
 急いで行って、戻らなくては。あのひどい怪我。紫萌のすることにも抵抗できなかったのだ。誰かに見つかれば、すぐに掴まってしまうだろう。そこで手当を受けられるというのなら良いのだが、そう上手くいくものでもない。
 しばらく走ると、すぐに屋敷は見えてきた。その前に、数人の人影が見える。一人はノクスデリアスだ。他の二人は、どうやら警備の者のようだが――
「セーマ!」
 紫萌が呼ぶと、警備兵の一人が振り返った。見覚えがある。紫萌が初めて藍天梁へやってきた日に、塔の人間の白髪について、教えてくれた青年だ。
 彼も紫萌に気づいたようで、その表情にふと、笑みを浮かべて返してくれる。
「紫萌殿。おはようございます。これから、ご朝食ですか?」
 尋ねられて、紫萌は素直に頷いた。ノクスデリアスはその隣でつまらなそうに腕を組み、はやく屋敷の中へ立ち去りたいとばかりにセーマから顔を背けている。ちょうど話は終わったところなのか、セーマは苦笑しながらも、持ち場へ帰る旨を彼に伝えた。
 紫萌はためらいがちに「ごくろうさま」と労って、ふと、セーマが腰に帯びたものを見て表情を曇らせる。一振りの長剣。以前会ったときは環黎の前であったからという理由もあるだろうが、そんなものは持ち歩いていなかったはずだ。
「あの、……何か、あったのですか?」
 胸が鳴ったのを隠すように、紫萌は早口にそう尋ねた。
 先程の少年のことが、どうしても脳裏に浮かんでくる。セーマが躊躇うようにもう一人の警備兵と顔を見合わせたのを見て、紫萌の不安は確信に変わった。
「実は不審者が、この辺りに侵入した痕跡が発見されまして」
(――やっぱり!)
 紫萌の表情を読み違えたのか、セーマは微笑んで膝をつくと、紫萌の視線に合わせて「大丈夫ですよ、紫萌殿のことは、我々がお守りしますから」と言った。そんな様子だったから、紫萌の疑問には驚いたようだ。
「あの、その人は……何か悪いことをしたの?」
 セーマは目を瞬かせて、それから、「いやあ……」と困ったように頬を掻く。
「不法侵入ですからね。それ以外には、どちらかというと、これから何かしでかすかもしれない、としか……」
「それなら、もし、もしもその人を見つけても、痛いことをしないであげてほしいの。だって、もしかしたら誤って迷い込んだだけかもしれないでしょう? だから……」
 それを聞いて、二人の警備兵は苦笑した。セーマに面と向かって「紫萌殿はお優しいですね」と言われ、紫萌は顔を赤くする。
「それでは、我々は職場に戻ります。お食事の前にお呼び止めしてしまい、申し訳ありませんでした」
 礼儀正しく二人が去って行くのを、紫萌は不安げに見送った。
 ノクスデリアスが不満そうに、「はやく行こう」と言って去っていってしまう。紫萌が追いかけると、彼は余計に歩調を速めたようだった。
 
 朝食の時間は、いつもうるさい。ノクスデリアスが何だかんだと口を止めないからだ。彼は意外に博識で、普段は紫萌も相槌を打ったりするのだが、今日ばかりはそういうわけにもいかなかった。紫萌が上の空でサラダを口に運んでいると、ノクスデリアスは些か憤慨した様子でこんな事を言った。
「紫萌、さっきから何を考えてるんだよ?」
「……え?」
 言われて初めて、紫萌は自分があの少年のことばかり考えていたのだと気がついた。せっかく話していたのに、相手がそんな様子では、確かに気に障っただろう。紫萌が素直に謝ると、ノクスデリアスはふん、と鼻で言って、そっぽを向いてしまった。相当ご機嫌斜めなようだ。
「どうせ、藍天梁に帰りたい、いつになったら帰れるんだろう、とか、そんなことばっかり考えてたんだろ」
「それは……あの」
 実際は少し違うのだが、すっかり勘違いされてしまったようだ。しかし誤解を解くつもりなら、あの少年のことも話さなくてはならない。紫萌がためらっていると、ノクスデリアスは構わず続けた。
「無駄なことを考えるのはやめなよ。みっともない。言ったろう。紫萌は藍天梁になんて帰らない方が良いって」
 ノクスデリアスの語気が、どんどん強くなる。紫萌はびくりとして、手にもっていたフォークを食卓へ置いた。
 怒っている。彼の周りを取り巻いていた精霊達が、驚き慌てて飛び立って行くのがわかった。
「藍天梁へなんか帰るなよ。俺達が集まれば、誰にだって負けないはずなんだ。全知の塔にだって、藍天梁にだって……。わからないの? あの魔女は、紫萌、君を利用したいだけなんだよ!」
 どん、と苛立たしげに机を叩いて、ノクスデリアスが立ち上がる。紫萌は驚いてしばらくものも言えずにいたが、ノクスデリアスが立ち去ろうとするのを見て、その後を追った。
「い、今の言葉……取り消して!」
 馬鹿馬鹿しそうに、ノクスデリアスが紫萌を一瞥する。紫萌は悔しさに涙をこぼしたが、一歩も退かずにこう続けた。
「環黎様は、そんな方じゃない! 紫萌のこと、とても大切にしてくださるもの――。紫萌のことだけじゃないわ。環黎様は、誰にだって優しい。いつも国のみんなのことを思ってる……」
「それが、騙されてるって言うんだよ! 俺達のように力をもった人間を、利用する気もなしに育てる人間なんかいるもんか!」
 ノクスデリアスが部屋を出て行くと、ばんっと大きな音をたてて扉が閉められた。紫萌はしばらく立ち尽くしたまま泣いていたが、やがて騒ぎを聞き付けてやってきた給仕達が、その涙を拭いてくれた。
(どうして、そんなことばかり言うの)
 彼はいつも、意地悪だ。それなのに、紫萌はどうしても彼を憎むことができなかった。
 理由はわかっている。彼の周りの、精霊達の表情がわかるから。
(ねえ、どうしてあなたは……いつもそんなに、悲しそうなの)

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