吟詠旅譚

外伝 // ディア・ミィ

エピローグ・2「ディア・ミィ」

「へえ、素直に手当てしてもらったんだ」
 背後から聞こえたその声に、僕は思わずギクリとした。僕にあてがわれた、分不相応に豪奢な来賓室での事だ。
 この時僕は、窓辺でぼうっと夜空を眺めていた。頭の中がごった返して、何から考えればいいものだか、すっかりわからなくなってしまっていたのだ。
 自分のした事に、正直自信が持てなかった。運命共同体とも言える弟へ、なんの相談もしなかった事に、罪悪感を覚えてもいた。だからその声を聞いた時、まるで悪事を見咎められたかのように、思わず肩を震わせてしまったのだ。
(ああ、まだ、会いたくなかったのに――)
 清潔な包帯を巻かれた肩へ手をやり、振り返れば、扉の辺りにすっかり使用人のような格好をしたクロトゥラが立っていた。もうとっくに日は沈んでいたのだが、今の今まで何か手伝いでもしていたのだろうか。弟は少し疲れた顔をして、我が物顔で無遠慮に、ベッドへごろりと身を横たえる。
「あの……クロトゥラ、話が」
「傷が残るんじゃないかって、アルトが心配してたぜ。そういうのは、相手が女の時だけ気にしてやれって言っといたけど」
 僕の言葉を遮って、クロトゥラがそんな事を言った。僕は「そうだね」と小さく苦笑して、それから短く溜息する。そうしてもう一度、そっと、右の肩へと触れてみた。ああ、言わなくちゃ。そして、今後の策を講じなくては。
 僕はしばらく、黙って窓辺に立っていた。静かな夜風が吹いていた。そういえば、窓を閉めるのを失念していたのだった――。このまま話を続けるのなら、閉じておいた方がいいだろうか。そんなことを思ったけれど、結局僕はそうしなかった。そんな余裕、僕には少しもなかったのだ。
「――焼き印、見せちゃった」
 ぽつりと、木の葉に残った雨粒を誘導するように、静かに僕はそう呟いた。聞いてこの弟はどう思うだろうと、そればかりが気がかりだ。……今回の任務は近衛に扮して、第三王子を護衛すること。僕らの素性を明るみに出すべきではなかった。それは僕もわかっている。だけど。
 そんなことばかり考えていたものだから、正直、続いた言葉には驚いた。クロトゥラはあっけらかんとした口調で、こんな事を言ったのだ。
「だろうな。傷の位置的に」
 あまりに頓着のない言葉だった。僕は呆気にとられたが、当の本人は寝転んだまま、大して気にしたふうもない。
「ということは、俺達の正体もばれたわけだ」
「うん。……怒らないの?」
 問うた言葉は、クロトゥラのあくびにかき消される。僕は思わず眉間に皺を寄せたが、それきり続く言葉はなかった。ベッドに横たわった姿だけを見ると、このお気楽な弟は、疲れ果てて眠ってしまったようにさえ思われる。
 心が焦れた。まさか、こんなふうに返されるとは思っていなかった。僕の胸の内に、得体の知れない苛つきが募っていく。
 何か、言えよ。眠ってなんかないんだろう。
 こちらは相応の覚悟の上に、やっとのことで言ったのに。
(文句があるなら、――はっきり、言え!)
 そう言うつもりで左の拳を握り締め、しかし僕はすんでの所で、殴りかかるのを踏みとどまった。クロトゥラが唐突に身を起こし、短く、明瞭な口調でこう言ったからだ。
「それで?」
 何を問われているやら、わからなかった。僕が苛ついた口調のまま「何が?」と不機嫌に問い返せば、クロトゥラはやはり頓着しない平坦な口調で、こんな事を言う。
「ナファン殿は、なんだって? 今のところ、追い出されたり吊しあげられたりしそうな気配は感じないし、そうそう話が広まっているわけでもないみたいだけど……。これは寛大な御沙汰が下った、と受け取っても良いのか?」
 そう問う顔が、悪戯っぽく笑んでいる。
 今にもはしゃぎ出しそうな、やけに明るい笑みだった。まるでこうなることを予期していたかのような、――否、こうなることを期待していたかのような言い様だ。
 なんだか嫌な予感がした。
「なあ、ネロ」
 急にまじめな顔をして、弟が僕の真名を呼ぶ。僕はそれに答えなかった。
 ふと、この任務に就く直前のことを思い出す。まさかクロトゥラはあの時のまま、望みの薄い期待に胸を躍らせているんじゃないだろうか――。
 
「――また『出稼ぎ』だってさ」
 不満を隠しもせずにそう言って、僕は手にした司令書を投げ捨てた。そうして軋む椅子へ浅く座ると、ダイニングテーブルの上へ行儀悪く足を載せる。床に座り込んで作業をしていたクロトゥラは、煤が付いたままの手でそれをつまみあげると、「楽そうな仕事で結構じゃないか」と呟いた。半年前、僕らがまだシナヴリアにいた頃の話だ。
「タチルカがよこした仕事が、一筋縄でいったことなんてあった?」
「……。まあ俺達にまわってくる時点で、それなりに面倒なことは間違いないが……。でも、騎士の真似事なんて面白そうだ。俺は長い休暇のつもりで、楽しむつもりだけど」
 言って、クロトゥラがランタンの火に司令書を翳す。件の司令書はあっという間に焼け焦げて、真っ黒な灰と化した。
 僕らの住むシナヴリアの隣国、クラヴィーア王国第三王子の護衛に付く事。それが今回の任務内容だった。クロトゥラが「長い休暇」と言ったのは、この依頼にかける期間が約半年と長いからだ。まずは当国貴族のカンシオン家――そう先の長くない老婦人が一人いるだけの、没落貴族と言って差し障りのない家のようだが――へ潜入し、クラヴィーアの騎士になる。そうして地位と周囲の信頼を勝ち得てから、どこか辺境に隔離されている第三王子の護衛につかされるらしい。
「騎士って、僕はあんまり好きじゃない」
「別に、病の蔓延した町に火を投げるばかりが騎士の仕事じゃないよ」
 即座にそう返されたのを聞き、僕は迷わず弟の背に蹴りを入れた。けれどクロトゥラは、ちっとも動じた様子がない。それどころか鼻歌でも歌い出しかねない様子で火薬をしまうと、軽やかな足取りで台所へと去っていく。「このトマト、今日中に食べなきゃアウトだな」なんて言う声を聞いたら、僕も、なんだかどうでもよくなってしまった。
「護衛する相手がいいヤツなら、半年と言わず一年でも二年でもいいな。俺は」
「何言ってるのさ。それじゃ、本職は廃業だよ」
 言って椅子を傾ける。二本の足に体重を預けると、おんぼろ椅子がぎしぎし鳴った。
「廃業だよ」
 台所から、繰り返す声が聞こえてくる。
 僕は答えなかった。聞こえなかったふりをした。
 選択肢なんて他に無かった。だってこの弟が考えていることが、望んでいることが、どんなに無謀かわかっていたのだ。
 だけどこの時、実のところ、僕はクロトゥラの言葉を大して気に留めてはいなかった。騎士に扮して王族の護衛だなんて、確かに気楽な仕事ではある。けれどその分すぐ飽きがきて、うんざりするだろうとも思っていたのだ。事実今までにも、似たようなケースは何度かあった。
(大体、――僕らが居つく事なんて、相手方が許さないさ)
 右の肩をそっと撫でる。すっかり定着してしまった焼き印は、まるで始めからそこに在ったかのように、僕の肩に君臨していた。
 捺された時の痛みなど、いつの間にやら忘れていた。
 
「俺達このまま、本物の騎士にならないか」
 穏やかな声でクロトゥラが言う。
 ああ、恐れていたことが起きてしまった。そんなことを考えながら、僕はそっと、ベッドに腰掛けたままのクロトゥラから視線を逸らした。そうして今更窓を閉じる。マラキア宮の春先は、アルトが道中語って聞かせたとおり、暖かで清々しい風に満ちていた。
「『イェル・ド・ホートヴェクセル』――。裏切り者排除の号令がかかるよ」
 ぽつりと、そう釘を刺す。するとクロトゥラは小さく笑って、「今の俺達に、組織の誰が渡り合える?」と自信ありげにそう言った。
「ジェムナは今や隻腕だし、タチルカは若い頃に無茶をやりすぎたせいで、どこもかしこもガタガタだ」
 「数年前に組織を抜けようとしたときは、その二人にボコボコにされたけどね」僕が口を挟んでも、クロトゥラは全く取り合わない。
「シェーレとフェンディは手強いだろうけど、藍天梁に残ったまま、もう何ヶ月も戻ってこない。俺達を追うにしたってここまで来るのに三ヶ月はかかるはずだ。――今を逃したら、こんなチャンスは二度と無いかもしれない。それに」
 口調が徐々に弾んできていることに、この弟は気付いているのだろうか。その様子は、まるで突拍子もない夢を語る幼い子供のようだ。
 だけどこの時ばかりは、そうして熱弁を振るいたくなる気持ちが、ほんの少しだけわかってしまった。僕はふと自らの口に手を当てて、そして、思わず呆れてしまう。
 気付けば僕も、笑んでいた。
 愛想笑いの出来ないクロトゥラの代わりに、笑って事を片付けるのが、長く僕の役割だった。だけど、これは、それとは違う。
 それでも僕は先んじて、クロトゥラが皆まで言い終える前に、彼の言葉へ声を被せた。夢を語るのは自由だけど、僕らが生きているここは、『現実』だから。
「言っておくけど今回のことは、ナファン殿が特別鷹揚な性格だったっていうだけの話だ。マラキアの人達みんなが、僕らを受け入れてくれるはずはない。それにアルトだって、ああ見えて一応王族だもの。焼き印を目にしたら、僕らを見る目も変わるかもしれない。実際、一度刺客に襲われたしね。僕らの素性を知ったら、怖がるかもよ」
 僕が言うと、弟は一旦勢いを落として「そうだな」と苦笑した。しかし、ぽつりと、こう付け足す。
「でも、俺は信じたいな――」
 言ってクロトゥラが朗らかに笑った。
 久々に見る表情だった。
 
――抜き身の剣も使い方次第で、あの方を支える杖となり、あの方を守る楯となるでしょう。
 ナファン殿はそう言った。それが本当に正しいのか、今の僕にはわからない。
――直属の騎士になってくれないか。……俺はただ、本音で話せる友達にいてほしいんだ。
 アルトは僕に、「信じる」とただ言った。そして、「力を貸して欲しい」とも。
 
「ねえ、ネロ。……僕たち大人になったらさ、こんなところ、出て行こうよ」
 幼い頃、そう言いだしたのは実のところ、僕の方だった。
 朝から晩までこき使われて、怒鳴られて、傷だらけになって、心身共に疲れ切っていた僕はそれでも、毎日のようにそう言った。
「強くなって、あいつら全員倒して出て行くんだ。それで、僕らのことを必要としてくれる人を探すんだよ」
 クロトゥラもそれを聞く度に、必ず「うん」と頷いた。
 だけど僕らは少しずつ現実を知り、いつからか、そんな想いを口に出すことはしなくなった。僕に関してのみ言えば、殆ど諦めてさえいた。
 もしも力ずくで組織を抜け出したとしても、僕たちの居場所など他のどこにもないのだろうと思っていた。あの焼き印が腕にある限り、僕らには、誰かに認められ、誰かに頼られることなどあり得ないのだと、信じて疑わなくなっていた。
 だけどクロトゥラ。君はどうやら、僕より諦めが悪かったらしい。
 
「……ところで、殿下。私を騎士にと仰せのお言葉、今もお変わりありませんか」
 数日後、僕は薄暗い洞の中で、頭を垂れて尋ねていた。
「お前の口振りは俺を皇王にしたがっているように聞こえたが、俺は心を決めかねている。その期待に応えるという約束は、出来ないぞ」
 静かな声で、アルトが言った。僕は「御意のままに」と言葉を返す。
 それでもいい。僕が欲しいのは、高い位なんかじゃない。僕が欲しいのは、僕たちが望んでいたものは、――。
 僕の肩に乗った白刃が、ぎらりと一度、きらめいた。そこに映った自分を見て、僕はもう一人のネロを思う。
 さあ、行こう。今いる場所を出て行こう。
 僕らはようやく、そのチャンスを手に入れたんだ。
「血と骨に刻め。これより汝の信念は、常に私と共にある」
――Fin.
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