吟詠旅譚

外伝 // ディア・ミィ

エピローグ・1「心持つ『牙』」

「何を警戒しているんです。さあ、入ってください」
 ナファン殿が苦笑混じりにそう言うのを聞いて、僕は小さく唾を飲み込んだ。ああ、結局ここまで来てしまった。そう思いながら溜息をつき、負傷した右肩を、左手でそっと撫でつける。
 案内されたこの執事の部屋は質素で、隅から隅まで整理整頓がなされていた。絨毯は飾り気のない黒。置かれた机も寝台も、いかにもつましい木造だ。僕は一脚しかない椅子へ勧められるまま腰を下ろすと、コーヒーを煎れ始めたナファン殿の背に向かって、まずはへらりとこう笑った。
「あの、……さっきも言ったけど、傷はたいして酷くないんです。手当も、もう済ませてあるし。ナファン殿は闘技会の準備で忙しいでしょう? 僕のことなんて、構わなくても」
 どうか、ここで手を引いてほしい。
 それは切実な思いだった。ここで手を引いてくれさえすれば、僕は何にも気兼ねすることなく、今回の任務を続けることができる。
 この実直でお人好しな男を、傷つけずに済む。
 そう考えて、僕は思わず苦笑した。唐突に、自分が一体何に怯えているのか、気づいてしまったからだ。
 だけどそんな僕の思いをよそに、ナファン殿は僕の言葉に応えなかった。そうしてコーヒーをカップへ注ぎながら、唐突に、こんなことを言う。
「物騒な物をしまいなさい」
 言われて僕ははっとして、左手の内に忍ばせていたリッソを握り込む。しかしそうしてしまってから、この男の言葉へ素直に従ってしまった自分に驚いた。咄嗟に目の前の男、ナファン殿の方へと視線を移したが、この男は依然として、優雅にコーヒーを煎れているのみだ。
 一瞬感じた、あの威圧感はなんだ? けっして強い口調ではなかった。それにこの男からは、少しの殺気も感じない。背中を見ても隙だらけだ。なら、一体、何故……。
「物騒な物って、なんのことですか」
「この部屋にはミルクを置いていないので、砂糖だけでも構いませんか?」
 ナファン殿の声は、あくまで優しく落ち着いている。僕が何も答えずにいると、彼はにこやかに微笑んだまま、僕の前にコーヒーを置いた。
「そんな物を使わなくても、私の口などいつでも封じられましょう。私は見たとおり、武芸には疎い人間ですから。……腕を見せたがらないことから察するに、焼き印でもお持ちですか? ならば今更隠さなくていい。どうやってその制服を手に入れたのかは知りませんが、刺客を一人で食い止めたという話を聞いた時点で、あなたをただの少年近衛兵だとは思っていません。――いえ、『あなた達を』と言った方が正しいでしょうか」
 紡がれていく言葉の背後に、どくん、どくんと緊張に脈打つ音を聞いた。僕が耐えきれずに立ち上がると、ナファン殿は相変わらずの様子で、「あまり大人をなめないことです」と言って笑う。
「長く武人の執事を務めていたので、そういう勘だけはよくなりました」
 この男はつまり、自分が勘づくような事であれば、主人であったというあの馬番殿も、既に何らか気づいているはずだと言いたいのだろう。そう考えたら僕の中で、何か心に張り詰めていた糸のようなものが、ぷつりと切れたような気がした。
 ああ、任務は失敗だ。もうここにはいられない。
 しかしその事を残念に感じている自分に気がついて、僕は思わず苦笑した。正直なところ、僕は今回の任務に関して、そう乗り気ではなかったのだ。それなのにいつの間にやら居心地の良さを感じていたらしい自分に、少し、腹が立つ。
「――つまりここであなたの口を封じただけじゃ、足りないということですか」
 僕が静かにそう問うと、この男は鷹揚に頷いた。それからまた穏和な声で、「意外とあっさり認めるんですね」とも。僕は答えなかった。その代わりに握りしめていたリッソを袖の中へ戻すと、苦々しい思いを隠しもせずに、どっかと椅子へ座り直す。
「追放するなり捕らえるなり、あなたの好きにしたらいい。大切な殿下のそばに、僕みたいなのがいたんじゃ不安でしょう」
「何故です。殿下が刺客に襲われたときは、その身を呈して護ったのでしょう? 優秀な護衛じゃないですか。それに殿下の言葉を信じ、私たちに危機を伝えに来てくれた」
「……、それを本気で言っているんですか」
 聞いたナファン殿が当たり前のように頷いたのを見て、僕は短く溜息をした。ああ、やはり、彼らは平和に慣れすぎている――。そう思うと、何故だか心がむかむかしたのだ。
(僕らがここへ来た目的が、『本業』をなすことだったらどうする気だ)
 左手で、負傷した右肩を押さえつける。その下にしまい込んだ焼き印の形を思い返しながら、僕は小さく、薄く笑った。
 焼き印でもあるのかと、目の前の男はそう問うた。ああ、確かにその通りだ。それも奴隷が捺されるような、身分を示すための印じゃない。人に害為し、罪を重ねてきた証の印だ。
 護ることよりずっと、奪うことに慣れている。クラヴィーアの第三王子を護衛しろだなんて珍しい命令を受けて、どれだけ戸惑っていることか。
(それなのに、『優秀な護衛』だって?)
 刺客に襲われたあの時は、仕事だから庇っただけ。わざわざ僕らだけでマラキア宮へ戻るなんていう奇行に付き合ったのも、本当に、ただの気まぐれだ。彼が、アルトが「故郷が炎に燃える」なんて言うものだから、感傷に浸って、他人事に思えなくて、手を貸してしまっただけなんだ。
(それにもし、依頼の内容が)
 ただ護衛を命ずるだけのものでなく、彼を首都スクートゥムへ向かう道中から逃さないことであったなら。僕らは多分、そうしたはずだ。
 更に言うなら、依頼の内容が彼の、アルトの暗殺を望むものであったなら、僕らは多分、そうしたのだ。
 この男は、それをちっとも理解していない。もしも僕らに依頼された任務の内容が変わったなら、――僕らはいつでも、このマラキア宮の人間の敵になりうるのに。
 そう伝えたら、この人のいい執事はどう反応するだろう。考えれば自然と、僕の口元がうっすら弛む。しかしそうして顔を上げ、僕は息を飲み込んだ。
 僕を見据えるナファン殿の表情が、静かにくしゃりと、歪んだからだ。
「どうか殿下の、善き友人でいてください」
 この執事は一言、まずはそんなことを言った。
 すぐには答えられなかった。答えるための言葉が、少しも浮かんでこなかった。
 何故だろう。何故だかこの時、こう思った。もしかしたらこの男は、ほとんど全て勘づいているのかもしれない。僕らの正体も、考えも、全てわかっていながら、こういう無理難題を言っているのではないだろうか、と。
「あの方は素直で、ご自分が正しいと思ったことに対して従順です。けれどその分、自身の作った型へ無理に自分を押し込もうとする。……だからそばに、何もかもを包み隠さず相談できる友人にいてほしいのです」
「――でも、僕は」
 舌が絡まって、うまく言葉を紡げない。もとより僕自身も、自分が何を言おうとしているのか、まったく理解していなかったのだけれど。
 息が詰まった。何故か、無性に叫びたかった。
 わかっているくせに、何故そんな事を口にするんだ。
 友人なんて、そんなの無理に決まっているのに。だって、僕は、僕たちは――。
 ふと、先ほど馬小屋で、目の前のこの男が涙を見せたことを思い出す。
――昔がどうだったって、デュオが俺の友達でいてくれたこととか、ナファンが世話を焼いていてくれたこととか、……そういうのが嘘だったって事には、ならないと思うから。
 この男の今の主は、そんなことを言っていた。この誠実そうな執事も、結局のところ、長年アルトを欺いていたのだ。だからその言葉に許されたような気になって、ついつい泣いてしまったのだろう。
 その気持ちは、僕にも少しだけ理解できる。それにあの時クロトゥラが、何かを期待するように微笑んでいたのを、僕は知っている。
 だけど。
「僕は、抜き身の剣ですよ」
 恐る恐る、そう答える。するとナファン殿はやはり微笑んで、何事もなかったかのように、あっさり僕に背を向けた。
「ならば形は問いません」
 相変わらずの穏やかな様子で、今更自分のカップにコーヒーを注ぐと、彼は砂糖を二つ落とす。それが少しずつ融けていくのを見ながら、この執事は静かに言った。
「抜き身の剣も使い方次第で、あの方を支える杖となり、あの方を守る楯となるでしょうから――」

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