吟詠旅譚

海の謡 第一章 // 藍の魔女と全知の塔

000 : 起憚

「良い子にしておいでなさい、紫萌(しほう)。わたくしの言ったことをしっかり覚えているね? ここはこの大地で最も神聖な場所。けっして粗相をしてはならないよ」
 藍天梁国(らんてんりょうこく)女帝環黎(かんれい)がそう言うのを、紫萌は一つ一つにうん、うんと頷きながら聞いていた。それを見れば環黎は、満足そうに微笑んで、紫萌の真っすぐな黒髪を優しく撫でてくれる。
 紫萌が、十の誕生日を迎えた日のことである。
 美しい錦に覆われた牛車が、カタカタ言うのをやめて止まった。紫萌が尋ねるように見上げると、環黎の指導者然とした壮麗な顔が引き締まり、御簾の向こうへ視線を移す。
「着きましたよ。さあ、行きましょう」
(ああ、もう着いてしまったの)
 紫萌はそっと目を伏せた。牛車の外へ、降りたくない。ここへ来る道中、このまま牛車が止まらなければいいのにと何度願ったことだろう。
 紫萌は小さな手で自分の胸元を押さえると、懇願するようにこう言った。
「環黎様、紫萌は行きたくありません。なんだか嫌な気分がするのです」
「長く牛車に揺られていたから、そう感じるの。外に出れば、気分も良くなりましょう」
「違います、環黎様。紫萌は……だって、ここはとても特別な場所なのでしょう。とても緊張してしまうし、それに……」
「大丈夫ですよ。わたくしが威かしすぎてしまったのね――。気をつけなければならないけれど、心配することなど何も無いの。紫萌は藍天梁の子で、それにとても利口な子。今日は少しおしゃれもして、あなたの可愛らしい振る舞いが、いつも以上に映えることよ。安心して。さあ、行きましょう」
 合図をすると、牛車の御簾が音も無く開く。環黎が地面に敷かれた絹の上に降り立つと、甘いお香の香りがした。
「いらっしゃい、紫萌」
 紫萌は口を真一文字に結んだまま、目の前にそびえ立つ『塔』へ視線をやった。それは『塔』と名のついた、大きな大きな町だった。

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