吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

002 : 朝を告げる

 暖かな日差しの下、大きな屋敷の一室にて。
 外では鳥が鳴き、精霊達が舞っている。のどかな一日の始まりだ。しかしそれらに反して、紫萌の心は深く沈んでいた。
 全知の塔へ残されてから、今日でもう三日になる。紫萌は部屋の中を見回して、ふう、と小さく溜め息をついた。
――紫萌。
 旅立ちの際に紫萌の名を呼び、微笑んだ環黎のことが思い出される。いつもなら大好きでならないその声が、今回ばかりは恨みに思い出された。
「紫萌。わたくしは先に国へ帰るけれど、おまえは供を連れてここへお残り。国使としてここで寝起きをし、藍天梁の名に恥じぬよう、立派に務めを果たしておくれ」
 まさに、寝耳に水だった。今回の訪問は数日かかると聞いてはいたが、まさかこの見知らぬ国へ取り残されるだなんて、考えてもみなかったのだ。突然のことに紫萌は驚いて、目の前が揺らぐほどだった。
「環黎さま! 紫萌にはそんな、大事はつとめられません。紫萌をおいて、お帰りにならないでください。きっと紫萌は環黎様がいらっしゃらなければ、失敗ばかりしてしまいます……」
 懸命に言葉を探し、やっとのことでそうは話した。環黎は優しい目をして紫萌の頭を撫でると、腰を落として静かに言う。
「あの力を持つ、おまえの身を守るには、こうするのが一番いいの」
 紫萌ははっとなって、半ば涙に滲んでいた目を拭って、頷いた。
 藍天梁国女帝、環黎の判断はいつだって正しい。それは国中の誰もが知っていることではないか。
(養女にしていただいた恩を忘れて、私が環黎様を信用しないなんて……。だけど)
 紫萌は環黎の出立する牛車を見送ってから、ぽろぽろと泣いた。しかしそんな紫萌を、全知の塔の誰もが優しく慰めてくれたから、紫萌はここでも頑張って行こうと心に決めたのだった。
 けれど紫萌は知っていた。紫萌が泣きじゃくるすぐ隣で、紫萌と同じ力を持つというあの少年、ノクスデリアスただ一人が、にやにやと笑っていたのを。
 
(みんな、とても親切だもの。それに環黎様は、すぐに紫萌を迎えにきてくださるわ。だから……ほんの少しだけよ。寂しいのなんて、一瞬だけだわ)
 そう自分に言い聞かせながら、紫萌はぐっと目を開けた。
 するとすかさず扉の方から、こんこんとノックをする音が聞こえてくる。紫萌が返事をすると、花束を抱えた少女が入ってきた。共に藍天梁からやって来た、紫萌の侍女の星蘭(せいらん)だ。とはいえそんな役職名は、便宜上のものに過ぎないのだが。
「ねえ星蘭。私達、いつになったら藍天梁へ帰れるのだと思う?」
 星蘭と呼ばれた少女は困ったように微笑んで、「もうじきですよ、紫萌様」と答える。紫萌はふくれて、ベッドに腰掛けたまま足を投げ出した。紫萌より幾らか年上のこの友人は、時たまこういう事を言って、紫萌の事を困らせるのだ。
「またそういうことを言う。星蘭。お願いだから『紫萌様』だなんて言わないで。そのことは、環黎様にもお許しをいただいたじゃない」
「紫萌様こそ、そんな格好をしないでちょうだい。はしたないわ」
 星蘭も頬を膨らまし、花を花瓶に飾りながらそう話す。二人はそのまま互いを見て、視線が合うなり吹き出した。
「でも星蘭、一緒に来てくれて本当に良かった! 私一人じゃこんなところ、きっとすぐに挫けちゃったと思うの」
「私だって、環黎様には本当に感謝しているわ。紫萌を一人で来させていたら、私、きっと今頃は心配で、気が気じゃなかったはずだもの」
 そうして二人は、再び笑った。紫萌はいそいそと着替えを済ませて、ふと目に入った窓から外を見渡す。
 全知の塔は不思議なところだ。高く切り立つ山の斜面に、段々になって家や田畑が作られている。オルビタの屋敷はその上層にあり、紫萌達藍天梁の人間は、山を半ばまで登った辺りの屋敷を与えられていた。
 この辺りには既に畑や牧場などは無く、格の高そうな家が広々と建てられている。この国には階級制度があるということだから、おそらくは上位階級の人間が住む土地なのだろう。
 生まれながらに階級を決め、人々の価値を決めてしまうなんて、なんとなく嫌な感じはする。けれど恐らく、紫萌にはまだ理解できないような、大人の事情があるのだろう。今の紫萌にできることは、藍天梁に生まれてよかったと思うことだけだ。
 紫萌は藍天梁の、貧しい村に生まれた子供であった。環黎が国を統治するようになってからは税が減り、随分ましにはなったと聞くが、それでも元来の貧弱な土地や、厳しい自然環境に変わりは無い。人々は常に飢え、冬は火を炊く薪を節約するため、家族で体を寄せ合い暮らしていた。
 そんな生活が終わったのは、紫萌が五つの時の事であった。その時のことを紫萌は、今でもよく覚えている。
 紫萌が一人で、町の外れを歩いていた時のことだ。紫萌はこういうことをよくする子供だった。そうして一人で歩いていれば、『彼ら』と存分に話すことができたからだ。
 『彼ら』と話をすることに、大人達は皆いい顔をしなかった。始めは、腹が減っているのか、こんな村に生まれたからねと優しくしてくれていたが、始めだけだ。段々と自分を見る目が白くなって行くのを感じて、紫萌は人前で『彼ら』と話すことをやめた。
 畑がうまく行かない時、家畜がいなくなった時、紫萌はこっそりと『彼ら』に尋ねた。『彼ら』は大抵のことを知っていたし、たまに気が向くと、紫萌の助けになってくれることもあったのだ。
 そうして『彼ら』が何であるのかを教えてくれたのが、他でもない環黎だった。
 
 初めて環黎に出会った時、紫萌は思わず自分の目を疑った。ろくに整備もされていない、砂っぽい道でのことだった。そこに美しい着物をまとった、天女のような女性が立っていたのだ。
 色は白く、目は切れ長。細く長い指は、ひび割れることも皺を蓄えることもなくすらりと伸びている。
「おまえは、この村の娘かい?」
 天女の声にそう聞かれ、紫萌は阿呆のように口を開けたまま、頷いた。それから丈の短くなった自分のシャツで、砂に汚れた顔を拭う。この人が本当に天女なのなら、泥人形のような自分の身なりは、失礼なのではと思ったのだ。
「やはり。では、この先に件の村があるのですね。……思った以上の様子。稜幕、聞こえましたね。荷車をすぐに村へ向かわせなさい。持ってきたものを、皆平等に配って」
 天女の後ろに控えた男が短く返事をして、去って行く。もう一人傍らに立っていた男が何かを合図すると、少し離れた所から、立派な牛車が向かってきた。質素ではあるが上品に飾られ、ゆっくりとひかれてくる牛車。その周りには天女には劣ることながら、立派な身なりをした人々が控えている。
「ここで何をしていたのかは知らないけれど、おまえももう、村へお戻り。でないときっと、損をしますよ」
 天女がそう言って悪戯っぽく笑ったのを見て、紫萌はようやく我に返った。一体、この人たちはどこの誰なのだろう。どうして、こんなところを歩いているのだろう。美しいべべが汚れるだけで、この先の村には何もないのに。
 天女が牛車に乗り、別世界の住人たちは皆、紫萌の元から去って行く。それはごく自然なことで、紫萌はしばらく立ち尽くしてしまった。しかし。
(いけない)
 心が小さく鳴るのを聞いて、紫萌は心中、そう呟く。そうして次には、足が天女たちを追っていた。『彼ら』が紫萌に耳打ちしたからだ。
「だめ、天女さま!」
 追いかけながら、紫萌がそう叫んだ。呼ばれた天女は驚いた顔をして、それでも、牛車を止めて振り返る。
 紫萌はいくらかの距離を取って立ち止まると、真っすぐに天女の目を見て、言った。
「このまま進むと、牛が足を滑らせる。天女さま、ケガをするから……あたし、あの、他の道を歩いてほしい」
 言うだけ言って、紫萌はすぐさま彼らに背を向けた。そしてそのまま、走り去る。大人は『彼ら』の言うことを聞きたがらない。けれどあの綺麗で優しげな人に、怪我などしてほしくはなかった。ただそれだけだ。その頃の紫萌には、先のことなど想像もつきはしなかった。
 それが紛れもなく、紫萌と環黎との初めての出会いだったのだけれど。
 
 紫萌はしっかりと身支度を整え、髪を梳ると、溜息をついた。そろそろ朝食の時間だと、わかっていたからだ。
「紫萌ったら」
 そう言って、星蘭がくすくすと笑う。
「溜息なんて、可哀想じゃない」
「可哀想なんかじゃないわ。私の方が、よっぽど大変なんだから。いつもいつも意地悪ばっかりされて……。昨日なんて、蜘蛛の巣だらけのところに取り残されたんだから」
「まあ、そうね。わからないでもないけど」
 頬を膨らませて紫萌が言うと、困ったような様子で、星蘭も同意する。
 こんこんと、ノックの音が聞こえてきた。ぶっきらぼうな叩き方。それだけでわかる。ノクスデリアスが朝食を誘いにきたのだ。

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