吟詠旅譚

外伝 // ディア・ミィ

第七節「隔てる刻印 -2-」

 肩まで伸びた黒髪を無造作に結び、その長身に釣り合った太い剣を腰に帯びている。その男の姿にはいかにも威圧感があり、僕は思わず、ごくりと唾を飲みこんだ。
 見知らぬ男だが、クロトゥラには面識があるのだろうか。事の次第がわからない僕は、それを問うつもりで隣に佇む弟を見た。けれどクロトゥラは顔を青くして、何も言えずにじっと男を見ているだけだ。
「兄弟――いや、双子か? 見分けがつかないほどそっくりだな。ガキのお守りなんてまっぴらだと思っていたが、面白そうなもんを見つけちまった」
 男がにやつく顔を隠しもせずに、口ひげを撫でつけながらそんなことを言った。クロトゥラは口を一文字に結んだまま、答える様子は少しもない。しかし男は気にしたふうもなく、自分本位に言葉を続ける。
「なるほど。金がほしいと言ってたのは、その片割れの病気を治すためか? 健気なことだが片腹いてぇな。もっと早くに見殺しにしておけば、おまえも幾分、楽ができただろうに」
「――僕を、見張ってたの」
 男の言葉に被せるように、クロトゥラが強くそう問うた。しかしその声が、怯えてわずかにかすれている。
 男は笑って取り合わない。
 そうしてそいつは無遠慮に僕らの方へ歩み寄ると、唐突に、僕の肩をむんずと掴んだ。
「や、……やめろ! 何する気だ!」
 男は僕のことを無理矢理立ち上がらせると、それを拒んだクロトゥラのことを、もう片方の手ではり倒す。怪我した右肩を地面にぶつけたのだろう、クロトゥラが悲痛な声を上げたのが聞こえるが、僕は男に肩を掴まれたまま、身動きすることが出来ずにいた。ここまで歩いたとき以上に、視界がふわふわと覚束ない。男に手を放されたら、恐らく立っていられないだろう。
「タチルカ。何やら楽しそうじゃないか」
 また新しい声がする。次にその場へ現れたのは、色黒の若い男だった。髭の男ほど体格がいいわけではなかったが、その笑みはどこか挑発的で、溢れんばかりの自信に満ちている。……一体、彼らは何者なのだろう。しかし答えが出る前から、僕は焦点の定まらないまま二人を強く睨み付けていた。何者だろうと関係ない。こいつらは、今、僕の弟を傷つけた――。
「おや、こちらも使えそうだな」
 色黒の男が偽りめいた優しい笑みを浮かべ、僕を見ながらそう言った。何のことかはちっともわからないが、まるでおもちゃを見つけたかのようなその言い様は、余計に僕を苛立たせる。
「噂に聞く、ミメット熱じゃなさそうだ」
「それにしても、もう殆ど死にかけだが」
「我らがドクター・リパラーレなら治せるかもよ。強い目だ。きっと良い駒になる」
 振り払ってやりたいのに、ちっとも力が入らない。
 放せよ。心の中でそう毒づいた。今はクロトゥラに用があるんだ。クロトゥラと話すためにここまで来たんだ。――おまえらなんかに、用はないのに。
 肩を掴まれたまま視線でクロトゥラを追い、僕は奥歯を噛みしめた。地面に打ち付けた傷が痛むのだろう、クロトゥラは、左手で肩を押さえながらようやく半身を起こしたところだった。両肩が小さく震えている。泣いているのだろうか。それとも、何かに怯えているのだろうか。しかしクロトゥラは僕の心配をよそに、そのうちゆらりと立ち上がった。そうして自らの服の袖へ手を入れると、思った以上にしっかりとした足取りで、僕らの方を振り返る。
 その眼が、酷く、沈んでいた。
「ところで……病気さえ治れば、おまえも片割れと同じくらい速く走れるのか? ボールは正確に投げられる?」
 背後での動きに気付いているのかいないのか、色黒の男がそう問うてくる。質問の意図がわからない僕は押し黙っただけだったが、その間も、視界の端ではクロトゥラのことをじっと見ていた。振り返ったクロトゥラは手に何かを握りしめている。弟は僕を取り囲む二人の男を睨み付け、そして、――
 色黒の男がにやりと笑い、即座にクロトゥラを振り返る。
 男は腰に帯びていた剣を引き抜き、細身のそれを一閃薙いだ。そうして楽しげな笑みを浮かべ、一言、「へたくそ」とだけ言い捨てる。
 ギンッ、と鉄同士のかち合う鋭い音。クロトゥラが投げた何かを、男が剣で受けたらしい。右肩を庇いながら、それでもようやく立ち上がったクロトゥラは今までに見たこともないような怒りの感情をその顔に浮かべ、二人の男を睨み付けていた。
「シロフォノから、離れろよ!」
 叫ぶ。そこに何か、違和感があった。
 今にも飛びかからんという形相で一声吠えて、クロトゥラがまた服の内側から鉄の塊を取り出した。先の尖った鉄の棒。前に遊んでいた的当ての矢にも似ているが、それよりずっと鋭利に尖っている。
 「シェーレにリッソで挑むとはねぇ」タチルカと呼ばれた髭の男がそう言って、短く高く口笛を吹いた。クロトゥラは一瞬それに気を取られたように目を瞬いたが、その直後、シェーレと呼ばれた男が返す手で投げつけたそれを避けきれずに転倒する。地面に突き刺さった物を見れば、男が投げたそれも、クロトゥラが投げたのとよく似た鉄の矢だ。
「――クロトゥラ!」
 息苦しく鳴るその喉で、それでも精一杯に呼びかけた。男が放った鉄の刃が、クロトゥラのシャツの胸元を裂いたのが見えたのだ。僕は安否を問うつもりで髭の男の手から逃れるようにもがき、――しかしそのまま、言葉を呑んだ。
 じゃらりと耳慣れぬ金属音。クロトゥラが慌てて自身の胸元を掴んだが、裂けたシャツの端からおもむろに、小さな巾着袋が滑り落ちる。
 その中に詰まったものがなんなのか、僕には一瞬わからなかった。
――頼むから、もう金輪際、俺の視界に入らないでくれ。
 そう言って、そそくさとその場を離れた男の事を思い出す。
――お前が何度うちに来ようが、雇えねえものは雇えねえんだ。俺だってこの冬を越すだけで精一杯さ。
――鉄を打つのが得意だったら、僕は鍛冶屋になったのかな。
 うなされる僕の隣で、クロトゥラはいつも果物を絞ってくれていた。この弟は怪我だらけになって、それでも、毎日欠かさず食べ物を持ち帰った。
――仕事を見つけたんだ。
 クロトゥラはただ、そう言った。
(だけど、どうやって)
 どうやって、これだけの額を稼いだというのだろう。そう問おうとして、しかし僕は言葉がみつからないまま、ただその場に立ち尽くす。
 地面に落ちた巾着からは、十数枚の銀貨が顔を出していた。
「――あの銀貨のためにおまえの片割れが何をしたか、知りたいか?」
 髭の男が、にやにやしながらそう言った。聞いてクロトゥラが「やめろ」と声を上げたが、男はそれに見向きもしない。恐る恐るクロトゥラへ視線を向ければ、この弟は何も言わず、懇願するかのように首を横に振った。
 ああ、今にも泣き出しそうだ。
「いいじゃないか、話しておけよ。こいつの病気のために、お前はその歳で一生を棒に振ったんだぜ」
「恩くらい売っておかなきゃ、割に合わないだろう?」
 色黒の男が、一緒になってくすくす笑う。そうしてクロトゥラに歩み寄ると、痛々しげに血の滲んだ弟の右腕を、ひょいと軽く捻り上げた。
「クロトゥラ――」
「……見るな!」
 泣き出しそうに目を伏せて、クロトゥラが短くそう叫ぶ。
 言うとおりにすれば、僕はこの優しい弟を傷つけないで済むのだろうか。ほんの一瞬逡巡する。
 だけど。
 色黒の男が、笑ってクロトゥラの右袖をまくし上げる。そして僕は、顕わになった腕に焼き付けられた生々しいそれを、見た。
 怪我したのだろうと思っていた腕の傷口は、しかし僕が考えていた傷のそれとは異なっていた。その肩は火傷で赤黒く腫れ、その腫れの中心には、
 ――家畜の腹にするような、黒々とした焼き印が捺されている。
 僕は何も言えないまま、じっとその傷を眺めていた。この時クロトゥラがどれほど絶望に打ちひしがれた顔をしていたかなど、ちっとも考えることができなかった。正直、また悪い夢を見ているのだろうかと思ったほど、目にした事実に現実味を与えられずにいたのだ。
 その印になんと書かれているのかまではわからなかったけれど、焼き印を捺された人間がどう扱われるかぐらいは、さすがに僕も知っていた。
 昔、ミメットの町でも見たことがある。腕に縄を打たれ、人々に叱責されながらとぼとぼと歩いていたその人が男だったのか、女だったのか、もはや詳しいことは覚えていない。けれど――、ひとつだけ確かなのは、体に焼き印を持つ人間は誰かの奴隷か、さもなければ犯罪者であるという事だ。
「俺達は裏切り者を出さないために、自ら仲間に焼き印を捺す。こいつは銀貨のために俺達の組織へ、暗殺屋へ自分自身を売ったのさ」
 髭の男が、くっくと低い声で笑う。
 
 鳥肌が立った。
 なぜだろう。僕はその時、フェリットのことを思い出していた。焼き印が、フェリットの腕に刻まれた斑紋を彷彿とさせたのだ。
 フェリットのことが大好きだった。初恋だった。
 だけど僕は、走り去るフェリットを追おうとはしなかった。
 恐ろしかったから。
 死にいたる病が。
 僕らとフェリットを隔てるように浮かび上がった、あの刻印が。

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