吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

001 : 全知の塔への招待

「ようこそおいでくださいました。すぐに我が主も参ります。しばらくの間、おかけになってお待ちください」
 身分の高そうな服を着た男が、そう言って紫萌達を奥の部屋へと招き入れた。侍女達に着物の裾を取らせ、環黎が椅子に腰掛ける。その様子を見ながら、紫萌は落ち着かない様子でその場へ立ち竦んだ。
 たった今くぐってきた扉を恐る恐る振り返ると、軍人のような顔をして、背筋を伸ばした男が立っている。顔はまだ随分と若く見えるのに、その頭髪は真っ白だ。それをしばらく見ていると、相手も紫萌の視線に気づいたのだろう。男は不器用な具合に微笑んだ。その微笑みは、どちらかというと苦笑に近いものであったが。
「その者の髪が珍しいのかい、紫萌」
 環黎がそう言ったので、紫萌は戸惑いながらも頷いた。ガラス戸から太陽の光が差し込んで、男の透けるような白髪を照らしている。流れる川のような白髪。同時に紫萌は男の瞳が、深い紅であることに気づいた。
 環黎に無言で促されるまま、白髪の男は静かにお辞儀をしてから、紫萌に向かって話し始める。
「お嬢様、私共の一族は、皆その髪白きにして生まれて参ります。それが私達の誇りであり、生き方でもあるのです。何物にも変わり得る、何物にも染まらぬ白、それが私達の信念とも言えましょう」
 男の低い声が、そう告げた。紫萌は小さく感嘆の息をつき、もう一度その白い髪を眺めてみる。
「――だからあなたの髪は、そんなにも美しいのね。まるでこの薄暗い塔を彩る、希望の光のようだもの」
 言ってしまってから、紫萌は思わずはっとした。薄暗い塔などと言ってしまったが、それはこの神聖な場所を軽んじた発言であるととられはしないだろうか。しかし男は紫萌の考えを察したようで、すぐさま優しくこう告げた。先程よりは、いくらか相手も緊張を解いた様子だ。
「もったいないお言葉です。それでもお嬢様がお持ちの、緑の黒髪には到底及びますまい」
「まあ。そんな……あの、とても……嬉しいわ」
 しどろもどろにそう返しはしたが、顔から火の出るような思いで、紫萌はさっと顔を伏せた。この『塔』へ来てまだ幾時も過ぎないのに、こんなことで良いはずが無かった。
(環黎様はどうお思いかしら)
 視線を下げると、嫌でも自分自身の煌びやかな装いが目に映る。やはりこんな所へ来るのではなかった。精霊達も言っていたではないか。悪い予感がする、きっと嫌な思いをするのだから、おやめと。
 その時唐突に、広間の扉が音をたて、開いた。兵士の男と環黎が、同時に扉の方へと視線を移したのがわかる。紫萌はほんの一瞬迷った後、ぐっと奥歯を噛み締めて、同じく扉の方へと向いた。
 扉から入って来たのは、威風堂々としていかにも権力者といった男が一人、その使用人らしき人間が一人、そして最後に、紫萌より若干年上に見える少年が一人であった。いずれも肌の色が白く、それ以上に、透き通るような白髪をしている。瞳の色は、皆一様に紅。そうして紫萌は一瞬のうちに、最後に部屋へ入ってきた一人の少年から、視線をそらせなくなってしまった。
 何故かはわからない、得体のしれない親近感。扉をくぐって入ってきたのは、どこか精霊達とも似た空気を持つ少年だった。
「久しゅうございます、オルビタ殿」
 環黎が恭しく、しかし椅子には座ったまま、会釈をしてそう言った。男も同じように椅子に腰掛け、この女帝へと親しげに右手を差し出す。
「お元気そうで何より」
「そちらも。しかし今は、再会を懐かしむような場合ではない筈。そうですね」
「勿論、それは承知のこと。――そちらのお嬢さんが、紫萌ですか」
 そう言って、オルビタと呼ばれた無骨な男が微笑んだ。紫萌は戸惑ったが、しかし、こういった社交の場での挨拶ならば慣れたものだ。はっと顔を上げると両の袖の端を指先でつまみ、顔を隠すように頭の前に手を置くと、軽く腰を折って話した。
「紫萌にございます。お会いできて光栄です」
「これはこれは。幼いながら、立派なレディだ。さすがは藍天梁の娘御といったところか。昔一度だけ会ったことがあるのだが、幼かった故覚えてはおらんだろう。しかし、本当に立派に育たれた」
「まだまだ、淑女とは言いがたい幼子ですわ。……となると、そちらにいるのが、話に聞いた少年なのですね」
 今度は、白髪の少年の番だった。少年は優雅に左足を右足の後ろに添え、膝を曲げて視線を落とす。どうやらこの地域特有の挨拶のようだ。この部屋へたどり着くまでに、何度も同じように挨拶をされた。
「ノクスデリアス・イッルストリスと申します。お二方とも遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」
 大人びた口調でそう話し、さりげなく視線を紫萌へ向ける。目があった。少年の表情はわずかに微笑んでいる。
 鼻筋の通った、子供ながらに気品のある顔立ちだ。紫萌は気恥ずかしい思いを悟られないように、そっと顔を伏せた。
(この男の子は一体誰なのかしら。私よりもずっと大人びていて、話し方も笑い方も、既に異国の紳士のよう)
 思いはしたが、一切口には出さなかった。紫萌の隣に座した女性、環黎は、女ながらにして桃邑生(とうおう)大陸随一の大国を治める力を持った女帝だ。その眼前に顔を出すことを許されるのだから、きっと彼も、紫萌と同じように『選ばれて』やってきた人間なのだろう。
「紫萌」
 白髪の少年が、紫萌の名を呟いた。紫萌は驚いたが、彼は何でもないようににこりと笑い、右手を静かに差し出した。
「庭へ行きませんか。塔へ来るのは初めてのようなものなのでしょう。もしよければ、私がご案内します。……いえ、私がご案内したいのです」
 今度は、顔が火照るのがわかった。その様子を見ていた大人たちが朗らかに笑い、どこか張り詰めていた空気が、わずかながら和らいでいく。
「おまえが自分から誰かを誘うなんて、珍しい」
 オルビタが言ったが、少年は答えなかった。おずおずと差し出された紫萌の手を取って、うかがうように環黎の顔をのぞき込む。環黎が苦笑して、「いってきなさい」と、そう答えた。
「もともと、今日はこの二人を会わせるのが目的であったのだし。これから先の話は、子供に面白いものではないでしょう」
「くれぐれも、失礼のないようにな」
 細かい細工の施された扉を押し開けて、二人は部屋を出て行った。紫萌はようやく少し緊張の解けた思いで辺りを見回したが、白髪の少年がさっさと先にいってしまうのを見て、慌てて後を追いかける。
「あの、どこを案内してくださるの?」
 少年は振り返ったが、その表情には既に先ほどのような笑みなどなかった。彼は面倒臭そうに右手で行く先を指さして、ただ「だから、庭へ」と言っただけだ。
(今の一瞬のうちに、何か気に入らないことをしてしまったのかしら)
 紫萌はいささか狼狽えたが、庭へたどり着き、少年が立ち止まるまでは何も言わないことにした。余計なことを言って気を煩わせてしまっては、申し訳ないと思ったのだ。
 しかし紫萌の思いになど関心を向けることもなく、少年は長い廊下を黙々と歩き続けた。歩く速度がやや速い。着飾った紫萌には、ついて行くのが精一杯だ。
 そうして、もうこれ以上はついて行くことも不可能かと思われたころになって、少年が唐突に立ち止まる。いつのまにか廊下の片側は広い庭へと繋がっていて、少年が今度は、そちらの方を指で示した。
「行こう」
「待って、喉がからからなの。お水をもらいたいわ」
「少し行くと、小川が流れてる」
「川の水を飲むの?」
「大丈夫、ここは『塔』だもの」
 言って、少年がくっくと笑った。どうやら機嫌を損ねていたわけでは無さそうだが、それにしても先程とは打って変わった態度だ。紳士じみたところは何一つなく、どちらかといえば野山を駆ける町の子供のような顔をしている。笑う度、不思議な形をした様々な頭飾りが、髪に混ざってしゃらしゃらと鳴った。
「少し急いで歩きすぎたか。許してくれよ。早く、君と話がしたかったんだ。俺達の中で力を使いこなせているのは、俺と君だけのようだから」
「力って、何のこと?」
 紫萌は驚いて、しかし咄嗟にそう言った。紫萌の持った『力』のことは、環黎以外に知る者がいないはずだったのだ。
「俺には隠さなくていい。いや、隠す必要がないよ。どうせわかってしまうからね。君も、精霊達に聞いてごらん。きっと答えがわかるから」
「――あなたにも、精霊の声が聞こえるの?」
「他の人には秘密だよ。俺はまだ、能力に目覚めていないことになっているんだ。そんなことを話してしまったら、馬鹿な大人達が何を考えつくか、わかったものじゃないからさ」
 少年は笑ってそう言った。その表情は、楽しくて楽しくて仕方がないというような、子供らしい、しかしどこか意地悪な感じのするものだった。
「そう。俺は君とおんなじだ。だから君に警告しておきたくて、こんな庭まで連れてきたんだよ。大人達には聞かれちゃまずいからね。もっとも、大人達も今頃は、俺たちに聞かれちゃまずいことを話しているんだろうけれど」
「警告……? 一体、何の話をしているの? 私、何故今日ここに来なくてはならなかったのかも、全く何も知らないの。順を追って、」
「あまり時間がないんだけどね」
 紫萌が言い終わらないうちに、白髪の少年がぴしゃりと言った。紫萌も負けじと、言い返す。
「それでも、ちゃんと話してくれなければわからないわ」
「おや、さっきの粛々とした少女はどこへ行ったのだろう」
「紫萌は事実を言っただけよ」
「うん、確かにその通りだ。けれど時間が無いのも確かだから、本題から言わせてもらう。紫萌。君、今すぐあの国を出た方がいい。藍天梁の女帝……藍の魔女は、君に不幸をもたらしかねないからね」

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